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『推し、燃ゆ』考察

私には、推しがいない。
それだからか、初めて本書を読んだとき、前半部をコメディあるいはオタク文化の専門書のように楽しんでしまった。
しかし、読み進めていくうちに言いようのない閉塞感とエネルギーを感じ、その原因は何なのか探求したい欲求が湧き上がってきた。
また、オタクの友人と感想を交換することでも無限に新たな発見がある本書を強く推したく、現段階での考察と感想をまとめたい。


1.ネバーランドの出現
2.「推す」ということ
 2−1 初期ー生き甲斐
 2−2 後期ー苦行
3.推しの喪失
 3−1 コンサート
 3−2 マンション
 3−3 ネバーランドの破壊
4.収骨ー自業自得
5.感想



本作の主人公あかりは、病院で「ふたつほど診断名が与えられて」おり、普通の生活がうまくできない。
生活のままならなさに苛立ちを覚え無気力になっていたあかりは、アイドルグループまざま座に所属する上野真幸とであい、彼を「推す」ことに人生をかけるようになる。
本稿では、あかりの「推し方」の変遷を辿ることで、現代における「生きる」 ことのあり方を読み解いていきたい。

1. ネバーランドの出現

あかりが推しと出会ったきっかけは、彼が子役時代に演じていたピーターパンの舞台だ。
洗濯したはずの体操着が見つからず高校を休んだあかりは、子供の頃に観たピーターパンの舞台のDVDを偶然発見し、そこで子役時代の上野真幸の存在を劇的に思い出す。
この「ピーターパン」というモチーフは、本書で非常に効果的に用いられている。あかりがDVDを発見したのはベッドの下からであるが、これは、おとぎ話の中のピーターパンがウェンディをネバーランドに連れていくために現れた場面とも重なる。
「大人になんかなりたくない」と何度も叫び、子供ながらに瞳の奥に世界への敵意を宿している推しの演じるピーターパンの姿にあかりは深く共鳴し、つらい現実から逃れさせてくれるのは推し(=ピーターパン)とばかりに、推し活(=ネバーランド)にのめり込んでいく。

それでは、あかりの「推し方」を分析することで、生き方の変遷を読み解いていきたいと思う。

2.推すということ
2−1 初期ー生き甲斐


オタクには様々な「推し方」がある。
その中で、あかりの推し方とは、推しを「解釈する」という方法である。

①推しとの一体化

【引用①】
「誰にもわからない」と突っぱねた、推しが感じている世界、見ている世界をわたしも見たい。何年かかるかわからないし、もしかしたら一生、わからないかもしれないけど、そう思わせるだけの力が彼にはあるのだと思います。

様々なメディアを通じて入手した推しの発言や表情を書き留めブログに記すことで、あかりは推しへの深い理解を得ようと試みる。
このことであかりが到達しようとした境地とは、「推しとの一体化」である。
以下、そのことが象徴的に示されている部分を引用しよう。

【引用②】
推しの世界に触れると見えるものも変わる。あたしは窓に映るあたしの、暗いあたたかそうな口の中にかわいた舌がいるのを見て音もなく歌詞を口ずさむ。こうすると耳から流れる推しの声があたしの唇から漏れ出ているような気分になる。あたしの声に、推しの声が重なる、あたしの眼に推しの眼が重なる。


上引用は、母が運転する車に揺られながら、推しが作詞と歌唱を担当する楽曲をイヤホンで聴く場面である。聴覚をトリガーに、視覚や声を推しと同一化させようと試みている。

②社会参加と承認欲求の充足
推しに貢ぐため、あかりは慣れないアルバイトにも精を出しており、「あと2時間働けばCDが1枚買える」と自分を励ます。あかりにとって、現実とは「推しを推す」ために存在しており、それによりかろうじて社会参加が可能となっているのである。
また、推しへの想いを綴ったあかりのブログはファンの間でかなりの知名度を有しており、いもむしちゃんのコメントで、オタク界隈でのあかりは「しっかり者のお姉さん」とすら表現されている。あかりはブログでは自身を「わたし」と呼称しているが、語りの一人称は「あたし」であることからも、自身のキャラクターを意識的に使い分けていることがわかる。しっかり者の姉をもち、落ちこぼれで周囲の理解を得られない現実世界のあかりにとって、オタク界隈は承認欲求を満たすことができる居場所となっていることが想像できる。

