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古典は必要なのか、それとも不要か

W・H・オーデンという人を知っていますか。1907年のイングランドに生まれた詩人である彼は、こんな言葉をのこしています。

不当に忘れ去られている本というのはいくつかあるが、
不当に記憶されている本はない。

このことばとは、時代も言葉も国さえも、遠く離れた現在の日本では「古典を学ぶ意義」というものが疑問視されています。

試しに検索してみれば、「古典 勉強する意味」という候補が出てきて、その結果は約33,100,000件(Google)もの数にのぼります。「古典は本当に必要なのか」と題するシンポジウムも開催されていました。

私自身は古典を学ぶことに対して肯定派の立場を取りたいと思っています。しかし、専門家でもないのにこのようなことを言うのは大変恐縮なのですが、それでも素直に言わせていただくと、肯定派の方々の意見もあまり納得できませんでした。

おそらく、同じような思いを抱く人が多いからこそ古典不要論が話題になっているのだと思います。

この議論は様々なところで行われていますから、門外漢である私が意見を述べるのは差し出がましくもあります。しかし、自分自身の考えをまとめると言う意味でも「古典を学ぶ意義」について考えてみたいと思います。

ちなみに日本における古典とは、古文と漢文を含んでいるそうですから、以下でもこの定義に従っていきます。

古典の特徴

まずは以下の文章を読んでみてください。横書きのため、かぎかっこは読みやすいよう手を加えましたが、内容はそのままです。

何心なく、若やかなるけはひも、あはれなれば、さすがに、なさけくしく契り
おかせ給ふ。
「『人しりたる事よりも、かやうなるは、あはれ添ふこと』となん、昔人もいひけ
る。あひ思ひ給へよ。つむ事なきにしもあらねば、身ながら、心にもえ任すまじ
くなむ有りける。又、『さるべき人々も、許されしかし』と、かねて胸痛くなむ。
わすれで待ち給へよ」など、なほなほしく語らひ給ふ。
(『源氏物語』空蝉 )

『源氏物語』は情念を深く表現している作品として有名です。「あはれ」という語は2回出てきていますが、もちろん現在の「憐れ」や「哀れ」とは異なったものであるということは納得していただけると思います。

古典といえど、ただあらすじや内容を知るだけなら解説本やマンガに頼ることもできるでしょう。しかし、現代語訳はあくまでも現代語訳であって、当時の人が共通認識で持っていた意味での「あはれ」に近づくには原文を読むほかありません。

漢文にも同じことが言えます。かつては教育において漢文の素読というものが行われていました。これは漢文をその内容について講義することなく、ただ音読するといったものです。

谷崎潤一郎は『文章読本』の中で、この素読に触れながら、覚えた漢文の一説を取り上げています。漢学者でなければ正確な意味はわからないような文章でも、読んで「漠然と」わかることがあると指摘していました。

しかし、この漠然たる分り方が、実は本当なのかも知れません。なぜなら、原文の言葉を他の言葉に云い変えますと、意味がはっきりするようではありますけれども、大概の場合、或る一部分の意味だけしか伝わらない。「婚蛮タル黄鳥」はたド「締蛮タル黄鳥」でありまして、他のいかなる文字や言葉を持って来ても、原文が含んでいる深さと幅と韻とを云い尽すことは出来ない。ですから、「分っているなら現代語に訳せる」と云えるはずのものではないので、そう簡単に考える人こそ分っていない証拠であります。

古典の特徴、他のものには決してないものとは、日本語にかつてあった意味がそこに残されているということだということができます。このことに深く触れる準備として、まずはことばが考えることに対して与える影響について考察してみたいと思います。

ことばの制約

私たちは何かを考えるとき、必ず、ことばを使って考えています。感情は時に言い表せないものもありますが、それがことばを持たないのは感覚による時だけです。それについて反省したりしようとするなら、やはり何かしらのことばで言い表すことになります。

