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OH!へんろ。親子の88か所巡り(75番札所):五岳山 善通寺(香川県)

わたしが、子どもたちと決めた今回のお遍路ルールは一つだけ。納経所で御朱印をいただくのは子どもたちの役割ということ。ちゃんと挨拶をして、御朱印をお願いし、最後はしっかり御礼をする、です。

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今日の煩悩:

人間はやはり「動物」であり「生き物」であり「有機物」です。これに対して、記号は、当たり前ですが「非生物」であり「無機物」です。

人間の活動には「身体的制約」が伴います、一日に食べることのできる食糧は限られていますし、衣服も一人で着る量には限度があります。なので、人間の身の回りの経済活動にも当然ながら制約が出来ます。それを意識することがサスティナブルなわけです。持続可能な経済活動です。

一方で「記号」の世界では、身体性と言う制約が外れます。極端な話ですが、AIが電子マネーや有価証券をコンピュータのなかの記号を右から左に動かして、お金と言う記号を増やすことが出来ます。身体性の制約が外れていくわけですから、現実世界はお構いなく、ご飯も食べずに、トイレも行かずに、睡眠も取らずに、仕事が出来ます。

身体的制約を逃れると「自由」なのです。ただし、この「自由」は生身の人間の時に面倒くさい生理現象や人間関係や社会的義務などの人間の身体性を捨て去ることで享受できる「自由」です。であるので、インターネットという記号の世界で、匿名性を得る、記号としての人格を生きるということに「自由」を感じることが出来るわけです(すべてが自由ではないですけどね)。

現実世界にいると、やれ親がうるさい、親戚がうるさい、近所がうるさい、職場がうるさい、性別、年齢、学歴の縛りといったように、自分の「自由」が阻害される現象が多々起こります。そうした制約を受けている現実世界の自分のほうが「自由でない」「自分らしくない」という意見を持つのも分からなくもないです。

だからこそ、現実世界では非活動的になり、記号の世界では活動的になるという現象も起こる。固有名詞を持ち、現実世界と記号の世界をパラレルに移動していければ良いのでしょうが、記号の世界に偏って活動的になると、身体性の部分が麻痺してくるかもしれないですね。

結構怖いのは、身体性を軽視した理屈屋さんが作った合理的社会の制度が拡大してくると、そちらに合わせて身体を変えなくならないという本末転倒が生まれる危険性でしょうか。

出来ることならば、子どもたちの世代、孫たちの世代、ひ孫たちの世代においても、踊りながら歩けることが楽しめる、身体性を謳歌できる時代を残せたらなあと、ぷりぷり踊って善通寺を歩く娘の姿を見て思いました。

御詠歌:

 我すまばよもきゑはてじ善通寺 ふかきちかいの法のともしび

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本尊:

薬師如来

創建:

大同2年(807)

真言:

おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

歴史:

善通寺の創建は、唐より帰朝された弘法大師が、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺が由来で、大同2年(807)に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したと伝わっているそうです。

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所在地:

香川県善通寺市善通寺町3-3-1

駐車場:

あり

宿坊:

あり(250人収容)

公式HP:

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