見出し画像

【随想】芥川龍之介『歯車』②

 やっと彼の帰った後、僕はベッドの上に転がったまま、「暗夜小路」を読みはじめた。主人公の精神的闘争は一々僕には痛切だった。僕はこの主人公に比べると、どのくらい僕の阿呆だったかを感じ、いつか涙を流していた。同時に又涙は僕の気もちにいつか平和を与えていた。が、それも長いことではなかった。僕の右の目はもう一度半透明の歯車を感じ出した。歯車はやはりまわりながら、次第に数を殖やして行った。

芥川龍之介『歯車』(短編集『河童・或阿呆の一生』)新潮社,1968

「モオル――Mole……」
 モオルは鼴鼠と云う英語だった。この聯想も僕には愉快ではなかった。が、僕は二三秒の後、Mole を la mort に綴り直した。ラ・モオルは、――死と云う仏蘭西語は忽ち僕を不安にした。死は姉の夫に迫っていたように僕にも迫っているらしかった。けれども僕は不安の中にも何か可笑しさを感じていた。のみならずいつか微笑していた。この可笑しさは何の為に起るか?――それは僕自身にもわからなかった。僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向い合った。僕の影も勿論微笑していた。

同上

 そのうちに或店の軒に吊った、白い小型の看板は突然僕を不安にした。それは自動車のタイアアに翼のある商標を描いたものだった。僕はこの商標に人工の翼を手よりにした古代の希臘人を思い出した。彼は空中に舞い上った揚句、太陽の光に翼を焼かれ、とうとう海中に溺死していた。マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ、――僕はこう云う僕の夢を嘲笑わない訣には行かなかった。同時に又復讐の神に追われたオレステスを考えない訣にも行かなかった。

同上

 何ものかの僕を狙っていることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つずつ僕の視野を遮り出した。僕は愈最後の時が近づいたことを恐れながら、頸すじをまっ直にして歩いて行った。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまわりはじめた。同時に又右の松林はひっそりと枝をかわしたまま、丁度細かい切子硝子を透かして見るようになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まろうとした。けれども誰かに押されるように立ち止まることさえ容易ではなかった。……

同上

 ――僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?

同上

ウロボロスは自分の尾を喰った
犭貪は自分を全部喰った
サトゥルヌスは我が子さえ喰った
我が身可愛さに
我が身可愛さに、喰った
喰ってはいけないものを、喰った
阿呆だ阿呆だ
阿呆がいたんだ
誰にも憎まれていないのに
誰もを憎んでいた
傷など負っていないのに
傷だらけのふりをした
阿呆だ阿呆だ
阿呆がいたんだ
死ななくていいのに
死ななきゃいけないと思った
狂わなくていいのに
狂わなきゃいけないと思った
この阿呆め
この阿呆め
こんな阿呆が
阿呆がいたんだ

この記事が参加している募集

素晴らしいことです素晴らしいことです