逆に言えば、当てはまることばの無いものについては考えることが困難であるということです。

明治期に「概念」や「文化」、「社会」をはじめとした多くの用語が翻訳から生まれてきたのも、元々は西洋の学問を考えるために、足りなかったことばを補うためでした。

「概念」や「文化」、「社会」ということばを全く使わずにニュースなどを議論するときのことを考えてみてください。私たちの内面に、ことばが非常に大きな影響を与えていることは納得していただけると思います。

また、この文章を読んでいただいている方の多くは日本語で物事を考えておられることでしょう。

古文や漢文の中の意味がどれだけ今にも受け継がれているのか、それには程度の差はあります。私たちには馴染みの薄いものも多いですが、大切なのは意味が継承されているか否かではありません。

日本人としてのアイデンティティの確立をどう考えるかは自由ですし、必要ないと思う方もいるかもしれません。ただ、この「考える」ということが日本語で行われる以上、やはり日本語とそれを形作る日本文化の影響を脱することはできないのです。

同じ文化的文脈と日本語で表現されながらも、自分が知らない意味に触れること。また、それについて考えるということ。これが古典を学ぶことでしか得られない体験であるということができます。

続いて否定派の意見についても検討していこうと思うのですが、その前に「意味」を考えるということについて触れておきます。このような回り道をするのは、実用性について考えるときに、避けて通れない問題であるからです

「意味」を考えるということ

「考える」という語は広い意味を持っていますが、今回取り上げている、「意味」について考えることは特に区別しておく必要があります。

カントは人間の内面的活動をVernuntt(理性)とVerstand(知性)に分類しました。Vernunttは意味を、Verstandは感覚を扱うものだとしています。

ハイデガーやハンナ・アーレントの翻訳のように、後世で同様の問題を取り上げるとき、Vernunttにあたるものは「思考」と訳されることが多く見られます。

以後も私は思考を「意味」を考えるという内面的活動を指す語として使っていきたいと思います。

思考はいわゆる問題解決能力などといったものとは異なります。意味を求めるという性質のため、そもそも解決というような明確な終わりのない営みであるということができるでしょう。終わりがなければ、成果を生み出すこともありません。

思考は科学のように知識をもたらしはしない。
思考は役に立つ人生訓を作り出しはしない。
思考は宇宙の謎を解きはしない。
思考は直接行為への力を与えるわけではない。
                   ハイデガー             

思考は成果を作りませんが、意味や本質を考え続けていくことが可能です。より具体的に言うなら、道徳、倫理や人生の意味といった事柄は思考によってのみ考え続けられるものなのです。

トロッコ問題やその他の道徳的な思考実験を考えてみれば、このことは自然とわかっていただけるかと思います。これらは明らかに一つの答えを出して終わりとすべき問題ではありません。

古典が思考に与えるもの

思考は非常に内面的なものであり、ほとんど外部の条件には左右されないものと言えるかもしれませんが、ことばは別です。今まで見てきたように、ことばは思考のみならず、内面的活動に大きな影響を与えています。

ことばが失われることは、それを用いた思考も消滅することでもあるでしょうことばの移り変わりは激しいものですが、古典は忘却されたことばを保存し続けるものです。

古典は私たちのことばにかつて残っていた意味を含んでいるのです。また、無意識に私たちの思考に影響を与えている文化的なものに意識的になるきっかけも与えてくれます。

他のものを学んでも、古典が思考に与えるものには代えられません。外国語を学ぶことで自分の文化的背景に意識的になることは確かにあります。しかしあくまで間接的であって、決して「あはれ」や「締蛮タル黄鳥」に触れることはできません。

先に挙げたハイデガーは詩と思考とは近い隣人だと表現しました。和歌や俳句の中の美意識、『源氏物語』や『平家物語』などの描く世界観は、当時の、そして今でも影響を与えているひとつの思考を垣間見せてくれるものだと言えます。

