2.俗物たち (親鸞会会員による憂い)

 この問題については個人の感性に依る所が大きいので、人によってはそうは感じないかもしれない。しかし「こういう感じ方をする人もいる」という一つの例として書き記しておきたい。

 なお「俗物」とは辞書を引くと「名利にばかり囚われた人間」という意味だが、私がこの記事で用いる「俗物」は若干意味合いが異なる。私がここで「俗物」と言う場合、「品性の欠片もない粗野な人間」という意味で用いていることを最初に明記しておく。


1.)品性に欠ける俗物が蔓延する組織

 私は常々、親鸞会には俗物的で品性に欠ける人間が多いと感じてきた。もちろん中には上品な立ち居振舞いをする人もいる。しかし、私が俗物的だと感じる者達には不思議と幾ばくかの共通点があるように思えてならない。共通点があるということはつまり、単に個人の特性の問題ではなく親鸞会の組織風土がそうした態度を醸成している、あるいはそうした人間が集まりやすい風土なのではないかと思うのである。


2.)身だしなみすら整えない者達

 「品性に欠ける俗物的な言動」とは具体的にどういうものか。幾らか例示したい。
 まずは、身だしなみである。講師部(布教使)の人間は流石に身だしなみに気を付けている人間が多いようだが、顕正講師(準講師)や一般会員に於いてはみすぼらしい身なりの者が一定数いるように感じる。たとえば襟が曲がっている、猫背でのそのそ歩く、服にしわが付いていたりヨレヨレである、寝癖が付いたまま、靴が薄汚れていてボロボロ、などである。
 
これ以上は割愛するが、常識的な感覚のある人ならこうしたいかにも貧相な身なりの者をまともな人間とは思わない。私であれば、そんな身なりからしておかしい人間から話を聞こうとは微塵も思わない。むしろ可能な限り関わりを避けたいくらいだ。そんなみすぼらしい者が「お金では本当の幸せにはなれない」などと人生についての講釈を垂れていても、ただの僻みにしか聞こえない。 
 またそういう人間は「人は外見より内面が大事だ」というもっともらしい価値観にすがり自らのみすぼらしさを正当化しようとする傾向にあるが、それは詭弁である。その言葉自体は確かに真理だが、思っている以上に内面は外見に表れるものである。内面のすべてが表れるとは言わないが、その人の人となりの大体は見た目から判断できるものである。そんな当たり前なことも分からずに貧相な身なりでもっともらしく説法していても、著しく説得力に欠けるのは言うまでもない。そんなことも分からないのだろうか。仙人のような風貌で心を動かせるのは、せいぜい社会常識がまだない学生くらいである。
 また恐らくそういう者達は、結局は怠惰なだけなのだろう。親鸞会では(そして宗教全般においては)、救いに近付くために善行に励むよう強く勧められている。そこには挨拶や笑顔など一般的な善も含まれているが、それならば身だしなみを整えることも当然その中に入るはずである。そうした者は「善に励みましょう」と他の会員にもっともらしく勧めてはいるものの、結局は口先だけである。出家して山奥にでもいるのなら話は別だが、一般社会にいる限り、身だしなみすら整えないのは善行を実践していない何よりの証拠である。そして親鸞会で厳しく戒められる「観念の遊戯」(頭だけで実践が伴っていないこと)に陥っていることは明々白々である。


3.)昭和的で粗暴な言動

 次に、言動である。たとえ身だしなみはしっかりしていても(整えないのがむしろ論外だが)、品性の無い言動が目に付く人は多い。特に組織の中で一定の地位にある男性に多いと感じる。一般会員にもいる上、講師部であれば中年以上の男性講師に特に顕著である。配慮に欠けた不躾な言葉、野卑で無風流な言葉遣い、高圧的で不遜な言動など、その人と一緒にいると自分の心まで貧しくなっていくような人間である(少なくとも私はそう感じる)。
 一言で言えば、昭和的な価値観から未だに脱却出来ていない人間が多いということである。これは恐らく、高森顕徹会長自身の性格による影響なのだろう。個人崇拝的な色合いが強い組織では指導者の態度や言動に影響されてしまい、昭和的な組織風土が出来上がってしまうのはよくあることである。

 

4.)ストレス発散のための「厳しい指導」

 ところで親鸞会では上下関係が非常に明確化されている。そして上の立場の人間が下の立場の者のミス等を指摘し「叱る」ことが(仏教の教義に照らしても)良いことであり、下の立場の人間からすればそれは「有難い」ことである(また、そう受け止めるべきである)とされている。
 厳しく指導すること自体が悪だとは決して思わない。必要な場合もあるだろう。だが、そうした環境下で俗物的な人間が権威を得てしまうとどうなるか?―「叱る」ことがストレス発散の道具となってしまうのである。
 如何せん「厳しい指導」は教義によって正当化されている―つまり絶対的な正当性が保証されている―が故に、これは非常にたちが悪い。俗物的な人間がそうした大義名分を得てしまうと、指導のためと言うよりは単に自分の日ごろのストレスを発散するために他人のミスを激しくなじるようになる(無論、ミスを指摘する本人にその自覚は無い)。「叱っている」と言うよりは単に「怒っている」だけなのである。
 これの更にたちが悪い点は、叱られた―と言うより、怒りをぶつけられた―方も、「叱られる」ことは教義上正しく有難いことだと普段から教え込まれているために、「厳しく叱られるのは100%自分が悪いからなのだ」と自責の念を内面化してしまうのである。「心から自分の為を思って叱って頂いているのに、それに反発したくなってしまうのは自分がまだまだ教えを実践出来ていないからだ」と思ってしまう。叱られた側は当然苦しむ訳だが、親鸞会では「救われるまでの道のりは苦しいものだ」と説くため、その苦しみを「救いに近付くために必要な過程」だと自分で自分を説得してしまう。ブラック企業さながらの倫理観である。


5.)縁の深い人をぜひ誘いましょうと勧められるが・・・

 そして、単にこういう人間がいるというだけなら、出来る限り接触を避ければ良いだけの話である。しかしこの問題はもっと深い別の問題へと直結する。つまり、そういう品のない人間が目立つ組織に家族や友人を誘いたいとは思わない、という問題である。これがなぜ問題かと言うと、親鸞会ないしほとんどの宗教組織では、自分が知り得た「真実」を今度は家族や友人など身近な人間に伝え、会員にするのが尊い善であるとされるからである。
 
前述の通り、品があり人として尊敬できる言動をする人もいるのも事実である。しかし人は良い面よりも悪い面につい目を向けがちだ。「自分が長らく話を聴いている団体の仲間たち」と言って、自分の身近な人間を俗物が蔓延る場へ誘い出すのは気が引ける。自分がそんな低級な人間と知り合いであると思われたくないし、知り合いであるという事実が恥ずかしくなってくるのである。
 
 幸いにも、一昔前に比べればこうした時代錯誤的な言動は改善されているようだ。とは言え未だにそうした風潮が抜けきっていないのは事実である。
 願わくは誰もが品のある身なりと言動を心掛けてもらいたいものだが、あいにく他人を変えるのは難しい。急激な変化でも無い限り、残念ながらずっと今のままの組織風土なのだろう。

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