上記のように、「推しを推す」ことで人生にプラスの作用をもたらしていたあかりだが、人気投票で推しが最下位になったことにより、その「推し」方に変化があらわれる。

2−2 後期ー苦行

人気投票以後のあかりの推し活は、「生き甲斐」というプラスのニュアンスが消え、「苦行」の様相を帯びてくる。
推し活に全神経を注いだあかりは留年が決定し、高校を中退した後アルバイトまで解雇されてしまう。中退後も一向に職探しをする気配のないあかりは家族にも見放され実家を追い出される。社会との繋がりを遮断されたあかりは、自分に追い討ちをかけるようにSNSの閲覧数をチェックすらしなくなる。
社会との紐帯と承認欲求、さらには食欲という生存欲求すら拒絶し推し活に打ち込む姿は、苦行にたえる修行僧を彷彿させる。
これは、「推しが幸せでないのなら、自分も幸せであってはならない」という、より深い推しとの一体化をはかる一種の挑戦とよめるのではないだろうか。いわば、引用②の感覚の一体化からさらに一歩進んだ、精神の一体化である。

そんな折、まざま座の解散と推しの芸能界引退が発表される。

3.推しの喪失
3−1 コンサート

卒業コンサートで、推しは真っ青な衣装を見に纏い、青い照明に照らされソロ曲を歌い上げる。
その様は、これまでの抑圧された歌い方とはまるで異なり、あかりはピーターパンを演じていた子供時代の推しが、大人になったのだと悟るのである。
推しを推すことで現実世界から逃れ自分を確立していたあかりは、コンサート後のトイレの個室で喪失感と恐怖に襲われる。

【引用③】
四方を囲むトイレの壁が、慌ただしい世界からあたしを切り取っている。先ほどの興奮で痙攣するように蠢いていた内臓がひとつずつ凍りついていき、背骨にまでそれが浸透してくると、やめてくれ、と思った。やめてくれ、何度も思った、何に対してかはわからない。やめてくれ、あたしから背骨を奪わないでくれ。推しがいなくなったらあたしは本当に、生きていけなくなる。あたしはあたしをあたしだと認められなくなる。冷や汗のような涙が流れていた。同時に、間抜けな音を立てて尿がこぼれ落ちる。


作中で、推しはあかりの「背骨」であると繰り返し表現されている。推しは、彼女が立って人間らしく生きていられるための支柱であった。上記の引用は、その「背骨」が消失しはじめたことにより、現実世界と推しを推す人生が分離しつつあることが残酷に示されている。推しの喪失を恐れるが故に真に迫った涙の描写とは対照的に、こぼれ落ちる尿はなんとも間抜けであり、「生活するだけで生まれる老廃物」と評される現実世界のままならなさが露呈してしまっている。

3−2 マンション

コンサート後もあかりは「推しを推す」人生にピリオドを受つことができない。卒業コンサートのレビューブログを更新できない彼女の足は、推しが婚約者とともに暮らすマンションに向かう。そこで、婚約者の干す推しの洗濯物を目にしたあかりは、推しの喪失を受け入れざるを得なくなるのである。
洗濯物は「現実世界の上野真幸」を表す動かぬ証拠であり、そのことは、「アイドルとしての推し」を解釈することで上野真幸を理解しようとしていたあかりの圧倒的敗北を意味する。社会を生きることがままならないあかりは、推しと一体化することでもう一つの人生を創出しようとしていた。しかし、上野真幸の洗濯物は、推し自身もアイドルと人間の2つの世界を生きていたことを示し、アイドルとしての一面しか享受できない彼女が完全な一体化に到達することなど不可能だということを悟らせたのである。

この場面には、「死」のモチーフが多く散りばめられてる。
マンションに向かうあかりは、自身の震える膝を「お盆のときに茄子や胡瓜を支える爪楊枝」と表現している。茄子や胡瓜はご先祖様が現世に帰るために使う乗り物であり、あたかも推しを推す人生が終わり幽霊と化したあかりが、現実世界の自分の肉体を乗り物として利用しているかのようである。加えて、マンションを後にしたあかりがたどり着いた先は墓地であり、ここでも推しに生きる自分の完全な死が暗喩されている。

3−3 ネバーランドの破壊

家に着いたあかりは、破壊衝動にとらわれる。
そして、それは彼女が解釈を避けてきた、推しがファンを殴った瞬間と通じるものではないかと考える。

【引用④】
あたしにはいつだって推しの影が重なっていて、二人分の体温や呼吸や衝動を感じていたのだと思った。影を犬に噛みちぎられて泣いていた十二歳の少年が浮かんだ。ずっと、生まれたときから今までずっと、自分の肉体が重たくてうっとうしかった。今、肉の戦慄きにしたがって、あたしはあたしを壊そうと思った。(…)視界がグッとひろがり肉の色一色に染まる。振り下ろす。


