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いい文章とはどんなものか

名文を書きたい。これは腰を据えて文章を書いた経験のある人なら誰でも考えることである。「プロが教える文章術!」などといった本が書店に溢れていることはそれを証明しているが、新刊が出続けているのを見ると決定版はまだらしい。

そもそもどんなものが「よい文章」なのかということも明確ではない。起承転結や5W1Hが大切だとも言われるが、確かにこれは一理ある。長い時間をかけたであろう文章でも、構成が悪く何を言いたいのかがわからないというものもよく見かける。情報伝達という意味ではこれは重要と言ってよいだろう。

構成がしっかりとしているなら少なくとも内容は伝わるだろうが、問題はこの内容という部分である。内容というと私たちはつい「何を書くか」ということだけに注目し過ぎてしまうが、これは誤りである。

「買い物に行った話」と「アマゾンの奥地に行った話」であれば後者の方が明らかに面白そうに思える。しかしもし淡々とアマゾンの地形や気候を紹介するだけで、肝心の冒険に対する描写があっさりとしたものだったらどうだろうか。未開の地を進むスリルを期待する読者としてはよい文章とは言い難い。

逆に日常の話であっても着眼点や表現によって上手い文を作り出すことはできる。随筆家とは本来そういうものであって、内田百閒など文豪の随筆も全てが特異な経験というわけではない。

これは小説にも同じことが言える。派手などんでん返しや伏線こそなくとも成立している名作は数多くある。ただこの場合は繊細な心理描写などがその合間を埋めていることもある。

「何を書くか」ということも大切だが、そうそう珍しい体験や斬新な発想が生まれることはない。一方で文章は量を書かなければ上達はしない。アイデア探しのために書く時間がなくなっては本末転倒である。こうなると平凡な題材であっても「どう書くか」ということを考える必要があるだろう。

ひとつの例を考えてみよう。富士山を見に旅行に行った話を書くとする。これ自体は日常というわけではないが、取り立てて珍しい体験というわけではない。当日の天気がよほど悪くなければ、文章の山場は富士山を目にした時ということになるだろう。

ここをどう書くかが問題である。富士山の風景を詳細に描写するというのがひとつの案である。山の稜線を表してもよいし雲や空と対比させることもできる。とはいえ、あまり詳細に描き出すのがよいとは限らない。長々と書き出すうちに自分でもよくわからなくなる恐れもある。

山を見た時の感動、つまり心理描写に重きを置くこともできる。この場合は風景に割く分は少なくても構わないかもしれない。いかに心動かされたかを伝えることで間接的に美しさを印象付けることもできるだろう。

文体や表現全体について言うと、これは個人的な好みでもあるのだが、文章において過剰に個性を出そうとする必要はないと考えている。いかに事務的に書こうともその人らしさというのはにじみ出てくるものだからである。

先ほどの例であれば、風景か心情か、また同じ風景描写でも山そのものなのか他との対比なのかといった取捨選択に個性は現れてくる。また仮に全く同じものを書くとしても言葉遣いに差が出てくる。

ここに加えて故意に特徴を持たせようとするとわざとらしく、技巧ばかりが目立つ文章になる。そういうものは読んでいてどこか居心地が悪い。

書き手の知識や教養などは文章のよさを決定づけるものではないと感じる。専門の論文は別として、有名な学者の文章でも不満を言いたくなる文がある。一方で無名の人物がインターネットの掲示板に残した名文というのも確かに存在する。

歴史上においてもジャン・ジュネのように明らかに社会から外れたところから名文を生み出した人物もいる。人となりというものは文章に影響はしてもその良し悪しまでを決定するものではないのだろう。

こうして文章について書いていると「お前の文はどうなんだ」という声が聞こえてきそうである。他人の意見も怖いが、変化していく自分の目というのもある。

今わたしが黒と書いていることを、いずれ赤と表現する日が来るかもしれない。その時には「よい文章」の基準も変わっているだろう。しかし語るためには書くしかなく、書き手としては現時点で正解と言えるものを送り出すしかない。

その結果が「よい文章」であり、それが語るべき「よい人生」となることを祈るばかりである。


人工知能はこの溝を埋める鍵のひとつである。いかに活用するかが今後の未来を決定していくことになるだろう。



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