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【随想】芥川龍之介『雛』

 それからどの位たちましたか、ふと眠りがさめて見ますと、薄暗い行燈をともした土蔵に誰か人の起きているらしい物音が聞えるのでございます。鼠かしら、泥坊かしら、又はもう夜明けになったのかしら?――わたしはどちらかと迷いながら、怯ず怯ず細眼を明いて見ました。するとわたしの枕もとには、寝間着の儘の父が一人、こちらへ横顔を向けながら、坐っているのでございます。父が!……しかしわたしを驚かせたのは父ばかりではございません。父の前にはわたしの雛が、――お節句以来見なかった雛が並べ立ててあるのでございます。
 夢かと思うと申すのはああ云う時でございましょう。わたしは殆ど息もつかずに、この不思議を見守りました。覚束ない行燈の光の中に、象牙の笏をかまえた男雛を、冠の瓔珞を垂れた女雛を、右近の橘を、左近の桜を、柄の長い日傘を担いだ仕丁を、眼八分に高坏を捧げた官女を、小さい蒔絵の鏡台や箪笥を、貝殻尽しの雛屏風を、膳椀を、画雪洞を、色糸の手鞠を、そうして又父の横顔を、………
 夢かと思うと申すのは、……ああ、それはもう前に申し上げました。が、ほんとうにあの晩の雛は夢だったのでございましょうか? 一図に雛を見たがった余り、知らず識らず造り出した幻ではなかったのでございましょうか? わたしは未にどうかすると、わたし自身にもほんとうかどうか、返答に困るのでございます。
 しかしわたしはあの夜更けに、独り雛を眺めている、年とった父を見かけました。これだけは確かでございます。そうすればたとい夢にしても、別段悔やしいとは思いません。兎に角わたしは眼のあたりに、わたしと少しも変らない父を見たのでございますから、女女しい、……その癖おごそかな父を見たのでございますから。

芥川龍之介『雛』(短編集『戯作三昧・一塊の土』)新潮社,1968

 人は何かを愛し大切にする時、知らず知らずそれを独占する心が生まれている。それを自分一人が愛し、それは自分一人に愛されている、だからそれを喪失する時の悲しみもまた、自分一人のものであると、思い込んでしまう。人はどこまでも自己という沼に溺れたままで、一生出ることは叶わない。死ぬまで、いや死んでからも、観客のいない一人芝居を続けている。
 あらゆるものは自分が思う以上に他者と連関しており、それだけ一層、人は自分が思うよりも孤独である。全ては他者との関わりにより認識出来る為に、まるで同一性を共有しているかの如きこの時空間が、何の根拠も無い曖昧な夢のようなものではないとは、誰にも云えない。それならば感情の共鳴も、偽物、幻だろうか。他者と一致した振動が、己の認識を越えて世界を拡げていく様もまた、単なる偶然を誤解しているのだろうか。いや、信じたい。重なった感情が切り開く世界には、きっと確かな手応えと交わりがあると、信じたい。あの涙は、確かに本物であったし、この手を濡らしたのだから。

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