ここでまず注目したいのは、あかりが推しを「影」だと感じているところである。
冒頭で、本作では「ピーターパン」のモチーフが効果的に用いられていると指摘した。あかりの人生最初の記憶は、ワイヤーに吊るされた 推しを真下から見上げた光景である。金粉を振りまいて空を駆けるピーターパンの真下にいるあかりは、あたかも彼の影のようであり、「上野真幸」という名前も彼女と推しの位置関係を暗示している。しかしこの場面では、推しが影で、推しと引き離されたあかりこそがピーターパンであるかのように描写されており、ある種のパラダイムの転換が起こっている。

後半部で注目すべきはその色彩だ。
破壊衝動にとらわれたあかりは目にとまった綿棒のケースを振り下ろすが、その瞬間視界が「肉の色一色」に染まる。あかりの部屋は推しの担当カラーである青色で統一されていたが、一瞬にしてその色彩が変化する様はあたかも魔法がとけたかのようである。これは、彼女が創り出したネバーランドの破壊といえる。そして皮肉にも、ネバーランドの破壊はこれまで解釈に辿り着けなかった推しの破壊衝動をなぞろうとしたことの結果であり、あかりはようやく完全に近い一体化を果たしたといえるのではないだろうか。

4.収骨ー自業自得


【引用】
からすが鳴いていた。しばらく、部屋全体を眺めていた。縁側から、窓から、差し込む光は部屋全体を明るく照らし出す。中心ではなく全体が、あたしの生きてきた結果だと思った。骨も肉も、すべてがあたしだった。(…)膝をつき、頭を垂れて、お骨を拾うみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。綿棒をひろい終えても白く黴の生えたおにぎりを拾う必要があったし、空のコーラのペットボトルをひろう必要があったけど、その先に長い道のりが見える。這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。

「中心ではなく全体が、あたしの生きてきた結果」とあるが、これは、中心に据えた推しの祭壇とゴミの散乱した部屋を意味し、背骨と肉体とも対応している。また、綿棒に加え、黴の生えたおにぎりの白さや、推しも飲んでいた空のコーラのペットボトルは、いずれも骨を想起させる。
注目したいのは、引用の前半部が全てが過去形で書かれていることである。ネバーランドと重い肉体を破壊したあかりは、生まれ変わってその骨を収骨しているように描かれる。

2ー2で推し活に励むあかりを苦行僧、3ー2で推しのマンションに向かうあかりをお盆の茄子と胡瓜になぞらえたが、ラストの場面はまさに仏教的要素が多く読み取れる。
推しのマンションを後にしてたどり着いた墓地で、あかりはふと「自業自得」という言葉を思い起こす。本作における「業」とは、2つの意味を含有しているのではないだろうか。すなわち、「行い」と「カルマ(前世の行為によって現世で受ける報い)」である。前者の「業」は、すなわち推し活と怠惰な生活である。しかし、その両方を破壊した今、「行い」は前世のものとなり、「カルマ」へとかわった。
また、背骨を失い、二足歩行から四足歩行で生きることになったあかりの姿は、「輪廻転生」を思わせる。前世の業から二足歩行ですらない姿に生まれかわったあかりは、新たな背骨が見つかるまで前世の業を拾い集めながら生きていこうと決意する。しかし、その一見悲しい姿は、これからのあかりの人生を少しずつだが、確実に整えていくのである。

5.感想

本稿では、あかりの「推し方」の変遷を読み解くことで、現代における「生き方」を発見しようとした。
当初「推し」はあかりにとって生き甲斐であったが、「推し」の社会的価値は不変のものではなく、そのことにより、推しは「生き甲斐」から「苦行」「業」へと簡単にその位置付けを変化させてしまった。本作は、変動の激しい現代社会において「生き甲斐」にかけることの危うさを描き、警鐘を鳴らしている。

だが、私はこの本を救いの書としても読みたいと思う。
冒頭、私には推しがいないといった。しかし、だからこそ、あかりの姿は滑稽ではあれど崇高なものとして映ったからだ。
極度に器用さの求められる現代社会において、誰もがあかりのような不器用ゆえの息苦しさを一度は感じたことがあるはずであり、そんな社会で生き残るためには生き甲斐となるものを探さずにはいられない。あかりは、選択肢の多すぎる社会で「推し」を見つけ、身を削ってまで全力をかけるという奇跡をなし得たのだ。

また、ネバーランドを破壊した後の描写は、輪廻転生をモチーフとしているのではないかと考察した。私は、ここにこそ現代における「生き方」が現れているのではないかと思う。変動の激しい社会で、人はひとつの人生の中で何度も生まれ変わらざるを得ず、その度に生き甲斐となるものを探す。転生した姿は必ずしも良い姿であるとはいえない。しかし、それは「推し」を追い求めない理由にはならないのだ。

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