プロフェッショナルとは何か (あるいは後悔しない就活のやり方)
プロフェッショナルとは何か
「プロフェッショナル」と聞くと、いつも思い出す言葉があります。
「『出来ない』っていうのは簡単なんですよ。消化器外科の専門医であれば、『これは手術でしょ』と誰が見てもいえるラインがあります。誰が見てもダメというラインもある。でも、そこの誰が見ても出来る、誰が見てもダメの間の、ここの隙間をうまくやれるかどうかというところが、専門家の専門家たるゆえんでしょう。ある意味私たちのやりがいでもあるし、私たちが存在する、よって立つゆえんなんです」
静岡県立静岡がんセンターの外科医 上坂克彦先生の、確か 情熱大陸だったと思います。
録画した映像を 一時停止 → 再生を繰り返し、夢中になって字幕をメモしたのをよく覚えています。
調べてみると 放送日は2016年の1月10日でした。ちょうど大学を卒業し プロとして初めての仕事をして(それは何ともない練習だったかもしれないけど)不安だったり迷ったりした日々に聞いたこの言葉は、自分にとって印象的だったのだろうと思います。
ここでは専門家と言っていますが、まさしく、プロフェッショナルの定義として優れたものでしょう。
『隙間をうまくやれるかどうか』
消化器外科の専門医として 手術をするか を問われるとき「誰が見てもできる」「誰が見てもダメ」二つの判断があるわけです(ダメというのは、患者の状態が悪く これを手術できる技術がないということで、よって 治療法が限られてしまいます)。
しかし 重要なのは、この「できる」と「できない」のラインには 隙間があり『ここの隙間をうまくやれるかどうかというところが、専門家の専門家たるゆえん』なのです。
誰でもできることは誰かがやればよく、誰にもできないことは当たり前だけど誰にもできない。
ただ できる/できないで意見が分かれるとき、そうしたときに確かに「上坂先生ならできる」という仕事があるわけです。
その隙間で恐れずに戦う、そして勝利し 人間ができることの範囲を広げていく。こういう人たちが専門家であり、自分はこの姿勢に強いプロフェッショナル性を感じます。
スキマ産業的なニュアンスとは全く逆で、むしろこれはフロンティア(開拓者)精神のようなものです。
プロ銀行員というものがあるとすれば
医師の情熱大陸はハズレがないというのが持論です。彼ら彼女らのやっていることは分かりやすくカッコいい。しかし ここで挙げたプロフェッショナルであることの条件は、どのような仕事でも同じことが言えます。
仕事に就くということは、できることが増えるということです。学生のできることがオレンジの円だとすれば、就職によって 何らかの世界を表す黄色の円の範囲まで自分を拡大させるわけです。
「消化器外科医であれば誰でもできる」という範囲があるのと同じように、例えば 銀行に就職すれば、銀行員の仕事ができる人になります。
そして、考える機会さえあまりないだろうと思うのは「銀行員ならできる」の外側に「銀行員でもできない」という仕事が当然あるということです。
その存在を認知できたときに、ここにも必ず隙間があります。
銀行員なら誰でもできる仕事と、銀行員でも誰にもできない仕事と、どちらでもない仕事があります。
上坂先生のように「自分にしかできない」とまではなれなくても、ここである程度の希少価値を出せる人間のことを「プロ銀行員」と言っても差支えないのでないかと思います。
後悔しない就活のやり方
後悔しない就活のやり方を、順序立ててみたいと思います。
後悔しない就活とは、つまり後悔しない就職をすることです。自分の仕事をどれくらい愛せるかが後悔の量を規定します。
そして こういう愛すべき天職を見つけることが難しいから、したがって 就活は難しいという地獄の方程式がここに成立するわけです。
仕事を選ぶための 価値観というか変数のようなものは、給料〜誰と働くかというようなことまで およそ450個くらいありますが、ここで提案したいのは「その仕事で プロフェッショナルを目指す」ということを考えに入れてみるということです。
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普通に 銀行に就活をする人が考えているのは、この黄色の円の範囲です。
銀行員の仕事ができるようになった自分を想像して、この範囲でできることに「何か向いてるな」というようなものを見つけて就職を決めます。
自分の存在はどこにでもいる銀行員です。他の銀行員と同じように銀行の仕事ができて、他の銀行員と同じように その範囲を超えた仕事はできない。
