そのとき、どう動く。(中学生編) (2019/3/29)
今日、大学生活4年間を捧げたソフトボール部に別れを告げてきた。
自分が思っていたのと違って、大して感慨深くなることもなかった。
不思議と、後悔は、ない。
胸を張って「やりきった」と言える、激走の日々だった。
偶然かもしれないが、最近立て続けに、大学の後輩や指導している中学生から、私がソフトボールを始めたきっかけを尋ねられた。
果たして、彼女達がこれを目にすることがあるのかは分からないが、私の学生生活を彩った部活生活。
自分の人生の記録として残しておくのもいいかもしれないと思い、書き起こしてみようと思う。
小学校時代から、球技は得意だった。
朝も、業間休みも、放課後も、男子に混ぜてもらってドッジボールをしていて、ボールを投げることが大好きだった。
初めてソフトボールの球に触れたのは、小学5年生。
市内陸上大会の選手選考で、ソフトボール投げ種目の選手に立候補したのが、きっかけだったと記憶している。
休日は河原に行って、お父さんとキャッチボールをしていた。
お父さんは、学生時代野球をやっていたとかいうわけではなかったが、子供の好きなことに付き合ってくれていた。
河原に響く、ボールがグローブに収まる瞬間の「パンッッッ」という音が大好きだった。
小学6年生の夏、北京オリンピックがあった。
ソフトボールという競技が、大注目された。
「上野由岐子選手の413球」。
マウンドに集まり、選手達が抱擁し、空に人差し指を突き上げ喜び合っていたあの姿が、私の目にかっこよく映った。
『中学校に進学したら、ソフトボール部に入ろう。』
あの北京五輪に出場されていたソフトボーラーの方々が、私をその決断に導いてくれた。
そこから、学校に、柔らかい小さな野球ボールを持っていくようになった。
休み時間を使って、ソフトボール部に入ることを決めた同級生と素手でキャッチボールをしたり、ボールを転がして捕ったり、部活の真似事をしていた。
「どっちが早くレギュラー取れるか競争しよう!!!」
青春感溢れる勝負を持ちかけたことを、覚えている。
中学校に入って、待ちわびていた部活生活が始まった。
中学1年生から見る中学3年生というのは、心身共にとても大人に感じられた。
入部早々、私に「アンパンマン」という喜んでいいのか分からないような微妙なラインのあだ名をつけてくれた3年生達は、あっという間に引退していった。
入学前から一緒にキャッチボールをしていた同級生は、セカンドで、私よりも早く試合の出場機会を得た。
後を追うようにして、私もサードとしてスタメンを掴んだ。
そこからの部活生活は、自分の、度の過ぎた負けず嫌いで、波瀾万丈だった。
当時のメンバーは、1年生(自分達)8人、2年生8人だった。
秋の新人戦が終わったあと、自分は同級生を集めて、呼びかけた。
「下克上をしよう!スタメンを全部、1年生で奪い取ろう!」
燃えたぎった熱量で、色々話し合ったことを覚えている。
スポーツ漫画が大好きだったからなのか、熱意は人に伝染するものなんだと、当時から信じ込んでいた。
その思い込みは、今尚、変わることなく自分の中にある。
全校生徒の誰よりも早く登校して、1番最初に誰もいないグラウンドに駆け出していくのが、私の楽しみだった。
7時半からの朝練習を、自分達の学年だけ30分前に始める毎日。
みんなでランニングをして、キャッチボールをして、素振りをして、木にぶら下げてあるタイヤを打ち込んだ。
休日練習は、練習開始1時間前に集合して、グラウンド作りをし、近くの神社まで走って、境内への階段を駆け上がって、学校まで戻ってくる。そして、キャッチボールとトスをひたすら繰り返した。
そんなことをどんどんやっていると当然の如く、先輩との溝が深まった。
見かねた、鬼の顧問が部集会を開いてくれた。
下克上を果たすことはできなかったが、思いっきりクラッシュすることで、チームが1つになることを学んだ。
当時の自分が、何を思って「下克上だ!!!」と大見得を切ったのかは覚えていないが、
あの日々があったからこそ、スポーツをやる上での競争心やチームの活気・雰囲気の重要性を感じることができた(と思っている)。
月日は流れて、1つ上の先輩方が卒業を迎えた。
頂いた手紙には、「当時は、まじで、ほんっとにだいっっっっきらいだったわ。」と書かれていた笑笑。
それを、おもしろおかしくネタにできる関係にまで変わっていったことに、人間らしさを感じた。
自分達の代になってからは、キャプテンを務めさせてもらっていた。
新しく取り入れたことは、同級生内で部の機関紙を発行したこと。
各人が思っていることのシェアや、みんなが奮起できるような名言を書いて、配布し合った。
中学生にしては、なかなか粋な取り組みだな~と、今振り返ってみても、そう感じる。
この取り組みは、大学の部活で重視した、部員ブログに通ずる部分もある。
人数が多いと、全体の場で意見する人が偏ってしまう事が多い。
また、仲間が今どんなことを考えているのかを知る機会というのは、意外と少ないことに気づく。
だからこそ『意志発信』の場があると、これまでは自分が気づくことができていなかった、仲間の新たな一面だったり、内に秘めている熱い想いを知るきっかけになったりするのである。
もう1つ、役職として部長があるのだが、同級生で部長を務めてくれたのは、バリバリの怒り役を買って出てくれる人だった。元々、その人が持ち合わせていた気質だったのかもしれないが、
彼女がいてくれたからこその、自分のキャプテン生活だった。
部活を運営する上でも、練習の中でも、何か歯車がかみ合わなかったり、怠慢な部分があったりしたらすぐ、
そこに修正をかけていく彼女のチームマネジメント力が、中学生ながらに羨ましかった。
最後の夏大会は、市内で優勝することで県大会への出場権を掴むことができるという、
負けたら終わりのトーナメント戦だった。
初戦は接戦を強いられ、1点差ゲームを制する形での幕開けとなった。
2回戦は順当に勝ち進み、迎えた準決勝。
最終回2アウトから、という野球漫画でよく見るあの台詞は、本物だった。
2点ビハインドを一気に逆転し、勝利する形となった。
試合後、鬼の顧問に
「正直、私も無理だと思っていた。あなただけが諦めていなかったけど、それが伝染したんだから、不思議だわ」と言われた。
代々、自分の中学校のソフトボール部が掲げているチームスローガンは『努力は裏切らない』だった。
私はただ、純真無垢な気持ちで、そのスローガンを信じていた。
過信家な自分を構成したルーツは、もしかしたらこの辺りにあるのかもしれない、と
今ふと思った。
決勝戦は、これまで1度も勝利したことのない、市内屈指の学校だった。
ところが、ソフトボールは、流れや勢いといった要素が、試合に大きく影響するようで、
夏の全試合の中で1番楽しみながらゲームを進める形で、ゲームセットを迎えられた。
掴んだ9年ぶりの、市内優勝・県大会出場。
仲間と分かち合う喜びは、こんなにも大きくて、ずっとワクワクしていられるような、
永久保存版みたいな感覚になるんだと、とても嬉しかった。
そうして、掲げた目標を達成して、引退を迎えることができた。
この引退も、不思議と涙は流れなかった。
やりきったー。
今日の空、青いなー。
達成感に満ち満ちた気持ちだった。
こんな最高の部活生活を作り上げてくれたのは、アメとムチの使い分けが上手い、私にとっては、最高の指導者であったことは間違いない。
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