1.信仰と依存の区別の曖昧さ (親鸞会会員による憂い)

1.)親鸞会依存症 

 日本版Wikipediaに「宗教依存症」という記事がある。参考元がWikipediaとは大分心もとない気はするが、この記事は私が感じる問題点を非常に的確に表している。そこには次のように書かれている。

「宗教依存症(しゅうきょういそんしょう、しゅうきょういぞんしょう)とは、自分自身の責任のもとで物事を決断し、問題を解決しながら生活をしていくことを放棄し、全ての物事の判断を宗教に委ね、自分自身では物事が解決できない状態、依存している人のことである。(中略)また、宗教の中で義務化されている宗教行事に追われて忙しくなり過ぎる、その勉強や行事の参加を怠り自分の価値判断や優先順位で物事を行うことに対しての罰が準備されているなど、人を宗教依存症へと導いてしまう宗教の存在が多いことも宗教依存症を導く原因の一つである。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E4%BE%9D%E5%AD%98%E7%97%87  より

 
 これでは表現がまだ抽象的なので、特に親鸞会の会員にとってはピンと来ないかもしれない。そのためもっと実感が湧くように、節々の表現を具体的なものに置き換えてみよう。

「親鸞会依存症とは、自分自身の責任のもとで物事を決断し、問題を解決しながら生活をしていくことを放棄し、全ての物事の判断を親鸞会の講師や先輩の言葉に委ね、自分自身では物事が解決できない状態、依存している人のことである。(中略)また、親鸞会の中で(事実上)義務化されている聴聞や法施・財施などの活動に追われて忙しくなり過ぎる、教学や行事の参加を怠り自分の価値判断や優先順位で物事を行うことに対して罪悪感を覚えてしまうなど…

そしてこのような依存状態にある人の特徴としては、主に以下が考えられる。

・日々の人間関係が親鸞会の内部でほぼ完結している。また親鸞学徒以外の人との関りを自ら避けてしまう。
・親鸞会での活動に没入するあまり、世間一般の常識や感覚に疎くなる。
・親鸞会での活動に没頭し、学業などの「世間事」を軽視する。特に学業を疎かにした場合、留年してしまう場合もある。
・活動と全く関係ない、遊びなどの予定を入れることに抵抗感・罪悪感を覚えてしまう。あるいは、仏法と関わりのあることをしていないと不安になる、落ち着かない思いがする。

 念のため断っておくと、親鸞会にいるすべての人がこういう状態にある、と言いたい訳ではない。中には健全で主体的な信仰を持っている人もいるだろう。しかし私が懸念しているのは、上記の状態に陥ってしまっている会員が決して少なくないのではないか、ということだ。
 親鸞会では、仏教を聴く目的は「後生の一大事の解決」という救済であると説く。しかし、その主張の正誤云々以前にそもそもその目的すら見失ってしまっている人間がいるように思えてならない。
 そして問題が非常に厄介なのは、「純粋に浄土真宗の教えを信奉している人」と「親鸞会という組織に依存してしまっている人」とを見かけの言動のみで判別するのは非常に難しい、という点だ。一見熱心に「求道」しているように見える人でも、本当に「後生の一大事の解決」(救済)を目的としているのか、単に組織に依存しているだけなのかの判別がしづらいのである。
 

2.)「信仰」と「依存」の違い

 まず、「信仰」と「依存」は一体何が違うのだろうか?様々な観点からの説明が可能だろうが、端的に言えば「対象と目的が違う」という点に尽きると思う。
 純粋に浄土真宗の教えを「信仰」している人の場合、その信仰の対象は無論、浄土真宗という「教えそのもの」である。また当然ながら、信仰の目的は、親鸞会風の表現をすれば、「自分自身の人生の目的を果たす」(人生の意義を探求する)ことだけである。そのような人は少なくとも主体的に物事を考えることが出来、日々の生活と信仰をどのように結び付けていくかを自分の頭で考えて自分なりの答えを出している(あるいは、出そうとしている)。

 このように教えそのものを正しく信仰している人は、私の懸念が及ぶところではない。そのような人は親鸞会にいながらも、親鸞会という組織を客観視することが出来るだろう。
 しかし、やはり問題は依存状態にある人だ。依存状態にある人の場合、その対象は浄土真宗という「教えそのもの」ではなく、「親鸞会という組織や人」である。そして依存(本人は「信仰」と信じて疑わないだろうが)の目的は、「活動に没頭することで心の虚しさを埋めるため」「芯が無く自尊心が低い自分が、絶対的な指針を得て安心感を得たい」「親鸞会にいる間だけ自分に価値があると思えるから/親鸞会の講師や先輩は自分を認めてくれるから」など、先ほどの「信仰」とは大きく異なる。
 端的に言えば、依存状態に陥ってしまう人は元々何かしらの寂しさや虚しさ、誰にも言えない悩み等を抱えており、そんな自分を受け入れてくれる・認めてくれる場所として宗教組織(親鸞会)に依存してしまう。また元々主体性や芯が無く自尊心が低い人も、「絶対的で間違いのない指針」を与えてくれる宗教組織に身を委ねることで安心感を得ようとする。

