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北伊豆古道を歩く〜沼津ー三島編〜

2022年9月28日。気温23°。秋晴れ。本日は沼津御用邸記念公園からスタートする。まだ園内に入ったことがなかったので、まずは見学してから歩くことにした。

前回までの道はこちら↓

沼津御用邸公園

到着が開園には少し早過ぎたので、公園の外側を散策。まず目に入ってくるのは、守衛所付きの鋳鉄製の本邸正門。ここから園内には入れない。

園内を囲むようにクロマツ林が植えられている。その中でも一際目立つのが、推定樹齢400年の「根上がり松」。その名の通り根っこが地面から飛び出して、来園者を迎えるように立ち鎮まっている。

皇室の文様はあらゆる場面で、渦と対称性のデザインが施されている。対称性は宇宙の創造性の基本形だ。人類は何万年も前から、右回りの渦、左回りの渦、と見立ててみたり。縄文土器のような表現がそれだ。大部分の現代人が了知していない奥義の話。

それにしても海へ続くプロムナードにも造成されているから感心した。

外苑を一通り見学して園の入り口で待っていたら、守衛さんが気づいてくれ、早めに開門してくれた。一般公開されている西附属邸を見学する。

沼津御用邸は、明治26年(1893)当時は皇太子だった大正天皇のご静養先として造営された。本邸が完成後も増築を重ね、建築総面積約5750平米、100を超える部屋を備えた大邸宅となったという。サッカー場と同じくらいの面積だ。

昭和天皇が学習院初等科時代にお乗りになった自転車のレプリカ

富士山を眼前にした風光明媚なロケーション、気候温暖などの条件に恵まれ、かつ明治22年には東海道線が開通。

全国各地の御用邸の中でも、歴代の陛下をはじめとする皇族の方々の利用の機会は圧倒的に多かったというから、この地がいかに愛されてたことが伺える。

皇族が食事を召し上がる御食堂(おしょくどう)

その後、昭和20年(1945)の沼津大空襲で本邸は焼失。時代の変化などから、昭和45年(1970)、記念公園として一般公開された。

「わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」

国家に詠まれてるさざれ石。まつわる伝承として、平安朝時代、千代に栄えることを希った(ねがった)愛たい(めでたい)石であるという。

自分の幸を願うものではない。自分のそばの人々の幸を願う。そんな利他の心を持った人たちが集まり、小さな石が年月をかけて巌となるのだ。     

謁見所には畳式の上に絨毯が敷き詰められ、椅子やテーブル、シャンデリアなどの調度品からは和洋折衷な当時の生活ぶりを想像できる。

御玉突所。クラシックスタイルの四つ玉式の撞球台を使用していた

謁見所にあった重厚な玉座が印象的すぎて、デザインされたクリアファイルを買ってしまったのは公然の秘密である。

その後は園内にある沼津市歴史民俗資料館に行ったり。1時間半、たっぷりと御用邸を味わった。

丸い箱根竹を束にして網代に編みこんだ独特の沼津垣

水門びゅうお

10時30分 沼津御用邸から歩く。国道414号線を400mほど北上、塚田川を渡り、右へ逸れていくのが古道。今日は雲がかかっていた富士山だけど、少しだけ顔を出してくれた。

更に逸れていく旧道が見える。机上の古地図調査の段階では見つけられなかったけど、次の拝所まで流れのある道だ。歩いてみると安の如く、道祖神が待っていた。古道を歩きはじめて1年、多少は見る目が養われてきたかな。

沼津は、江戸から来ると気候の境界線となる箱根の山を越して、最初の大きな町だ。ここで気候はずっと暖かくなる。

その周囲には、この巨峯富士とその全面にそびえる愛鷹山、長く延びた箱根連山、雄大な甲州の山脈、伊豆の海に溢れそうな山々、いくたの魅するような入江のある海など、無数の絶景が控えている。

下香貢を歩く。伊豆峯次第の247番目のチェックポイント・揚原神社に到着。

本来、目指すべきは北上するルートなのだけど、ここで物見遊山。お気に入りの地区・我入道も行きたいけど、今回はまだ訪れたことがない大型展望水門「びゅうお」を目指すことにした。

