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大学生の考える「働き方」

「自分らしく働く」ということが理想的な姿とされることが多くなってきました。しかし、「自分らしく働く」ということはそもそもどのような意味を持つのでしょうか。

現代の標語

就職活動の場、特に学生側の立場においても「自分らしく働く」ということばはよく聞かれるようになっています。そういった理念を持った会社こそが理想であるという理念はここまで浸透しています。

また、高度経済成長期における「仕事人間」のようなものが支持されなくなったことも確かです。一方でそのような考えが少し前の世代に根強いことを考えると、現代のそれは非常に歴史の浅い概念かもしれません。

「自分らしく働く」というものが新たな標語となっていくならば、その最初の担い手である私たちはその意味について考えておく必要があります。標語のもとに作られた世界は私たちの後にも残っていくものですから。

まだ「働く」ということ自体に十分触れていない私がこのようなことに考察を加えるのは生意気かもしれませんが、それを承知で少し意味について考えていきたいと思います。

現代の変化

現代の特徴のひとつとして「働き方」の種類が増えたことが挙げられます。フリーランスはもちろん、会社勤めでもノマドワーカーというものも登場しました。またYoutuberやUberEatsの配達員のように特定の企業のシステム内で収入を得よういうものも広まってきました。

NPO法人も最近ではよく聞くようになりました。副業というものも肯定的なイメージを得ようとしている傾向にありますし、これ以外にも新しい形態が生じていくであろうと予想できます。

しかし「自分らしく働く」とは、単に自分に合った形態を選ぶという意味合いで使われているのではないことは明らかです。もしそうならばこれは既に済んだ変化を表しているだけであって、このようにひとつの標語にはなることはありません。

このことばがこんなにも話題とされているのは、その意味の中に現在進行形の何かが含まれていると考えるのが自然でしょう。

自己表示の存在

このことばに関する多くの意見を見るに、少なからず個性を表現することが重視されていると感じます。個性とは何かという議論は今回の主題ではないので深くは掘り下げませんが、何らかの自己表示が含まれていると考えて良いでしょう。

このような態度自体は決して現代にしかみられなかったものではありません。例えばダンテは次のように述べています。

どんな活動においても、行為者が最初に意図することは、自分の姿を明らかにすることである。

また、岡倉覚三(岡倉天心)は『茶の本』で次のように言っています。

これら茶の味わいかたはその流行した当時の時代精神を表している。というのは人生はわれらの内心の表現であり、知らず知らずの行動はわれわれの内心の発露であるから。

このように見てみると、本来どんな行動においても自己表示は意図されており、またある程度は自然と行われているということがわかります。

一方でこのような疑問も浮かびます。すなわち行為の中に自己開示が常にあったのなら「自分らしく働く」ということはわざわざ言わなくても良いのではないか、ということです。

行為は何でも「自分らしさ」を表現しているはずなのになぜ「働く」だけにこのような念押しが行われる必要があるのでしょうか。不十分なのでしょうか。だとしたら何がその原因なのでしょうか。

「活動的生活」の分類

この問いについて重要な示唆を与えてくれるのは政治学者のハンナ・アーレントです。アーレントは人間の「活動的生活」について多くの考察を行っています。「活動的生活」とは思考などの「観照的生活」と退避されることばです。

アーレントはこの「活動的生活」を3つ、「活動」、「仕事」、「労働」に分類しています。

「活動」は原語ではactionで「行為」と訳される場合もあります。これは

物あるいは事柄の介入なしに行われる唯一の活動力

とされており、政治活動がその例に挙げられています。


「仕事」は原語ではworkで「製作」と訳されることもあります。

仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。

日本なら伝統的な職人の仕事と言われるものが例となるでしょう。アーレントはこれら「仕事」の製作物の永続性を指摘しますが、職人の作る道具は何世代も受け継がれることもあるという特徴はこれに合致しています。


「労働」は言語ではlaborとされています。

「労働」laborとは人間の肉体の生物学過程に対応する活動力である。

この「労働」の定義は少しわかりにくいかもしれませんが、その特徴は「生産」と「消費」というサイクルを元にしているという事です。


先程の例でいえば、「仕事」を行う職人の作った道具は人間よりも長く存続することさえあります。一方で「労働」の産物は「消費」が念頭にあるため人間よりも存続し続けることは決してありません。

もっともわかりやすい例は食べ物でしょうか。ワインなどは例外だと言いたくなるかもしれませんが最終的にはそれらも「消費」されることが意図されています。職人の作る道具は壊れてしまうことはあっても本来「使用」されるものであって「消費」されるものではありません。

現代の職業がそれぞれどれに当たるか考えるのも価値あることかもしれませんが今回は軽く触れるだけに留めておきます。ただ、自分の周りのものが「仕事」か「労働」のどちらの産物かは一度考えてみるべきかと思います。

「働く」とは何を意味するのか

さて、「活動」とは人間の多数性を前提としていますから自己表示は必ず行われます。むしろ自己を隠す方が苦労するほどです。

「仕事」はどうでしょうか。確かに製作物は完成後は製作者の手を離れてしまうようなこともあります。しかし理想が製作者の内面にある以上、その表現はそのまま内面の表現と言えるでしょう。

最後に「労働」です。これが対応しているのは生命過程であり、極めて個人的なものです。また、生産物はすぐに「消費」されるため痕跡を残すことはありません。

よく混同されることですが、生命や自然における多様性とは種という抽象的なものに対するものであって人間のそれとは異なります。人類という抽象的な概念があるのと、具体的な人間が多数いるということでは大きな差があります。

「消費」と「生産」はそれぞれ補完的な終わりのない繰り返しであり、ニーチェの永劫回帰のような必然的なものです。生と死という生命過程に対応しているということはこのようなことを意味します。

同じことが繰り返され、またその結果もすぐに消滅する。このような条件下では自己の表示など無意味に思えますし実際そうかもしれません。

このように見てみると、「自分らしく働く」の「働く」とは先の分類の「労働」に当たるのではないかという推測が立てられます。

無意味さとの戦い

以上のように考えてみると、前提となっている「働く」ということばの中に自己表現を無意味にしてしまうようなものが含まれているために「自分らしさ」が問題となっているのだということが導かれます。

「自分らしく働く」という標語が受け入れられながらもその実現が曖昧になっている背景にはこのような概念の問題があるのではないでしょうか。

今回の文章は何か明確な解決策を見出そうというものではありませんし、そのような回答を試みること自体正しいとはいえないでしょう。それらはその状況、その人の信条によってそれぞれ導かれるものであるべきです。

ただこのような自己表現が無意味とされていくことの繰り返しが、全くの無害であるとは思えません。このような虚無感に全ての人が耐えられるとは思えませんし、そのように要求するのは酷なことです。

何かに意味を与えるということは人間の考える能力、思考が担うものだといえます。単純なデータが山ほどあっても意味が生まれてくるわけではありませんから、この問題の解決は科学やコンピューターに任せるわけにはいきません。

一方で私たちはどのようにしても自分自身の状況に影響されやすいものです。日々の生活、その「必然」は思っているよりも大きいものであることはホメロスのことばに表されています。

多くが意思に逆らう、必然が重くのしかかるゆえに。

もし「自分らしく働く」ことについて自分自身で考えるならば、私たちは「必然」から距離を取らなければならないのかもしれません。


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