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富士山 村山古道を歩く 一日目

2021年8月5日。2:45 日本写真家協会のフォトグラファー・インテツくんと合流し都内を出発。富士山を目指す。

4:20 御殿場から高速道路を降りると、闇の中に聳え立つ黒い富士山が現れた。見慣れない夜富士の大きさに少しの恐怖を感じつつ。よく見ると日の出を狙う登山者のヘッドライトが、点々と山頂へと連なっていた。

5:01 水ヶ塚駐車場に到着すると、朝日を浴びた赤い富士山が待っていた。待ち合わせた映画監督のゆうだいと合流。数日前、たまたま登山の企画を話したところ、神出鬼没のゆうだい、今回は大阪から富士山にやってきた。

一台は水ヶ塚駐車場に停めて、もう一台に乗り込み、三人で出発地点の田子の浦へ向かう。

5:59 田子の浦に程近い鈴川港公園に集合。伊豆からやって来たASH DA HEROベーシスト・サトくん、ex.伊東市役所→不動産のおおさわの稲葉くんと合流。荷物をシェアしあったり、準備完了。

富士山がよく見える。歩けば三日後にはあの頂上にいるのか。果たしてたどり着けるのだろうか。人は未知に恐れを感じるので、富士山までの距離に日和るのは健全な反応だけど、自らを不安に煽る妄想はほどほどに。

8:08 田子の浦・鈴川海岸にやって来た。修験者でいう水垢離と言えるだろうか、足を海に浸けてアーシング。海抜0メートル、文字通り0からの出発だ。

田子ノ浦から富士山頂まで続く富士の修験の道。初日は富士塚や旧東泉院など修験ゆかりの地で勤行しながら村山浅間神社・大日堂まで約20キロの行程だ。距離も去る事ながら、アスファルトの照り返しが身体に答えそう。

押しては引く、海の波に触れ、地球の息吹に合わせ、深呼吸をする。次第に高ぶる興奮と不安は鎮まり、覚悟が決まった。

村山古道は畠堀操八氏の著書「富士山 村山古道を歩く」のルートを参考にしている。後に畠堀操八氏と出会い、古道の調査ノウハウを伝授いただくのだが、初日に約束すっぽかすという失態を披露してしまったり。その話はまたいづれ。

頼もしい仲間たちと出発。いざ富士山頂へ。

9:05 鈴川の富士塚に到着。

通常、富士塚は富士山に登れない人がご利益を得るための塚であるが、ここでは富士登山の起点としての意味合いが強い。海で拾ってきた石を富士塚へ願掛け、仲間たちの健康を祈る。

万葉集にも詠われた古代東海道から、広重の浮世絵や弥次喜多道中に描かれた旧東海道へ歩く。まずは東海道五十三次の14番目の宿場町・吉原宿を目指す。

新幹線で富士市内を通過する際、富士山ともう一つ目にする景色がある。白い煙をもくもくと吐く煙突の製紙工場だ。「公害が!」なんて思っていたが、現在の白煙は蒸気なのだそう。かつての高度経済成長期の頃に比べると、隔世の感を禁じ得ない。

国道1号線のバイパスの巨大ガードと、並行した新幹線のガードをくぐり抜けたら
沼川の手前の道を北上するのが旧東海道。左富士神社を越えて間もなく、これまで右にあった富士山が左に見えてくる。東海道名勝・左富士だ。

東海道を西に向かうと、富士山は常に右手に見える。ところが吉原宿までの道は、大きく湾曲しているため、左手に見える富士山はレアと言えるだろう。

歌川広重の浮世絵 東海道五拾三次「吉原左富士」によると、沼地のあいだの一本道に松の並木が続いているが、現在、富士山の見える方向には工場があったりしてその面影はない。

11:30 吉原本町駅の踏切を過ぎ、吉原商店街へ。富士山登山ルート3776 通称・ゼロフジの挑戦者識別ゼッケンをつけていると、お茶屋さんへ行けば、お茶をいただき小休止させていただいたり、土産屋さんに立ち寄ればお水をいただいたり。

ゼロフジをチャレンジすると、麓に住む地域の営みに触れることが出来る。今回は村山古道を歩くので、厳密にはゼロフジのコースではないのだけど、5合目から登る富士登山では味わうことができない文化を体験している。

東海道 表富士の店主・卯一さんは2日目の道案内をしていただく。
サトくんのゼッケンはNo.223。自身の誕生日であり223(ふじさん)
競争率高そうな人気ナンバーを見事ゲット!