11時30分 狩野川を渡り、港口公園を通り、沼津港大型展望水門びゅうおに到着。9年の歳月をかけて平成16年(2004)に完成した日本最大級の津波水門だ。

3つの地震系のうち、2つ以上が250ガル以上(およそ震度5)の揺れを感知すると、自動で扉が降りる仕組みになっているという。100円支払って展望台へ。

「びゅう=view(眺める・眺望・景色)と「うお=魚」の二つの意味を持つ「びゅうお」

展望台からは、駿河湾の海岸線がゆるやかな弧を描き、富士山、その奥には南アルプス。反対側には沼津アルプス、海に迫る伊豆の山々を一望できる大パノラマが広がっている。

弧を描く千本浜は、富士川からの土砂が駿河湾の海流の運ばれて帯状に溜まってできた砂洲(さす)と呼ばれる地形だ。長くのびた砂洲は海の一部を切り離して、その背後に陸地を作った。こうしてできた低地の土地を津波から守るために水門「びゅうお」は作られたのだ。

信仰の対象と芸術の源泉・富士山はお顔を隠してしまった

牛が伏せたような姿をした牛臥山(うしぶせやま)が見えるあたりが我入道の集落。その昔、日蓮上人がこの地に降り立つ際に「我れ道に入る」と語ったことから地名がついたという伝承も。

かつて、伊豆半島では庶民の足として身近な交通機関であった渡し船。そんな風情を味わえるよう、観光として復活したのが『我入道の渡し』。期間限定の土・日・祝日に運航しているそう。河川の渡し船としては静岡県でも唯一の現存だ。

お腹が空いてたら港八十三番地でランチも良いだろう。「駿河湾を味わう町」がコンセプトの飲食店や土産物が集まった複合施設だ。

日本一の水深を誇る駿河湾の最深部は2,500m。深海魚が身近にいるという利点を生かし、お馴染みの魚から珍しい魚まで和食洋食問わず様々な味わいを楽しめるお店が軒を連ねている。そんな賑わう沼津港をあとにして古道踏査に戻る。

香貫

内膳堀通りの一本内陸の古道を歩く。気温は27°、差す陽が厳しい。

古道沿いの昔ながらの八百屋さん・香貫屋青果店へ。一度通り過ぎたけど、その佇まいに惹かれて踵を返した。西浦の早生があったので旬のみかんで水分補給。

香貫山の根方を歩いていると、山に入る入り口らしき道を発見。興味が山道にあると感づいたのか、丁度向かいからやってきた方が「山は登れないよ。道は荒れてるし、そもそも山は私道だ。」と教えてくれた。

よく見ると岩壁に人ほどの大きな石仏が彫られてる。

旧東海道

黒瀬橋を渡る。狩野川は川底の色あいの違いから、五色川と呼ばれるほどに美しい川だったそうだ。上流より黄瀬、白滝、黒瀬、青瀬、赤瀬と呼ばれていた。なぜ黒瀬橋なのか、それを知ることでわかる。

東海道五十三次の時代、狩野川に橋は架かっていない。我入道だけでなく、ここ黒瀬にも明治時代まで渡し船があったという。渡れば旧東海道に合流する。

歌川広重作 東海道五拾三次之内 沼津・黄昏図

橋を渡ったら200mほど平町を歩く。伊豆峯次第の249番目のチェックポイント・日枝神社に到着。

日光東照宮の「見ざる、云わざる、聞かざる」は有名だが、日枝神社こと山王さんは恨みや、怒り、妬みなどの悪い心を持たない「思わざる」を最も大切にしているという。

一旦、県道を跨ぎ川沿いの旧東海道へ。再び県道380号線と合流するのが旧街道・東海道だ。こんな広い幹線道路でも自然石型の道祖神に会うことができる。

バンクシーの名作「風船と少女」が沼津に?!

