水の思考。
写真は、私の出身高校、校舎からの眺めである。
高校時代といえば、今からもう6〜8年前のことにはなるが、授業で習った漢文に、こんな文章があった。
天下、水より柔弱なるは莫し。而れども堅強を攻むるは能く之に先んずる莫し。
其の之を易ふる無きを以てなり。
故に柔の剛に勝ち、弱の強に勝つは、
天下知らざる莫きも、能く行ふこと莫し。
書き下し文にしてみるも、なにが書いてあるか、さっぱり分からん。。。ということで、現代語訳をしてみよう。
天下に水より柔弱なものはない。だが、堅強な者を攻めるには、これに及ぶものはない。
これは、水はこれ以上変化させようがないからである。
柔が剛に勝ったり、弱者が強者に勝ったりすることがあるのは、
天下に知らない者はいないが、常にその性質を保つことができないので、実行できる者はいない。
ここまでは、高校時代の自分自身の授業ノートを、ただ写しただけである。
これが、思考の仕方とどのように結びついていくのか。。。
「水のように生きろ!!」
今日は、そんな話である。
水といえば、いつも飲んだり、手を洗ったりする、何の変哲もない無色透明のあれだ。でも、そんな水も、時には荒々しい滝になって、大きな岩を打ち砕くこともあれば、静かに長年、忍耐強く滴を垂らし、堅い石に穴を開けることもある。また、私たち動物は、水がなければ生きていくことができない。すなわち、水というのは、決して欠かすことのできない、最強の恵みである。
しかし、そうでありながら、雨上がりにできる水溜まりは、人に疎まれ、敬遠される。低くて、汚い場所に落ち着いて存在している。そんな謙虚さも持ち併せているのだ。
水というのは、必要あらば、水蒸気になったり、氷になったり、四角くなったり、丸くなったり、臨機応変に形を変えていく。
もしかすると、これは一見、主体性がないようにも見える。
「おまえの芯は、一体どこにあるんだ?」
そう感じられることもあるのかもしれない。
ただ、そんな、しなやかさ/柔軟さがあるからこそ、堅強なものにも立ち向かうことができる。
そう考えると、「あえて弱さを選択する」道も、案外わるくないことかもしれない。
『本当に強くなること』というのは、常に変わり続けながらも、変わらない本質があることなのではないかと、私は思う。
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