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見捨てられた絶望:『1984年』

小説は自由である。過去の黄金時代を描いてもよいし、来るべき暗黒を表現しても許される。『1984年』はまさに後者であった。現代の監視社会に対する「予言の書」などど評されることも多い。

しかし一方でこれを単に社会的な寓話として扱うのは間違いである。オーウェルはそのもう一つの代表作である『動物農場』から最後の『1984年』に至るまで芸術を忘れなかった。

『動物農場』は、自分が何を書いているかをはっきり意識しながら、政治的意図と芸術的意図を融合してひとつの統一体を作ろうと試みた最初の本だった。

ジョージ・オーウェル『なぜ書くか』

オーウェルの巧みなところは「禁じられた恋愛」という、芸術においては定石ともいえるテーマを用いながら、全体主義という政治的に新しい概念を表現したことにある。

ジュリア

主人公であるウィンストンの心情は丹念に描かれているが、その分私たちには奇妙に映る。たとえば、後の恋人であるジュリアに対し、告白の紙を見る直前まで感じていた印象は恐怖でしかない。それは告発に対する、保身のための殺人さえ考えるほどの恐れであった。

晴れて結ばれたあとでも、ふたりは時々その足並みが揃わないことは多い。ウィンストンの話を最後まで聞くことなくジュリアは眠る。危機感さえもそう簡単には理解されなかった。

その分、ジュリアにはまだ理想主義的な純真さが残っている。一方のウィンストンは「ぼくたちはもう死んでいる」と語るのである。

反体制派の象徴である「ブラザー同盟」に加入するための宣言の際、この二人はさまざまな質問でその覚悟を試される。そして最後の質問、まさにその時に違いは明らかになる。

「お二人への質問になるが、お互い別れ別れになって二度と会えなくなっても構わないという覚悟は?」
「ないわ!」 ジュリアが急に割り込んで言った。

しかし我らが主人公は、どうにかこうにか否定するのが精一杯であった。

オブライエン

ウィンストンに理屈なしに魅力と共感を呼び起こしているのは、むしろオブライエンの方である。ジュリアのような告白も必要としないどころか、ほとんど無意識に惹きつけられているのである。この魔力の種明かしはウィンストン自身も気づいている。

彼の精神はウィンストンの精神を包括していた

拷問が続くにつれオブライエンはその異常さを表していく。しかし彼が語るのが歪な世界観だとしても、ウィンストンには対抗する術はなかった。ウィンストンは「自由」だけではなく、「世界」も奪われていたからである。

報道は言うまでもなく、周囲の人間も信用できない。現実の経験さえあいまいであり、自分の家族の記憶すらはっきりしない。自身を根拠とすべき場所のない、いわば「根無し草」のような状態での生活を強いられているのである。

芸術において孤独はよく扱われるテーマである。しかしウィンストンが、ことによるとオブライエンまでもが感じているであろうそれは私たちのよく知る孤独ではない。

この本の2年後に刊行されたハンナ・アレントの『全体主義の起源』の言葉を援用するなら「見捨てられていること」Verlassenheitにまで転化してしまっているのである。そしてこれこそがあらゆる対抗手段を手放すような事態を引き起こすのである。

歪な世界観でも、「見捨てられている状態」Verlassenheitに陥った人間には唯一の頼みには違いない。そういった意味では、オブライエンのあの自分を正当化する態度もいいわけではないのだろう。


思考と制御

いかに技術が進んでも、ある人間が他の誰かに思考まで筒抜けになるということは現実的ではない。百歩譲ってそのような機械が発明されたとしても、制御できるかは別の話である。人間はむしろ意図しない事態すら引き起こしてしまうからだ。

この「新しさ」は多数の異なる人間同士の関わりから生じるものである。言葉の持つ曖昧さはさまざまな解釈を生むし、それが連続すれば選択肢は無限大になるだろう。

逆に言えば、人々を均一化して孤立させれば予測可能性は飛躍的に高まる。つまり、「多数の異なる人間」ではなく「人間一般」だけが用意されていれば十分である。ただし、この場合の「人間」とは条件反射で動くパブロフの犬のようなものにすぎない。

この小説に出てくる「二重思考」や「ニュースピーク」といった悪名高い品々も結局のところこの目的のために使われている。巻末の付録では「ニュースピーク」が未完成に終わったようにも読める。失敗に終わったのか、もしくは他の何かで十分だとされたかはわからない。

この小説の結末近く、ウィンストンとジュリアは最終的に命は助かるものの以前のような愛情は互いに抱けなくなっている。しかし皮肉にも、裏切りあったことや無気力さなど、かえって昔より「似たもの同士」にはなっているのである。

現実に照らして

先述した『全体主義の起源』ではまさにこの小説の理論を説明するかのような議論が展開されている。とはいえ実現した全体主義はより不可解なものであった。そのひとつを挙げるなら、権力への認識である。

オブライエンは「権力のための権力」を盛んに訴えていたが、現実ではそれすらも捨て去られた。権力というものは人間の共同の中でしか存在できない。オーウェルもこれを理解はしていたのだろう。ウィンストンはあくまでも「ビッグ・ブラザーを愛していた」のであって、単純に権力に屈したわけではない。

執筆当時からはかなりの年月が経過したが、この本の予測がどの程度実現されたかを考えてみるのもよいかもしれない。この名作のおかげで、私たちはテレスクリーンや「二重思考」に対策することはできるだろう。

しかし心に留めておかなければならないのはむしろ次のことである。つまり、この作品の芸術的部分を担う「見捨てられている状態」Verlassenheitの絶望こそ、目立たないが現実的なものであるということだ。拠り所を失ったとき、誰でも『1984年』の主人公たる準備はできているのである。

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