内なる声

思考は定まった教訓をただ求めるものではなく、常に続いていくものですから、ここでの古典の意義が単なる教訓でないことはわかっていただけるかと思います。

また、現代を相対化し、現代の絶対的な常識・主義思想などに異を唱えるということが古典の意義だと主張しているように感じられるかもしれません。肯定派の方でもこういった意見を述べている方は多くいます。しかし、古典の独自性は単なる時代の相対化なのでしょうか。

同言語の異なる思考が文章で表されていること、これが古典のもつ特徴であり、思考と深く関わる点でもあります。

文章であることをなぜ重要視するのか説明するには、思考における「一者の中の二者」について考える必要があります。

これは先ほど名前を挙げたハンナ・アーレントが思考について述べた時に指摘していて、思考を自己意識における対話的構造を持つものだとしています。

自問自答する、という日本語の表現はこれを表していると考えてよいでしょう。自問自答ということば自体が道徳、倫理や人生の意味に対して使われることが多いのもこれを裏付けています。

文章を読むとき、音読は言うまでもないですが、黙読でも自分の内面で読み上げる作業を行います。内面の声に耳を傾けると言う意味では、思考と読むことは似た側面を持っています。

古典を読むと言うことは、その内容を内面の声とすることです。これは他者性と言うよりも自らの一部にしてしまうことに近いと思います。単なる相対化や比較であれば、谷崎潤一郎の「締蛮タル黄鳥」のような体験は不可能ではないでしょうか。

否定派の意見について

古典が思考に刺激や省察を加えるものだとしても、実は否定派の主だった主張である「古典の実用性の無さ」には反論できません。

前提としている思考自体が成果をまったく生まないのですから、むしろ否定派の指摘は正しいとさえ言えます。しかし、実用性がないからといって必要ないとするならば、同様に思考も必要ないことになってしまいます。

思考は必要ないのでしょうか。人生の意味を求めるのは無駄でしょうか。道徳的問題について考えるのはやめてもよいのでしょうか。

正しいことをしているかどうか、立ち止まって考えるということは何の成果も生み出しません。だからといってそれを放棄してもよいのでしょうか。

思考をやめ、道徳も意味も考えずに生活するということも可能ではあるかもしれませんが、そういう人たちと暮らしたいか、自分がそういう人間でありたいかということは疑問です。

このように実用性の無さがそのまま不要であることの根拠にならないことはお分かりいただけたと思います。

古典は実用性はなくとも、人間に不可欠な思考について独自の展開や示唆を与えてくれるものなのです。また、それが文化的な文脈を持っていることも重要です。

人が意味について考えるとき、大抵は常識や既存の価値観に批判を加えることになるのですが、それは必ず文化的な文脈を含んでいます。

問題解決能力などでは不可能なことを扱うとき、つまり意味ということに取り組むとき、古典は思考の貴重な隣人となることができると言えるでしょう。

余談ですが、先ほど取り上げたハンナ・アーレントは『全体主義の起源』などを通じて道徳における思考の大切さを主張した政治哲学者でした。

ナチスドイツのアイヒマン裁判における「悪の凡庸さ」について語ったことは有名で、映画化もされているのでご存知の方も多いと思います。

アーレントがその議論、政治的な主題だけでなく、道徳的な問題に対しても、ギリシアやローマの「古典」を重要視していたということは注目すべき点だと思います。

さいごに

古典の意義を考えるということ、これこそ思考の取り組むべき事柄ですから、結論のようなものは述べようとは思いません。

しかし、冒頭の詩のように、「不当に忘れ去られている本」が増えていくということは、同時に私たちの思考が失われているのだということは心に留めておかねばならないでしょう。

帰る雁過ぎぬる空に雲消えていかに詠めん春の行くかた                     (式子内親王)

喪失を取り戻すことは難しいことです。幸い、私たちには素晴らしい古典が未だ残されているのです。

残されたものが消え去ってしまう前に、それについて考えることは専門家や有識者だけがすることでしょうか。古典の意義を問う思考は、誰にでもできる営みであり、私たちひとりひとりの取り組むべきことだと言えるでしょう。

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