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ママに会いたい

機能不全家族育ち、と一言で現しても様々で困り事も人それぞれ。〝今は親との関係も良好〟〝やっと許せた〟〝精神疾患やパニック障害を負って人生無茶苦茶だ〟〝PTSDで人間関係を上手く築けない〟〝自己肯定感や自尊心が低い〟〝許せない〟etc様々だと思います。

いわゆる毒親から物理的距離を置いた人、絶縁した人、程よい距離感を保ててる人、共依存状態の人、色んなパターンがあると思います。

自分と向き合うためにnoteを始めようと思ったので拙い文章ですが素直に吐き出していきたいと思います。

私は母とは絶縁しています。父とは数年前に連絡を取り始め、身元保証人になってもらう為だけに機嫌をとっています。この状況で私自身も子どもを育てています。夫はいません。

私の両親は家庭内不和と不倫、ギャンブル、義理家との関係や性の不一致、様々な要因で離婚しています。性の不一致など子どもである私がが知りえる情報ではないのに知っていることはお察しください。

私の母もアダルトチルドレンで過保護過干渉な宗教狂いの親に殴られながら育ち、一人では何も出来ない人間でした。それを祖母は「○○は何も出来ない箱入り娘だからねぇ」と言ってよくなじっていました。母が就職する際の面接にも両親総出で押しかけたそうです。そのくらいの過干渉猛毒です。

祖父は私から見ると仕事も真面目にする人格者でしたがほとんど空気のような存在で、無害なのですが優しいのですが私が祖母と母に詰められていてもたまにしか助けてくれませんでした。でもそのたまに、が私にとっては救世主の如き優しさで無償の愛、だったのです。

私にはにわかに信じられない事実なのですが母曰く、祖父は昔DV親父で祖母が暗い部屋で蹲って泣いているのを何も出来ずに見ていたという話をある日きかされました。でも祖母が叔母を身篭った時に改心したそうで、そこからピタリとDVはなくなり私の知ってる優しい家族思いの祖父になったそうです。何故母がその話を私にしたのかはわかりませんが子どもだった頃の母の気持ちを考えると今でも涙が止まらなくなります。

長女で、長子でもある母、その母である祖母も被虐待児、性被害者のACで、初めての育児をしながらDVを受け参っていたのでしょうが虐待されていた母にとっては叔母を身篭り、祖父がマトモになったのは希望であり絶望で、母にとっては自分の存在とは何なのかと考えさせられるキッカケだったのかもしれない、と考えています。母は質のいい愛情を貰ったこと、あったのかな。あの人の自我を感じたことはヒステリーを起こしている時以外なかったかもしれない。

子どもがそんな思いなんてしなくてもいいはずなのに。

母の昔話をよく聞かされていたので私は母に同情していました。理不尽な事を言われてもヒステリーを起こされても「ママは苦労したからしんどくなっちゃったんだね」って思ってました。絶縁しましたがこれは今でも思っています。割愛しますが祖母もまた辛い思いをしてきたのです。

それが毒の手口、洗脳そのものだと言われても、わかっていてもみんなしんどかったんだ、しんどいことが多すぎたからちょっとおかしくなっちゃったんだ。別に悪いことじゃないよ、私は怒ってないしみんな幸せになって欲しい。そのままでいいんだよ。って思いながら過ごしてました。今もです。これは思考停止ともとれるのですが絶縁してしまった今、歩み寄ることも出来ないのです。それでも絶縁するしかなかった、苦しかった、話が通じなくて一方的にサンドバッグにされる辛さ、理不尽に立ち向かう気力の喪失。酷い暴言。

それでも私は家族みんなに幸せになってほしかった。私は普通の家族が欲しかった。けどそれよりもみんな笑顔で過ごしてほしかった。それだけだったはずなのに。きっと祖母も母もそう思っていたのかもしれない。見事に毒の連鎖を起こして全ての歯車が噛み合わなくなってしまったのかもしれない。

私が絶縁に至ったキッカケは私の長男と当時妊娠中だったお腹の子(次男)に飛び火したから。分かってた、時間の問題だって分かってた。私に対する暴言なら耐えられる、でも私の子どもにも同じことを言うなら、するなら、許せないと思って人生の中でこれでもかってくらい祖母と母に猛抗議した。でもだめだった。当時1歳半だった長男はイライラした母に頭を殴られ、また昼寝をしてる長男の横で祖母は「こいつなんか殺すか施設ぶち込んでしまえ、どうせクズの血が入ってる。お前もこいつがいないほうが人生やり直せるしいいでしょう?お腹の子どもも殺してしまえ。」などと宣うものだから。

やっぱり絶縁するしかなかった、絶縁して正解だったと数年経った今でも思う。

でも、だけどやっぱり優しかったかどうかはわかんないけど機嫌が良かった時の優しい母が脳裏をチラついてごめんなさいごめんなさいごめんなさいってなる。たまに頭を撫でてくれた。機嫌がいい時は抱きつくのを許してくれた。私は寂しかった。話し合いができない、向き合えない、歩み寄れない、もしかすると分かり合えるかもしれないと思って何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も子どもの頃から何万回も話し合おうとした。でも結局最後はヒステリーを起こされて、終わる。

苦しかった。今の自分の子ども達を見ていると自分の選択は間違いではなかったと確信もしている。それでも私の中の子どもが何かが、未だに「ママに会いたい」って泣いて泣いて泣き止まない。会ったってどうなるか分かってるのに。何回も試したのに。分かってるのに。それでもママに会いたい、とたまに思ってしまうのです。

恨んでも恨みきれないんです。憎んでも憎みきれないんです。それでも心の底から恨むことも憎むことも怒ることもできないんです。私の生き辛さを作った張本人であるのに、これもまた脳の錯覚だと分かっているのにそれでも、です。

このまま深い悲しみと喪失感を背負って生きていくということ、きっと祖母と母にも何かしらの傷を付けてしまったこと、それでも私は自分の子どもにだけは連鎖させたくなかった。

きっと祖母も母も1度は同じ気持ちになったことがあるんじゃないかなって。夢見すぎかな、馬鹿かな、とも思うけど。

言葉がまとまらなくなってきました。機能不全家族で育つと大人になっても傷を負い続けるのです。俗に言う都合のいい彼くんなどの救いの手など存在していません。まずは自分で自分を救わないと、救いの手すら伸びてこないのです。そのくらい人間的に未熟で、または未熟だと思わせるように養育者から思想の根元まで毒されてるのです。

これからも矛盾をかかえながら、矛盾と戦いながら少しずつ自分を癒していきたいと思います。


皆様にも幸あれ。



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