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読書日記 12/25〜12/31

12/25(月)
今日は、クリスマスだ。雪は降っていない。東京でホワイトクリスマスはなかなかないのだろうか。心なしか去年よりも冬なのにあたたかく感じる。もう1週間も前にクリスマスに関連する映画などを観てしまったので、クリスマス当日の今日には、すっかりクリスマス気分はなくなっていた。

朝、支度をしながらnakamura harukaさんの「青い森Ⅱ」というアルバムを聴いていた。今気づいたけど「Ⅱ」ということは「Ⅰ」もあるのだろうか。

会社に向かう電車で深澤直人さんの「ふつう」を読んだ。 深澤さんは、無印良品のプロダクトデザインなどにも関わってる。なんだかこの本はそのエッセンスを感じるような気がする。

 「ふつう」の意味は多様で規定できない。「ふつう」は時の経過によって成るものか、あるいは二元の対比によって成るものか。いずれにしても日本人にとって「ふつう」という概念は切り離すことのできない生活の根底をなすものであり、それが美と思想の核をなしているように思えてならない。「ふつう」という価値が日本人にとってどれほどまでに重要な意味を持っているかを考えてみるのもわるくない。日本人は「ふつう」なのである。「ふつう」は心が回帰する場所なのである。
ふつう』(P22、深澤直人著、ddepartment

仕事は忙しく、プロジェクトメンバーほぼ全員で22時半くらいまで働いた。「仕事な」クリスマスだった。 帰りの電車で伊藤紺さんの「満ちる腕」を読んだ。

 べつべつの人間なのに花の咲く匂いで一緒に笑えてよかった
満ちる腕』(P10、伊藤紺著、短歌研究社)

夕食を食べて、お風呂に入った。お風呂の中と、布団に入ってからも「満ちる腕」を読んだ。とても癒される。
それから友人と少し話をしてからねむった。


12/26(火)
1日中、仕事は平凡そのものだった。
行きも帰りも、電車の中で「ふつう」を読んだ。

 ふつうのよさは「ふつうがいい」と自覚してときに感じることだ。ふつうでないと思う日々を自覚して人間は生きているから「ふつう」と自覚できることは幸せな感触はある。荒れた時代だからこそ「ふつう」がよく感じられるのかもしれないが、私は最近「ふつう」のよさをわりと頻繁に感じるようになった。病床で健康な日々を思うことと似た感じかもしれない。人は日々病んでいる。すべて二元的に解釈すると、「ふつう」を味わうために荒れ日々を生き抜かなければならないということかもしれない。それもわるくない。昼間のすいた駅のホームにあたる日があたたかいと感じるときや、朝家を出たときのぴりっとした空気の感触とかはふつうに誰でも感じていることかもしれないが、それをいいと感じられる自覚こそが幸せなのかもしれない。「ふつう」は日常のあたりまえに通り過ぎる出来事を自覚したときに感じるものだ。
ふつう』(P25〜26、深澤直人著、ddepartment

夜は予定があり、20時半くらいには、自宅に帰っていた。予定は21時半からなので、それまでに夕食をすませた。
今年の9月のはじめから行っている、友人のアプリ開発の相談会をしたメンバーと「今年1年お疲れ様でした会」を行う。互いに、今年はどんなことがあったか、来年は何をしていこうか、とかありきたりだけどそういう話を21時半から深夜0時すぎくらいまで話をした。
話の中でひとつ大きな収穫があった。来年の自分は、「ゆっくりとした時間をすごしたい」ということがわかった。例えばそれは、来年も文章を書きたいと思っているが、その文章でも30秒のことを300文字書く(古賀及子さんが言っていたこと)とか、夜のひとりの時間はデジタルから離れて、紙に万年筆で文章を書き、お香を焚きながら本を読んだり、 そういう(本来的な意味で)スローペースな自分の時間を増やしていきたい。彼と話すなかでそういうことが見えてきた。充実した時間に感謝したい。

眠るとき、布団に入ってから「満ちる腕」と読んでから眠った。


12/27(水)
会社までの電車で「ふつう」を読んだ。

 広島のマルニ木工という木製家具の会社が日本と世界の11人のデザイナーに小椅子をデザインしてもらうというプロジェクトを2004年に立ち上げました。このプロジェクトの起案者はデザイナーの黒川雅之さんでした。プロジェクト名は「nextmaruni」。私にもその依頼がきました。なぜか「できるだけふつうの椅子をデザインしよう」という思いが浮かび上がりました。デザイナーは感覚的に「ふつう」を知りながらそれを避けて通ることがデザインだと思いがちなのですが、むしろその意識の中心を通るような椅子をデザインしたいと思いました。
ふつう』(P43、深澤直人著、ddepartment

