3.「自分は真理を知っている」という思い上がり (親鸞会会員による憂い)


1.増上慢は関係ない?

 親鸞会は仏教系の団体なので、「浄土真宗」と標榜すれど仏教全体に共通する教理もよく説かれる。親鸞会でも好んで取り上げられる仏教の教理の中に、「七慢」というものがある。「慢」とは自惚れ心・慢心のことであり、人間の煩悩の中の一つとされる。その自惚れ心に七つあると説くので、「七慢」と言われる。そしてこうした心を起こさないように心掛けましょう、と教えられるのだが、詳しくは親鸞会が運営する以下のサイトで解説されているので参考にして頂きたい。
https://1kara.tulip-k.jp/buddhism/2019077508.html

 さてこの七慢の中に、「増上慢」というものがある。上記のサイトの説明をそのまま借りれば、こういうものだ。

「増上慢」とは、さとりを開いてもいないのに、さとったとうぬぼれる心です。自分はもう救われた、さとったのだと錯覚し他人を見下す心です。

https://1kara.tulip-k.jp/buddhism/2019077508.html より引用

 
 通常、親鸞会の法話や講座で七慢の解説をする際は、この増上慢は簡潔に触れられるのみで済まされる(上記のサイトでも、他の6つとの文章量の差を見て欲しい)。親鸞学徒(会員)には関係が無いと言っている訳では無いが、他6つと比べると重要度は下げて説かれるようである。しかし私は、これこそ会員が最も戒めるべき心である、と言いたい。


2.選民的な意識

 一体どういうことか。この増上慢を、少しばかり拡大解釈してみると話が見えてくるはずだ。
 上記のサイトでは自分が「真理を悟った」「救われた」と自惚れて他人を見下す心であると書かれている。しかしこれを敷衍すると、こうも言えないだろうか。(たとえまだ救われていなくとも)「真実の教え」を単に誰かから伝えてもらっただけの自分を恰も自力で悟ったかのように錯覚し、まだ知らない相手・理解が不十分な相手を「なぜこんな事も分からないのか」と見下す心。さも人生を達観したかのように付け上がり、社会の常識や流行を鼻で笑う心。
 
さて、こうした心を何というか?―その通り、自惚れである。


 親鸞会は上下関係が明瞭で、真実をまだ知らない相手、あるいは自分よりもまだ理解が浅い相手を哀れみ、「導いてやらなければならない」対象として下に見る。こうした上下関係そのものは会社や職人の世界等でも存在するものだから、特段悪いものではない。しかし親鸞会の場合、これがしばしば悪い方向に働いてしまう。
 たとえば、明確に口には出さないけれども、「自分は真実を知らされた人間だから、世間一般の人間とは違う」という選民的な意識を持つ。仕事や趣味を楽しんで充実した日々を送り、親鸞会の説法を中々聴こうとしない者、あるいは活動に精を出さない者を見て「そんな下らない事に時間を掛ける暇があったら、親鸞会で仏法を聴けばいいのに一体何をしてるんだ」とどこか見下す。そして、そうした仕事や趣味を「たわごと」と一括りにして蔑視する。
 会員に問いたい。こんな卑しい意識を持った状態で、本当に人の心を動かせると思っているのか?それこそ思い上がりである。こうした傲慢な意識は意図せずとも相手に伝わるものであり、そんな不遜な人間から真面目に話を聴きたいとは思わないだろう。


3.「徹底した平等思想」はどこへ

 親鸞会でも現に、「すべての人は平等」と説いているではないか。親鸞会による『歎異鈔』の解説サイトでも、はっきりこう書かれている。

親鸞には、弟子など一人もいない。

そうではないか、私の裁量で仏法を聞くようになり、念仏称えるようになったのなら、我が弟子ともいえよう。だが、まったく弥陀のお力によって聞法し念仏する人を、「わが弟子」と言うのは極めて傲慢不遜である。

https://xn--6quo9qmwi.jp/read/chapter06/ より引用

 分かりやすく言えば、こうである。「自分の力で真実を知り得たのなら、それを教える相手を弟子として下に見ることも出来よう。しかし真実を知り得るのは偏に阿弥陀仏という仏の計らいによるものだから、上下などない。阿弥陀仏のもとでは皆平等である。」
 はっきりこのように説かれていながら、なぜ相手を見下すのか?結局、自身が身を置く組織の教義の理解すら浅いのだろう。平等な意識を持って接しなければならない所を、見下していては伝わる話も伝わらない。

 相手の趣味や価値観を否定せず、どこが素晴らしいのかを偏見を捨てて理解しようとする。そしてそれを充分過ぎる程踏まえた上で、自らを「単に真実の教えを媒介する存在」として、決して付け上がらずに真実を伝える。これこそが本来あるべき姿ではないのか。これこそが、親鸞会で常々言われる「御同朋・御同行」の精神の実践ではないのか。「真理を知った自分が、まだ真理を知らない哀れな相手に教えてやる」といった意識は、はっきり言って間違っている。甚だしい自家撞着である。

 素晴らしいのは「真実」を知っている自分ではなく、「真実」そのものだという事を忘れてはならない(そもそも親鸞会の教えが「真実」か否かは別として)。その事実を忘れて思い上がってしまう所から、徐々に歯車が狂い始めていく。そうした不遜で誤った意識は是非とも正して頂きたいものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?