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妻はゼミ生8:制服は拘束のシンボルか、自由のシンボルかー価値はいつも核の周りを揺れ動いてよいー

はじめに

妻はゼミ生を18年くらいやっています。もちろん、本当のゼミ生ではないですよ。私のくどい話を聞き続けて18年ということです。そして、「道徳のテストの点数が高い人を道徳者としてリーダーにする?」という話しが本当にしつこいと思った時は、「カモミールティーを入れましょう」と返してくるのです。

これが出たらね、ゼミは終了です。そして、「ピーターラビットのお皿にスコーンを出そう」という返事をしないと、その後、一週間口をきいてもらえなくなるという地獄を味わうことになります。


今日のテーマは、制服です。

私の娘も小学6年生になり、毎日鏡を眺めては顔をいじり、お洋服のコーデに余念がありません。まあ、お年頃ですからね。そして、それに比例して、父親の発するすべてに嫌悪するという、生物学的にもたぶん適合した行動をするようになるのでしょう。

一方の妻は、娘の行動に反比例して、鏡を見なくなり、それほどお洋服のコーデにもうるさくなくなります。そして、これもですね、生物学的に見ても、きっと正しいのでしょう。自分のことよりも子供や家族の方を見るようになるのだと思います。しかし、子どもが巣立ち始めると、「フェイシャルサロンで月2回♪」と言うことになるのだと思います。これは推測です。

制服は拘束?それとも自由のシンボルか

さて、制服については、「校則がうるさい」「個性を閉じ込める」「拘束のシンボルだ」という意見を聞きます。「うん、うん」と頷き、見守りたいと思います。価値というものは、社会環境などによって変化します。というか、ホモ・サピエンスの生存戦略(戦略=遺伝子レベルのメカニズム)を核として、時代の中でくるくる回るのだと思います。

哲学者の鷲田清一さんの著書の中に、自由のシンボルとしての制服について語られる個所があります(鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションってなに?』ちくま文庫 71頁)。鷲田さんによれば、フランス革命の少し前くらいの時期に、「制服」は自由の象徴として生み出されたそうです。厳しい階級の差があった社会では身なりでそれが分かってしまう。

市民はみな平等、階級や職業も関係ないことを表現するために皆(この時点では男性)が同じグレーや黒のスーツを着るようになったのだそうです。自由を主張するために、市民は同じ格好をした。今話題になる「自由や個性を表現するための衣服」とは考え方が違いますね。

よく考えてみると、動物一般では、オスのほうが色鮮やかで派手なのに、人間の男性はなんでグレーや黒なのだろうと、私も子どもの頃に思っていました。ブダイもオスは鮮やかなブルーで、メスは茶色っぽいしね。

誰が言っていたか思い出せなくて申し訳ないのですが、心理人類学者の女性だったような気がしますが、人間も本来オスが派手な衣装を好んでいたという仮説があるようです。その変化については、やはり、鷲田さんが言っているようなことでした。

文化的な理由で、男性は地味に統一、一方で女性は華美な装いになっていくのだそうです。この辺りは私もよくわかりませんが、男性が自分の財を示すために女性を競って着飾らせたという意見もあるようです。女性の服装を「地位財」のように捉えていたということでしょうか。そうだとすれば「代理承認」の一種でしょうか。

市民の成熟のためにどんどん考えればよい

リベラルは、目の前の現象を理論合理的に分析して「これは意味がなくね?」「時代錯誤じゃない?」と考えるでしょう。それでよいのだと思います。知識を増やして、色々考えて、知識についての知識を持ち、行動するうちに、本当に納得いかないことが分かり、対応すべきことも決まるかもしれません。本当にムカついているのは「自分たちも意味が分からないのに拘束だからと言って盲従している人(学校)の態度」であるかもしれませんし。

思想家の内田樹さんは次のように言っています。

「知識をふやす」というのは「同一平面上で水平移動域を拡げること」である。「知識についての知識を持つ」というのは「階段をあがること」である。
(内田樹『街場の大学論 ウチダ式教育再生』角川文庫 pp. 23-24)
学校というのは子どもに「自分は何を知らないか」を学ばせる場である。一方、受験勉強は「自分が何を知っているか」を誇示することである。
(内田樹『街場の大学論 ウチダ式教育再生』角川文庫 p. 24)
「自分の知らないこと/自分にできないこと」の中に位置づけられてはじめて、「自分が知っていること/自分ができること」は共同的に意味を持つ。
(内田樹『街場の大学論 ウチダ式教育再生』角川文庫 pp. 24-25)

学校は「同一水平上で水平移動域を拡げる」受験勉強だけでなく、おそらく、多様な視点を取得させ、視点の階段を上がることで「知識についての知識」を持つ機会を生徒・学生に認めるべきでしょう。このような価値の回転は、おそらく世代を跨ぐたびに何度となく繰り返されるでしょうし、その共同的経験の蓄積が市民を成熟に導くんだと思います。

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