ところで、伊豆の古道 伊豆峯次第を調査しながら、なぜ富士山・村山古道なのか。

伊豆半島を乗せたフィリピン海プレートが本州に衝突、富士山が出来上がったという世界的にも稀有な場所であり、地学的背景から関係性を語れるのは周知の通り。

木陰で休憩中にセミが飛んできた。一緒にひと休み。

1399年の『寺領知行地注文』によると、村山古道は走湯山領であり、伊豆と富士の修験が一体となって管理していたことが示されている。それもそのはず、村山古道の開祖は、幼い頃から熱海・走湯山で苦行を重ねた末代上人であると伝えられている。富士の修験は伊豆の修験者によって開かれたのだ。

三重の立体交差を回避する安全な回り道。渡れば中間地点の広見公園だ。

また、1837年の『修験古実書上』の世界観である、胎蔵界と金剛界と言われているような、両界曼荼羅の世界を伊豆半島が体現している。その中心にあるのが、胎蔵界曼荼羅の中心である中台八葉院たる富士山。というような位置付けであったり。

ここから8基の道しるべに導かれ村山へ向かう。

さらに、伊豆山を出発した修行者は伊豆半島を一周し、富士山麓の洞窟でさらに修行を続け、そこで悟りを開くといったプロセスは、平安時代末~鎌倉時代頃の成立と考えられている『走湯山縁起』が伝える伊豆山と富士山が両界曼荼羅の入口と出口に当たるという記述に符合していたり。

新東名高速道路の富士インター線が村山古道を分断しているので回り道をする。

富士山とは浅間(あさま)で浅間(せんげん)。走湯山の本地仏は千手千眼観音であり、千眼(せんげん)が富士の浅間(せんげん)であったりと言説を用いたり。

伊豆峯次第の出発地点、熱海の伊豆山(=走湯山)と富士山は深い関係にあることが説明できるのだ。

16:59 茶畑の奥に鎮座する富士山が美しい。本日のゴールまでもう少し。ところが、ここに来てゆうだいが一気にペースダウン。ついに歩けなくなってしまった。

後にゆうだいから聞いた話によると、大阪から富士山までは車で5時間半。出発ギリギリまで仕事をしていたので、仮眠もしていない。つまり徹夜!そして、ギラギラ燃えるような真夏の太陽、アスファルトの照り返し、約20kmの勤行。

人一倍タフガイであるゆうだいを知っているが故に、体調の変化に気づいてあげることが出来なかった。かなり危険な状態だったと反省。

水と塩分を補給したり、ゆうだいの荷物をシェア。この後、どうするか判断をしなくてはならない。

そんな時、私の電話が鳴った。2日目からのガイドをお願いしていた東海道 表富士の店主であり山伏ガイドの卯一さんからだ。

「実は気になって、村山方面に車を走らせているんだ。今はどこにいる?」お互いの場所を確認するともうすぐ近くまで来ているではないか。なんという助け舟。電話を切ると間もなく、卯一さんの車が到着した。

17:33 ここからゆうだいは卯一さんの車に乗って先に宿へ向かう。我々も便乗して荷物だけ乗せてもらうことにした。サトくんは預けず。

ここまで来たらもう少し。ラストスパート。

18:19 1日目のゴール、村山浅間神社に到着。

先回りしていた卯一さんと合流し、境内を案内していただく。まず目に飛び込んでくるのは、大日堂と浅間神社を合わせて祀る神仏習合の姿。境内には修験者が身を清めた水垢離場、石組の護摩壇もあり、修験者による信仰の歴史をはっきりと留めている。

村山に修行の場をひらかれたのは、富士山の噴火がようやく収まってきた平安時代末。白山で修行を積んだ末代上人は、山頂にお寺を建てて大日如来を祀り、ふもとの村山には浅間神社と大日堂が建立された。

こうして富士山は次第に、大日如来を中心とした仏の山となり、それまでの自然神であった浅間大神は、浅間大菩薩と呼ばれるようになった。浅間大菩薩とは、あの『竹取物語』に登場する赫夜姫(かぐやひめ)のことである。

富士山の山神も、浅間神社の祭神も、木之花咲耶姫(このはなさくやひめ)だと広く知られているが、現在のように定着したのは、江戸中期以降のことだった。

今夜の宿泊はゲストハウス掬水へ。世界文化遺産・富士山本宮浅間大社に隣接し、特別天然記念物・湧玉池(わくたまいけ)が目の前に広がっている。この池は、かつて富士山頂を目指す登山者が、入山する前に禊を行なっていた富士登山の出発地だそう。おそらく西から富士山を目指して来た人たちが立ち寄るのだろう。

足を浸けると一日あたり30万トンという湧き出る富士の豊かな伏流水が、心身ともに癒してくれた。

二日目に続く。

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