 ここで重要なのは、依存の対象が「教えそのもの」ではなく親鸞会という「組織や人」である、という点だ。つまり言い方を変えれば、依存状態にある人にとっては自分が身を置く組織が親鸞会である必要性は、実は全くない。単に何らかの組織にいることで安心感や慰めが得られれば良いだけなので、極端な話旧統一教会や創価学会などでも変わらないだろうし、もっと言えば別に宗教である必要もない。たとえばホスト狂いと言われる人達が世にいるが、そういう人達と親鸞会なり統一教会なりの宗教組織に依存する人は、私からすれば全くの同類である(本人は血相を変えて否定するだろうが)。

 また、目的もずれている。なぜ仏法を聴いているのか、と依存状態にある人に問えば「人生の目的を果たすため」「後生の一大事を解決するため」とお手本通りの回答が返ってくるだろう。そして本人もそう思い込んでいる。しかし実際に本人の心の奥底を覗いてみると、そうではない。親鸞会以外に居場所が無いから、学業や仕事は全然出来なくて自己嫌悪に陥るが親鸞会で活動していると頑張りを認めてもらえるから、親鸞会での活動以外に特にする事が無いという虚しさを紛らわすためとか、その程度のことである。本人もその事実をはっきりと自覚していないという点が尚のこと厄介である。


3.)依存状態に陥りやすい人 

 そして私の見立てでは、このような依存状態に特に陥りやすい人間が二通りいる。一人は老人、もう一人は学生である。
 まず老人は、身寄りが無かったり家族と疎遠であったりして孤独を感じている場合、そこへやたら自分を褒めて気にかけてくれる親鸞会の人間が現れるとたちまち依存してしまう。また老後特にすることがなく暇を持て余している場合、「人生の目的を求める・伝える」という非常に「意義深い」活動に専念することでその退屈さを紛らわすことが出来る。ここでも、本人にとって教えの内容は実は二の次になっていることは言うまでもない。

 次に学生の場合、概して世間知らずなために宗教組織の価値観に容易に染め上げられてしまう。学生のサークルは特に明確にトップダウン的な組織構造を有することが多いため、特に組織への依存を生みやすい。講師や先輩の指示に逆らわず素直に従っていれば「尊いですね」と褒めてもらえるし、自分の頭で考えなくて良いので楽である。また自分が先輩になった時に活動の色々な権限や裁量が増えることに密かな愉悦を覚え、その地位を中々手放したくなくなる。


4.)組織に依存してくれた方が都合がいい

 さて、ここまで私の考えを述べてきたが、このような事を薄々とでも感じているのは何も私だけではないだろう。きっと講師の人間にもこうした問題を感じている人はいるはずだ。ではなぜこうした問題を声高に注意喚起しないのか?
 これは完全に私の憶測でしかないが、それ程強く言わないのは偏に「依存してくれた方が組織にとって都合が良いから」ではないだろうか。依存するなと強く戒めるよりも、とりあえず熱心に活動してくれた方が結果としては有難い。そして活動を頑張っていく中でいずれ依存という問題に触れて軌道修正していけば問題ないだろう、といった心算のように私には思えてしまう。
 先ほどのWikipediaにもあるように、言わば組織と会員が共依存の関係に陥ってしまっているのではないだろうか。このような状態は健全とは言えない。お互いのためにも、もっとこの問題に深く切り込んでいく必要があると私は思う。


5.)依存状態から脱するには

 では、こうした依存状態を回避するために会員の側は何が出来るだろうか。一言で言えば、「主体性を持つ」ということに尽きると思っている。
 自分の人生の主導権を握っているのは組織ではなく、他ならぬ私自身である。親鸞会のセミナーで好んで用いられるビジネス書『7つの習慣』の中で、「宗教組織中心の生き方」は良くない生き方の例として批判されている。この指摘は実に的を射ている。同書で言う「原則中心の生き方」でなければならない。つまり、親鸞会の教義に照らすなら、親鸞学徒(会員)が生活の中心に置くべきは親鸞会という組織ではなく、浄土真宗という教えそのものであり、「因果の道理」(「原則」)である。これこそが「人に依らず法に依れ」ということではないのか?
 そして同書にある通り、宗教組織(親鸞会)は目的ではなく、あくまでも手段である。「人生の目的」を果たすために効果的な手段が親鸞会という一組織なのであって、組織に仕えることそのものが人生の目的なのではない。依存状態から抜け出すのは簡単ではないだろう。しかしこうした観点を一人一人が持つことで、より健全な組織へと向かっていくに違いない。
 …そもそも、親鸞会そのものが本質的に健全な組織ではないかもしれないが。

追記:2023/6/29 一部加筆修正

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