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大器晩成と現代社会。

「大器晩成」という言葉を辞書で調べると、「真に偉大な人物になる者は、完成するまでに時間が掛かるということ。」と載っていた。

「大器」とは並外れた才能あるいは大人物のことを指し、「晩成」とは普通より遅れて完成すること、または年をとってから成功することを言うようだ。

この言葉は、『老子』にある「大方無隅 大器晩成 大音希声 大象無形」に由来している、とされている。

大きな四角形は角が見えず、大きな器はなかなか出来上がらず、大きな音はかえって聞こえず、大きな形は形として見えないものだ、ということで、大きなものの全貌は測り難く完成までに時間が掛かる、という意味である。

ここから「大器晩成」が独立して、大人物は時間を掛けて大成するという意味で使用されるようになったそうだ。

一方で、めまぐるしく物事が移りゆく現代社会においては、スピード感、すなわち、いかに早く結果を出すか、いかに早く成功するか、という“早さ”ばかりがクローズアップされることが多い。

“目に見える結果” “成果” “成功”

私達はつい、こうした“完成形”を目指して、右往左往してしまう。もちろん、そうした“完成形”は、必要だ。結果の出ない努力は無意味だ、と心のどこかで思っている自分もいる。

それでも、いつか訪れるかもしれない“大器晩成”の瞬間を目指して、動き続ける中で、自分のことが少しでも好きになれたり、自分の中で小さな成長があったりするだけでも、十分に、「頑張る価値」はあると、私は思う。

過程と結果、どちらかじゃない。どちらも、大事だ。

願わくば、過程と結果、どちらもが、自分が望む形であれば嬉しいけれど、どちらかだけでも、自分が納得できるようであれば、ラッキーだ。

多くの人が、一度は目にしたことがあるであろうネット上の辞典、Wikipedia。これも実は、スタイルとしては、大器晩成のモノであるようだ。

と言うのも、常に書き換えられ「永遠に完成しない」ということが、もともとのコンセプトである、と何かの本に書かれていたのを読んだことがある。

だからこそ、価値があり、価値が永続的になる。

「永久の未完成、これ完成である」

というのは、私の好きな詩でもある『雨ニモマケズ』を書かれた、宮沢賢治さんの言葉だ。

コロナウィルスの影響により、様々なものが【中止】を余儀なくされている。スポーツの大会や競技会も、もちろん、その1つである。

ラストシーズンを迎えている選手達が、自分達にとって“最後”の大会があるかどうかが分からない中で、自主練習を重ねているというネットニュースも目にした。

手応えがない時、自分のやっている事は無駄なんじゃないかって、感じることが、私はよくある。

でも、少なくとも今、そんな事はない。

重要なのは常に、自分に“できる事”と“すべき事”。

目の前の“それ”である。

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