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読書日記 | 11/27〜12/3

11/27(月)
会社で自分のチームに新しいメンバーが入った。マレーシア出身の方で、母国語は英語と中国語らしい。今年の9月に日本に来たばかりで、日本語はYoutubeを見たり、好きな麻雀の動画を見たりして覚えたらしい。今日はその方と1on1を行った。その人と話をしていると、期間はかなり短いはずなのに、日本人っぽさをすごく感じる。話し方とか、ノリの合わせ方とか。

帰りの電車で「勉強の哲学」を読んだ。

 つらい環境には、自分に耐えられる限度を超える苦痛があるのかもしれません。が、そうだとしても同時に、ぎりぎり生きていられているのであれば、自分はそこで最低限にでもマゾヒズムを働かせているはずです。なぜなら、苦痛をやりすごせるよう、「痛気持ちいい」という矛盾した状態を成立させている。苦痛からちょっとでも快楽を得ようとしている。
 この考え方は、レオ・ベルサーニという、精神分析学やゲイ文化の研究をしている人から借りています。ベルサーニは、人間の根本にはマゾヒズムがあると考えている。
 どんなつらい環境でも、自分にはそのノリと癒着してしまっている面がある。
勉強の哲学』(P53、千葉雅也著、文春文庫)


11/28(火)
21時くらいまで仕事をした。
帰りの電車で「勉強の哲学」を読んだ。

 自由の余地は、むしろ「ノリが悪い語り」に宿る。
 それは、環境から「浮く」ような語りです。不気味でもある語りです。品のない言い方を許してもらえば、それは「キモい」語りだとも言えるでしょう。
 短絡的ですが、こう言い切ってしまいたい。
 勉強によって自由になるとは、キモい人になることである。
 言語がキモくなっているために、環境にフィットしない人になる。
勉強の哲学』(P59、千葉雅也著、文春文庫)

家に着いてから夕食を作った。豆もやし、牛肉、にんにくに豆板醤、胡麻油、そしてキムチ。正義である。美味しいは正義である。
夕食を食べたあと、友人に勧められたドラマ「いちばんすきな花」を観た。
内省的に考えている人たちが4人集まり、その人たちが中心に話が進んでいく。個人の個人的すぎる話が多い。
布団に入ってからも何だか眠れず、深夜4時くらいまでドラマを観ていた。いや朝か。


11/29(水)
朝、仕事に行く支度をしながら、「いちばんすきな花」を観ていた。このドラマを観ていると、というか生方美久さんの作品をみていると、心がむっとなる、何かが敏感に反応する瞬間がある。それは誰かのモノの見方や価値観を押しつけられている感覚があるときにそういうふうに感じる。
行きの電車でもドラマを観ていた。ここ最近はドラマや映画、本を読んだときに、なみだを流すことも増えたように思う。年をとると涙脆くなると言うけど、それはなぜなのだろうか。少し真面目すぎるかもしれないけど、それは身近な人が亡くなるとか、関わる人が増えて、人に寄り添って、考える期間が増えることで、「わかる」が増えていく。そうすると共感できるようになり、その人、そのドラマの主人公、登場人物の気持ちがわかるような気がする。だから涙脆くなるのではないか、と思う。
僕はなみだを流すことはいいことだと思う。なみだを流すと、なんだか心のいらないものをすーっと一緒に流してくれるような気がする。心で思っていることを涙へ物質化して、外界に出力することで、自己のなかの「何か」がなくなるのだと思う。

仕事は定時で上がり、帰りの電車で「勉強の哲学」を読んだ。

 わざと問題を立てることが、勉強です。問題を見ないようにしたければ、勉強することはできません。繰り返しますが、勉強とはノリが悪いことなのです。ときにそれは不快なことかもしれない。でも、わざとそれをやるのです。勉強というのは「問題意識をもつ」という、スッキリしない不快な状態をあえて楽しもう、それこそを享楽しようとすることなのです。
勉強の哲学』(P119、千葉雅也著、文春文庫)