会社全体はすっかり年末ムードだった。おつかれさまの挨拶だったり、忘年会が行われていた。仕事のタスク状況も落ち着いていた。
僕が行っていたことといえば、最近仕事用のPCを新しくしたので、PCの移行作業を行っていた。
ランチは、プロジェクトのバックエンドエンジニアのメンバーで集まり、海鮮丼を食べながら、お疲れ様会をした。
20時くらいには、会社にほとんど人がいなかった。人が少ないときに会社で作業をするのも好きだ。

自宅に着いてすぐにお風呂を沸かし、そのあいだに夕食をすませた。温船に浸かりながら「ふつう」と読んだ。

 デザイナーはみんな素が好きである。素のかっこいいものを作りたいと思っている。それを飾るのは使用者の勝手だから何ともいえないが、素のトラックも悪くない。長距離トラックはある意味高速道路というステージで見られることを意識しているから、個性的に装飾を施す気持ちはわからないでもない。素のかっこよさを見直してほしい。街の景観にとっても、トラックやバスは面積が大きいから責任も重い。空港のデザインがその街の文化を見せるように、街を走るトラックがかっこよくなれば日本は魅力的になる。
 PRESSのトラックは一心太助のように、裾をたくし上げて街を駆け抜けていく。
ふつう』(P109〜110、深澤直人著、ddepartment

「ミニマル」であることは好きである。余計なものを飾らずにありのままをいかして、「素」を見い出せるようになりたいと思う。やはりそこには谷崎潤一郎の「陰影礼賛」とか、岡倉覚三の「茶の本」などで記されているような、日本文化の侘び寂びを見つめ直す必要はあるように思う。


12/28(木)
会社までの電車で「ふつう」を読んだ。

 無印良品の製品をデザインする時は、デザインをするという意義込みのようなものを捨てなければならない。肩の力をぬいて、それがいとも自然に成ったかのように、ある意味無責任と思えるくらいまで距離を置きながら客観的にそのもののかたちが出来上がっていく流れを見守らなければならない。意図的に手を出し過ぎないようにしなければならない。時には荒削りで未完成であることを許容し、あくまでもデザイナーが触りすぎないで出来上がった「祖」な感じを守らなればならない。
 しかしそれは簡単なことではない。ものによってはデザイナーの卓越したスキルと経験がないとものにならないものもある。さらっと成し遂げたかのように見えるデザインが、実は、それ以前から何度も実験や試作を重ね、膨大な時間とエナジーをかけて名品を生み出してきたデザイナーの経験の結果としてなし得たものであるというものは無印良品の製品の中には少なくない。
ふつう』(P167〜168、深澤直人著、ddepartment

ランチのタイミングで、買いたい本があったので近くの本屋に寄った。伊藤紺さんの「気がする朝」と、松浦弥太郎さんの「[よりめき] 今日もでねいに。BEST101」を買った。
最近読んでいた、伊藤紺さんの「満ちる腕」はかなり気に入っていて、 1週間で3回読み返すほどだった。その伊藤さんの新作を読めるのはたのしみである。

 このところ鏡に出会うたびそっと髪の長さに満足してる
気がする朝』(P5、伊藤紺著、ナナロク社)

帰りの電車も「気がする朝」を読みながら帰った。
夜は、2週間に1度のペースで行っている勉強会のメンバーとオンラインで忘年会をした。それぞれ、今年の振り返りと、来年なにをしていくか、ということを話した。この時間はかなり刺激になった。
あらためて今年何をしたか、と振り返ってみると年の初めに立てた目標で達成できたものは少なかった。ただそれは必ずしもネガティブに捉えているというわけでもなかった。
今後自分がどういうライフスタイルにしたいかということなど、自分の頭の中に沈殿している抽象的なものが、抽象的なまま、解像度は上がったように思う。あと、この読者日記を継続できたこともうれしい。とてもたのしく書けて、有意義な時間だった。
やはり、誰かと話して振り返ることはとても心地いい発見がある。来年も、今年のまま継続していきたい。それは読書日記も、人と話す時間を大切にすることも。


12/29(金)
動く気持ちになれず、1日中、布団の中にいた。
布団の中でもぞもぞしながら、眠る前に「満ちる腕」を読んだ。

小学生になると、朝礼で倒れたくなった。毎週月曜日の朝は、全校生徒が体育館に集まって、校長先生の話を聞く。夏場の蒸し暑い体育館に数百人もの人間が集まれば、貧血で倒れる子が一定数いた。「ドンッ」という鈍い音とともに、あたりがどよっと沸き、教師がパタパタと駆けつける、すごくうらやましかった。自分の弱さや脆さが、その場の空気を一瞬支配すること。周りの数人が「あ」と気づいて、「あ」と思い終わらないうちに、倒れる音が鈍く響くこと。くだらない朝礼の中で、自分だけが真実めいた何かとしてその場の大事な人になること。
倒れた時、口は閉めていたほうがよいのか、開いたままの方が深刻そうでよいのか、口から泡がでちゃったりして、それを友人に見られるのはちょっと……など、倒れ方について思いを巡らせたことあったけど、朝ごはんを抜くとか、夜更かしをするという選択肢は考えたこともなかった。かと言って、うその貧血でわざと倒れる大チャレンジに挑むほどの度胸もない。心の上澄みに淡い期待を泳がせながら、上履きの薄いゴム底の上で左右にゆっくり揺れていた。
満ちる腕』(P38〜39、伊藤紺著、短歌研究社)