東下石田の交差点を右に入っていく県道145号線が東海道。一級河川黄瀬川を渡り、集められた庚申塔群の前を歩く。

西に沼津市、東に三島市。その間に挟まれた清水町を歩く。伊豆峯次第の250番目のチェックポイント・対面石八幡神社に到着。

社殿に近づくと自動ドアが開き、社殿内の電気がつき、雅楽が鳴り出すので、声をあげて驚いてしまった。ちょっとしたアトラクションだ。

源義経と源頼朝が対面のとき座った石が残っているとのことで有名な神社だ。

境内には、源頼朝と源義経の兄弟が、腰かけて話したと伝わる「対面石」がある。治承4年(1180)、富士川の合戦の折に源頼朝と、奥州より駆けつけた義経の兄弟が20年ぶりの涙の再会を果たしたという。

またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったのでねじって傍らに捨てた。すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、この二本は幹を絡ませねじりあっていたので、いつしか「ねじり柿」と呼ばれるようになったという。

県道145号線をおよそ2.3km、ひたすら直進するのが旧東海道。通学路になっているにも関わらず、2車線の狭い道路は交通量が多いので注意が必要だ。

街道一里(約4km)ごとに目印として築かれた一里塚。現代のような高い建物が通りを埋めてなかった時代、旅人が遠くからでも見えるよう、また木陰で休憩できるよう、小高い丘の上に一本木が立っている。

普通に歩けば1時間くらい、水を飲んだり小休止するのにちょうど良い距離だ。千里の道も一歩から。小さなゴールを積み重ねて大きなゴールを目指す。

「伏見一里塚」は江戸日本橋から29番目の一里塚

常夜燈。旧道らしい道筋が続く。

三島市街

伊豆箱根鉄道駿豆線の三島広小路駅前。新道と旧道が合流し、踏切を渡ったら三島大通り商店街だ。

踏切を渡って20m、君澤山蓮馨寺境内へ。本堂前から右手奥に聖徳太子堂が祀られ、なぜかさしがね(定規)を持った聖徳太子像。その先の階段を降りると、源兵衛川のせせらぎが控えている。

源兵衛川は楽寿園内の湧水を水源とし、三島の街中を流れている。上流から下流までボードウォークや飛び石が整備されており、川の中を歩く体験ができる。住宅街と自然が共存してる風情はまさに水の都。

三島市は富士山に降った雨や雪が、亀裂や隙間の多い溶岩流の中を通って地下水となり、池や川となって市内のあちこちから湧き出している。

そんな富士山の豊かな湧水に恵まれた源兵衛川だが、高度経済成長期の1960年代以降、企業による上流での地下水の汲み上げで湧水は枯渇し、住民は生活雑排水やゴミを川に捨てられていた。

今でこそ信じられないけど、源兵衛川は悪臭を放ち、人も近寄らないドブ川と化したという。

多くの人に愛されている源兵衛川。丁度、人がいなかったので鴨たちの独壇場となっていた

「心を変えないと街も川も変わらない!」と1人のゴミ拾いからはじまり、その輪は広がっていくも、住民、企業、行政、それぞれの意見がかみ合わない。

しかし、粘り強い会合や対話を続け、お互いの立場を理解することで「対立ではなく協調」を歩み、美しい清流に生まれ変わっていった。

今も情報を発信、話し合い、その背中を見せ続けている。そんな揺るがない活動はやがて地域の誇り、愛着となり、この川がいつまでも美しくあって欲しいと願う。一人ひとりの心が、この川を守り続けているのだ。

今年の6月、いずみ橋から飛び込む子どもたちと出会った

いずみ橋を出たら、小浜のみちの愛称で知られる鎌倉古道を歩き、伊豆峯次第の251番目のチェックポイント・浅間神社に到着。

およそ1万4千年前の富士山の大噴火の時、ここで溶岩の流れが止まったので、岩留浅間(いわどめせんげん)とも呼ばれている。かつて伊豆や三島の人たちは富士山に登るとき、必ずこの神社に詣でたという。

道を挟んだ白滝公園に立ち寄る。ケヤキの大木が生い茂り、浅間神社同様に足元は三島溶岩がワイルドに露出している。

白滝公園から湧き出した水は、少し離れた菰池公園からの湧水と一緒になって桜川となる。

桜川沿いを南下する。白滝公園から三嶋大社までは水辺の文学碑が建ち並んでいる。太宰治や大岡信など三島にゆかりのある作家や作品が刻まれた文学碑だ。

多くの作品で描かれているのが三島のせせらぎ。桜川のせせらぎに耳を傾けながら、文学碑を辿って歩いてみてはいかが?

16時30分 伊豆峯次第の252番目のチェックポイント伊豆国一の宮・三嶋大社で本日のゴール。20.5km、28,818歩。

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