見出し画像

教える人が、できること。

大学生時代から今に至るまでの5年間、“コーチ”と名乗らせて頂きながら、中学生や大学生のソフトボール部の活動に携わらせてもらっている。

この2ヶ月間は、ほとんどコーチ活動をしていないが、せっかく余暇の時間がたくさんあるので、コーチの役割、すなわち、“教える”ということについて、考えてみた。

“教える”とは、なんなのか。

誰かに何かを教えたり、反対に、周りの方々から何かを教わったり。私たちの日常生活は“教える” “教わる”が、溢れている。

では、教えるって、そもそも、何をすることなのか。

私は、教えること=相手を、(〇〇が)望ましい行動に導くこと、引き出すこと 

だと思っている。あえて、変数にした〇〇の部分には、2パターンの言葉が当てはまるような気がする。

①相手を、相手が望ましい行動に導くこと、引き出すこと そして、

②相手を、自分が望ましい行動に導くこと、引き出すこと

①と②は、時と場合に応じて、どちらが better なのかは変わってくることと思う。

さて、話は次に移る。

相手が、教えたことをちゃんとできない、あるいは、できるようにならない…。そんな時、私達は往々にして、相手に対して責任の矢印を向けてしまうことがある。

ただ、そもそも、“教える”とは、導くこと、引き出すことだというところに立ち返れば、導ききれていない、もしくは、引き出しきれていないのは、相手ではなく『自分』であることに気付くことができるだろう。

そうして今度は、何を教えるのかというところに、スポットを当てる。

私は、ソフトボールのコーチなので、もちろん教えることは、「ソフトボール関連」のことになるわけだが、この「ソフトボール関連」の内容においても、大きく2つに分けることができると考えている。

「知識」と「技術」

この2つである。

「知識」とは、聞かれたら答えられること。「技術」とは、やろうと思えばできること。

これらを、何かを教える前に、自分の中で整理して、切り分けて話をすることで、聞き手側にとっても、すっきりとした形で伝わりやすいだろう。

また、もし教えている中で、何かスムーズにいかないところがあっても、「技術が未熟?知識が不足?」と、立ち戻るポイントができる。

あとは、これらを基に、できないこと/知らないこと と やらないこと/やっていないこと を切り分ける。前者は、『だったら、できる状態 or 知っている状態に変えればいいね!』となるだろうし、後者は、時として、お叱り案件になるかもしれないし笑、もしかしたら、先述したように、責任の矢印を自分に向けるべきだというシグナルであるかもしれない笑。

後者を、私が望ましくないと思う理由は、シンプルだ。
あらゆる事は、「備わっている」ものではなく、「発揮」されるべきものだと考えるから。

内に秘めているだけの力、それって、、、勿体なくない!?

そんな思考回路である。

最後に。

“コーチ”という立場に限った話ではないが、何かの師、あるいは、先生みたいに、相手に“教える”立場になる時は、できる限り、常に、相手に「正解」っぽいものを提供して、導くこと/引き出すことを試みることと思う。

けれども、時として、「正解」を知らなかったり、意図せず「不正解」を伝えてしまうこともある。

だからこそ、思考を止めないこと。最善を探し続けること。

それが、唯一にして最大の、“教える”人ができることなのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?