こういう方法での就活は 自分の人生の決断というより、世の中に一人 銀行員を増やす決断です。
仕事を選ぶときにこの「銀行員になる」というようなことを基準にすると、それを自分という人間がやることの必然性がない。必然性がなければ、当然 振り返ったときに後悔する余地を残してしまうのです。
そうではなくて「プロフェッショナルを目指す」この場合「プロ銀行員になる」を基準にしてみるということです。
プロフェッショナルの定義はここまで述べてきた通り、できる/できないの隙間に働きかける人間のことです。
黄色の円の少し外側のところまで矢印を伸ばすことを想像し、この隙間の所を自分がやりたい(Will)・自分だからできる(Can)・自分がしなければならない(Must)と感じるかを大事にするのです。
そう感じて、プロ銀行員になるということが自分の中でピンと来るのであれば、それは選択肢としてかなり良いものです。
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自分のプロフェッショナルとしての仕事が見つかれば、それが『私たちのやりがいでもあるし、私たちが存在する、よって立つゆえん』になります。
つまり 効用は二つあります。①やりがいと ②よって立つゆえん です。
そもそも、自分がまだいないにも関わらず 滞りなく循環している黄色の円の範囲内に、やりがいなんてものは落ちていないのです。
自分というプロフェショナルがいなければ解決できないような、そういう隙間のところをどうにかすることが楽しいのではないかと思います。
そして『よって立つ』というフレーズが特に気に入っているのですが、微妙な隙間であるからこそ、自分にしかできないその仕事は、自分というアイデンティティを担保するような拠り所になり、我々はそこに『よって立つ』ことができるのです。
三浦知良
プロフェッショナルと聞いて、思い出す言葉がもう一つあります。
「お金をもらうからプロじゃない。どんなときでも手を抜かず、全力で戦うからプロなんだ。」
キングカズがこう言っていました。
三浦知良という男は『どんなときでも手を抜かず、全力で戦う』という、誰もができないことにチャレンジし続けている、そしてサッカーとサッカー選手の可能性を広げ続けている、そう感じて 僕は勝手に感謝しています。
本物のプロフェッショナル性を感じるし、だからこそ彼は 唯一無二の存在で、彼にしかできないことが沢山ある。本当に個人的にですが、そう思います。
自分のプロフェッショナルとしての仕事を見つけるのは もちろん簡単じゃない。「特別な人間になんてなれない」「どんな隙間があるのか 働いたこともないのに分からない」と思うのはまあそうでしょう。
通常 プロフェッショナルを目指すという行為は、もう既にかなりの時間をそこに投下してきた人が、更に自らに磨きをかけ その一本の道を極める、というような意識の高い話です。
スポーツのようにこれまでの延長線上にプロというものがあると、分かりやすくはあります。ただ自分はプロサッカー選手になりましたが、これはかなり限定された選択でした。今更野球とかバスケのプロになることはできなかったし、では小学生のときに吟味してサッカーを始めたかというとそうでもないのです。
逆に考えれば 就職というタイミングは、人生にそう何度とない「何のプロフェショナルになるかを選べる瞬間」でもあります。それなりに無限にある可能性をテーブルに広げ、大人の頭であーでもないこーでもないできるわけです。これは控え目に言って最高です。
『どんなときでも手を抜かず、全力で戦う』ということだって、それはプロだとカズは言っている。そう思えるような仕事を探してみるだけでも、あなたはプロフェッショナルになれる可能性があるということです。
これはスタンスの問題です。ゴッドハンド手術のようなプロフェッショナルなスキルを作れということではありません。世界にありまくる、できる/できないの隙間に対して、常に能動的(主体的)であれ、という姿勢の話です。
プロフェッショナルを目指すことは 一見とてもチャレンジングなことに思える。でもそれは極個人的な 自分の幸せのためのやりがいになり、自分に不安になったときの拠り所になる。後悔しない人生を歩むための、一つの基準になる。
そして、もしその隙間を埋めて「できる」ということの境界線を少しでも外に広げることできれば、それは間違いなく 自分が、世界をより良くしているということで、これは控え目に言って 最高だと思う。
後悔しないどころの騒ぎではないわけです。
「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」