11/30(木)
8時すぎくらいに起きた。今日は荷物の受け取りがあるので、午前中は自宅で仕事をする。起きてから少しゆっくりして、9〜11時くらいまで少し働き、そのあと12時くらいまでは布団に戻り、ゆっくりした。受け取る荷物、2つを無事に受け取った。
受け取った荷物はどちらも再配達を依頼してしまった。受け取ったときに、配達員の方と顔を合わせると申し訳ない気持ちでいっぱいになった。デジタル上でやりとりをしてると、システムの奥に人をいることを忘れてしまう。次回から1度目でしっかり受け取りたいと思う。迷惑はなるべくかけたくない。

仕事はそれほど忙しくなかった。19時半くらいに会社を出た。帰りの電車で「勉強の哲学」を読んだ。

 勉強によってノリが悪くなる、キモくなる、小賢しくなる。勉強する以上、それは避けられない。それが嫌であれば、勉強を深めることはできない。
勉強の哲学』(P162、千葉雅也著、文春文庫)

夜眠る前に久しぶりに話をしたい友人と話ができた。長く話をしたかったけど、結局僕が眠くなり、すぐに寝てしまった。


12/1(金)
家を出る前、どの本を読もうか、本棚の前で考えていた。
物語を読みたいわけでもなく、何か結論を求めるような本を読みたいわけでもなかった。結局、朝吹真理子さんの「抽斗のなかの海」を持っていくことにした。会社に向かうまでの電車で「抽斗のなかの海」を読んだ。

2011年11月20日(日)。その日眠りはじめたのは明け方であったから、うつらうつらするころカーテンの隙間から日の光が漏れて、その光量から快晴らしいことがわかったのだけれど、数日前に聴いた雨音がまだ身体に残っていて、雨降りの日である方が、現実よりもほんとうの天気のように思えていた。
抽斗のなかの海』(P14〜15、朝吹真理子著、中央公論新社)

仕事は定時に上がった。最近は時折、これからのことを考えることがある。仕事はどうしようか、とか目の前のことだったり、もっと大きいこれからのことについて漠然と考えることが多いように思う。会社のノリと自分のノリに乖離を感じて、どうにかしなくては、という気持ちになることがある。決断ではなく、中断の仮説でいいので、何かしら決めたいと思う。けれどただモヤモヤを抱えて過ごしてしまうことも多い。

帰りの電車は、あのちゃんと粗品の「電電電話」というラジオを聞きながら帰った。夕食を作るのを想像すると面倒に感じて、駅からの帰り道にラーメン屋に寄って帰った。

夜、湯船に浸かりながら「出版禁止 いやしの村滞在記」を読んだ。
金曜の夜は何だか嬉しい気持ちになる。ひとりの時間を大切にして過ごしたいと思う。今日は何だか、入浴剤の森の香りがいつもより強く感じられて、それが妙に心地よかった。


12/2(土)
9時くらいに目を覚ました。起きては、寝て、を繰り返していたような気がする。午後から予定があるけど、それまで掃除をできるなとか、ドラマを観れるなとか、ぼーっと考えていた。
11時くらいまで「silent」というドラマを観ていた。
最近はこのドラマの脚本家の生方美久さんの作品をみることが多い。今季のドラマ「いちばんすきな花」をみたり、写真家の奥山由之さんが監督の「アットザベンチ」も生方さんが脚本だった。生方さんの作品は、取り扱っている題材や、エピソードは些細な。でも壮大なことで。でもそこにはどこか温かさをいつも感じる。どれだけ突きはなそうとしても、袖は離さない。そういう感じが好きで、観ていると泣いてしまうことが多い。

午後から、神楽坂にある、TOKI Cafeというカフェに向かった。
移動中の電車で、「よはくじかん」をきいた。それでもまだ少し時間があったので、「アットザベンチ」を観た。何度でも観れてしまう。このベンチに会いたい。

カフェは、コワーキングスペースのようなものだったので、入場時に料金を払う。飲み物はおかわり自由で長居できるみたい。営業時間が23時までだった。18時くらいまで、ひたすらnoteを書いたり、音声編集をしたりして過ごした。そこから1時間くらい、一緒にいた友人とご飯を食べて、戻ったあとに20時半くらいまで少し作業をした。作業の休憩と、帰りの電車で、梨木香歩さんの「炉辺の風おと」を少し読んだ。
焚き火と蛍の環境音で耳を塞いで、この本を読んでいると何だか今日はゆっくり眠れそうな気がした。

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