12/30(土)
今日は、19時の便で実家の鹿児島に帰省する。
フライトの時間まで、溜まっている読書日記を書きたいと思っていたので、羽田空港の滑走路が見えるらしい空港内のスターバックスに行こうと思う。
朝9時くらいに起きて、支度をしていた。大きい荷物は昨日うちに準備を整えていたので、それほど時間はかからなかった。色々寄りながら、電車で向かった。電車の中で「[よりめき] 今日もでねいに。BEST101」を読んだ。

 昨日とまったく同じ今日が来て、そっくりの明日が続いて、いつのまにか 月日がすぎていく。こんな現状維持は、まるで進歩がなく、つまらないと思います。何一つ変わらないまま月日がたてば、心はそのうち、やわらかさを失います。
 精神が凝り固まるほど、危険なことはありません。
「絶対にこれが正しいんだ!」という主張にしがみついたとたん、成長は止まるものです。
「〜しなければいけない!」と断じるクセがついてしまえば、新しい自分を見つけるなんて、とうていできなくなるでしょう。
 温故知新という言葉があるとおり、古いものや先人の知恵から学ぶことはたくさんありますが、その一方で、今の時代ならではの自分なりの新しさを見つけることは、生きている証ではないでしょうか。
 だからこそ、いつも自分を壊したい。自己否定をくりかえし、自分をこなごなに壊したい。心をやわらかくし、新しい精神を見つけたい。そう願ってやまないのです。
[よりめき] 今日もでねいに。BEST101』(P22〜23、松浦弥太郎著、PHP)

13時くらいに目的のスターバックスに着いて、作業をはじめた。 18時すぎくらいまでひたすら書き、3週間分くらいと書いた。15000字くらい書いた。

19時すぎには、無事に鹿児島行きの飛行機に乗り込むことができた。飛行機に乗っているあいだも、読者日記を書きながら、ときどき手を止めて、ぼんやりしたりした時間をすごした。
機内は青いネオンライトで彩られていて、少し薄暗い。それはまるでディズニーランドのスペースマウンテンを想起させる。これから離陸する、ゆっくりとしたスピードで走り出す。10分ほどしてから急加速して、機体全体が大きく揺れる、ガタガタと荷物が揺れる音も聞こえてくる。僕はこの瞬間に、とても小さな人間なのだということ自覚したような気がした。アトラクション感は拭えない。夜のフライトで、まだ低い高度で上昇してるときに見える東京の夜景は、やけに綺麗だった。ひかりを通してみると、街の作りがやんわりわかる。そこには日本らしい整然とした陳列が見えるような気がした。上空の外気温はマイナス19度らしい。
鹿児島空港付近は、霧がひどいらしく、着陸にてこずっているようだった。15分くらい何度か迂回して、無事到着した。

実家に着いてからは、わんちゃんたちと少しあそび、あいさつなどをいくらかすませてから、夕食を食べて眠った。


12/31(日)
12時すぎくらいまで寝ていた。
起きてすぐに昼食の準備ができているようだった。とても豪華で、サーモンいくら丼に、お節、数の子と漬け物を食べた。東京でひとり暮らしをしているときは、 食べない物ばかりだった。なんだか胸がいっぱいになった。

夜の23時くらいまで、ひとりの時間だったので、読書日記を書いたり、ラジオを聴いたりして過ごした。途中に「ふつう」を少しばかり読んだ。

 ふつうのものをふつうでいさせるためには、気付かれないように今の生活に合わせてモディファイを繰り返していかねばならない。変わったと思われない程度にふつうの輪郭を整えるには、そこに加わる見えない圧を見いださなければならない。
ふつう』(P180、深澤直人著、ddepartment

23時半ごろにだらだらと話をしながら年越し蕎麦を食べた。こういう、家でゆっくりと過ごす大晦日は小学生ぶりだった。日本の日常の慣習的文化をゆっくりとあじわえるのも居心地がいいものだと思う。

深夜1時を過ぎた頃に、霧島神宮に初詣に行った。思ったより混んでおらず、1時間くらいで帰ってきた。霧島神宮は、天照(アマテラス)の孫にあたる、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を奉斎しているみたいだった。おみくじは小吉で良いことも書かれていたけど、身を慎めとも書いてあった。今の自分の身の丈にあってる気がした。
参拝に行ったとき、地元の人も多く、聞こえる声に耳を傾けると、訛っている話し声を聞けたことはなんだかうれしい気持ちにしてくれた。東京を離れた実感が湧く瞬間だった。

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