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妻はゼミ生6:家事・仕事の分担と合成の誤謬

妻はゼミ生を18年くらいやっています。もちろん、本当のゼミ生ではないですよ。私のくどい話を聞き続けて18年ということです。そして、「それぞれの専門家が集まって「正しい」ことをつなぎ合わせても、全体として上手くいくわけでもない。」という話しが本当にしつこいと思った時は、「甘くないカプチーノと一緒にね、TimTumが合うのよ」と返してくるのです。

これが出たらね、ゼミは終了です。そして、「チップス・アホィも捨てがたいよ」という返事をしないと、その後、一週間口をきいてもらえなくなるという地獄を味わうことになります。

いや、まてよ。山岡 士郎は「最高の素材を集めて作った、究極の冷やし中華だ!」みたいなことを言っていたから、最高の素材を合わせれば最高の味になるのか。

今日のテーマは、分担です。

部分合理性と全体合理性

「部分合理性」と「全体合理性」を総合してみることは難しいのでしょう。ミクロなところでは正しそうに見えても、全体として考えたらおかしなことになるという話はよくあります。経済学には「合成の誤謬 (fallacy of composition)」という用語がありますが、何かの問題解決にあたり、一人ひとりが正しいとされる行動をとったとしても、思わぬ悪い結果を招いてしまうということです。部分合理性と全体合理性のつなぎ目における、細かい調整や面倒くさいネゴシエーションが大切ということかもしれません。

生物学の根底には、西洋の思想が反映されています。その思想とは、個が先にあり、世界は個の集合であるという考え方です。けれども本当の生態系はそうなっていないんです。先に生態系があって、それから部分としての生き物が存在している。 養老孟司『日本のリアル 農業、林業、そして食卓を語り合う』PHP新書、154頁

夫婦共働きが一般的になった現代社会ですので、労働で得たお金で家事や育児をアウトソーシングして、さらなる生産活動にその時間やリソースを充てるという考え方も普通になってきました。この方法がベストかどうかはわかりませんが、地縁・血縁コミュニティから離れ、中間組織も衰える中で、核家族化した住民が行政・民間サービスを組み合わせて利用しなくては、生活が成り立たないという日常が回ってしまっている以上、やはり、これに頼り、活用していくことがベターという場合もあるでしょう。

しかし、サービスを組み合わせることができたとしても、やはり「部分合理性」と「全体合理性」を埋めるところには何らかの課題が残るかもしれません。介護サービスにしても、そもそも「お金があったとしても」、人材不足などの理由で、自分が期待しているサービスが受けられないケースも見られるようですし、お金に換算されないような、質感の違いについても考えさせられることになるでしょう。

家事・仕事の分担

さて、普段から仕事を分担することが好きな人がいます。極端な話、自分の担当以外は自分の仕事ではないのでやる義務がなく、まかり間違って、義務でもないことを少しでもやろうものなら、「損をした」「不平等」「いつもやっている」と不満を漏らす場合もあります。

家事についても「共働きなので家事を50%ずつに分けましょう。月・水があなたで、火・木が私。土日は業務内容によって分けましょう」のような分担の話を聞いたことがあります。しかし、担当制を厳密に実施すればするほど人間関係は殺伐とし、うまくいかないのだそうです。

思想家の内田樹さんも知人の話として次のように述べています。待っている側は「担当」の日ではなかったんでしょうね。

残業で疲れて家に帰ったら、台所に汚れた鍋や皿が積みあがったままで、配偶者はご飯を待ってテレビを観ているというようなことがあると「ぷちっ」とキレちゃうんです。
内田樹『困難な結婚』アルテスパブリッシング 138頁

業務を縦割りに厳密に分けても、生きていれば、どちらの担当のカテゴリーにも入っていない仕事が生まれます。そして、誰も手を出さないままでいると、そこから生まれた小さな問題が、とてつもない面倒な問題に成長するのです。

内田樹さんもビジネスのシーンでの出来事について、次のように述べています。

「僕の仕事」と「同僚の仕事」の隙間に「誰のものでもない仕事」が発生する。それを「僕の業務じゃないから」という理由でみんなが放置しておくと、そこから組織が崩壊するほどのトラブルが起きることがある。「蟻の一穴」から堤防が崩れるのと一緒です。
同上書、139頁

妖精さん

それを防ぐのが、妖精さんです。「誰もやらない仕事は私の仕事」と考えて、流れるような動きで、オフィスのごみを拾い、一杯になったゴミ袋を片づけ、空きっぱなしの引き出し、上がりっぱなしのコピー機のフタを華麗な動きで閉め、何事もなかったかのように振る舞います。人知れず、妖精さんのような人が、誰の担当にもなっていない落穂ひろいのような仕事を引き受け、日々メンテナンスに励んでくれています。そして、実は、そういうところこそ、見ている評価者はいるのです。

仕事の場合も「私がメンテナンスの責任者」と思っていた方がいのかもしれません。ただし、家事や育児の場合は少し違いますね。そもそも家事や育児は「評価されるため」にやっていることではないです。いや、評価が欲しということであれば、自分が好きで結婚した相手と、その人との間の子どもなのですから、これでもかというくらい「オーバーアチーブ」して、満足していただければいい・・・かもよ。

修業は続く

言われる前に、気付いた仕事を進んで行い、何か言われた時には居酒屋レベルで「ヨロコンデ―!!」という気持ちで、かつ妖精さんのように生きて行けばいいのです。しかし、なぜでしょう。修行が足りないせいなのか、認識のフレームワークが異なるためか、妖精には届かず、妖怪レベルにとどまっているのです。






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