「無」によって生み出されるもの。
シェイクスピアの悲劇『リア王』の中で、リア王が、娘コーデリアに、こんなことを告げるシーンがある。
「無からは、何も生まれない」と。
リア王の言っていることは真であると、私は思う。
おそらく、誰しもが経験したことがあるだろう
“無の時間”。
つまらないな〜とか、やることないな〜とか、思いながらゴロゴロしたり、ボーッと壁を見つめたりとか、そういう時間。
ただ一方で、そんな“無”の部分が役に立つという、思考もあるらしい。
有の以て利を為すは、無を以て用を為せばなり。
これすなわち、
有用で利益が出るようなものは、役に立たないところがあってこそ、成り立つ。
「無」つまり「何もない」ということで、実は役に立っていることがある。
そんなことを意味する、老子の発想だ。
空っぽな状態を、役立たせられるかどうかは、実は、自分次第だったりするのかもしれない。
自分は何を見せたいのか、見せていくべきか。
その為に何を優先して、何を削っていくか。
次に進むためにはきっと、考えることを止めないことが必要なのだろう。
そういえば、最近読んだ教育関連の記事に、こんなことが書かれていた。
“やればできる子”は、“やらなくてもできる子”と“できなくてもやる子”にチャンスを奪われ続けて、一生を終えるのである。
思いがけず与えられた“無の時間”。
ただ、もしかしたら、この「無」によって生み出される「何か」を、この期間に沢山手にしている人もいるのかもしれない。
人生には、想像もしていないところから災難が降りかかることもあるようだ。
我が身に降りかかってきた災難が、その後の人生の転機となることも少なくないだろう。
難局は、好機にもなる可能性を秘めている。
3年後、5年後、10年後、、、
将来、いつの日か振り返ってみた時、
「今日の“無の時間”があったから、何かを生み出せた!」と言えたらいいなと、私は思う。
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