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邪悪な感情を乗り越えるために

近況について


ここのところ入院していた。
ここまで4回同じように入院していたことがある。そうなってくるとこの世を恨んでいる気持ちも若干だが出てくる。
なぜ自分はこれほど入院して苦しまなければいけないのか?通りゆく人の無邪気そうな笑顔に苛立ちさえでてくることがある。
この怒りのボルテージが爆発するとそれはそれで自分に降りかかってくることが多い。マジで辛いだるい。

感情のボルテージ

このボルテージをどうにかしなければ自分は立ち行かなくなる、って思ってはいても感情って難しいですよね。
どうにかこうにか騙し騙しでやってきたけどね、なかなかね。本当に人間ってだるいなって思う。他者との関わりも自己の感情を含めてだるい。よく世間の人はこういった感情をやりくりできるなぁ、って思うけどDVなんかの実績を見るに外側の面が厚い人間が多いんだろうなって思う。家に帰ったらやりたい放題、外側だけって言う。まぁ、そんな人間には到底なりたくないわけで。自分が強くいられる瞬間だけ強い感情を出す、って完全に弱者の発想じゃん?こう思うと自分だけではないにしてお「落ちた人間」とまでは思わないので、外側の人間観察も自分との合わせ鏡だと思えば大したことはない。

感情のコントロール

この感情のやりくりでは最近自分は仏教の教えを実装している。
怒っているのは自分がまだ人間として甘ちゃんなのだよ、という。世間にぶつけることで普段の生活との差分を埋めている「卑しい人間」もまた世間では多い。どうせさ、人間なんて大したものではないのよ。たかだか有機的タンパク質でできた機械というほど変わらない。そう思えば世間的なテクノロジーとも友達になってゆくことへの抵抗は薄いんだよね。新しい技術があれば是非とも試してみたい、それでChatGPT-4も早速試してみたわけでね。

人間として

感情的な部分をどうやりくりしていくかは人間的に大事な部分ではある。
失敗すると世間、社会的な抹殺を受けることで「生活」自体ができないという場面に入ってしまう場合もある。あれだよね、あんまり言いたくないけどさ、殺人犯を出した家は自殺者がよく出てしまう。世間と戦えないからね。そういう点ではうちの両親の教育は正しかったと思う。人間としての実績はそりゃあ大した価値ではないにしてもさ、危ない感情の時にはところどころで両親が昔話していた言葉が心に刻まれるわけよ。それが何度も出て来ればそれは心の中の結晶ともなるわけで。

人生を引き受ける

話はそれてはいるけど全て自分で引き受けるしかないのよね。人生。
まだ引き受けられる人生で良かったと思う時点で感情の処理の仕方は悪い方向に行っていない!って思うことができる。面と向かって色々と話すのはやはり感情的にも難しいからこんなひっそりとしたところで伝えてみよう。両親がちゃんとしていた分は世間に返していければな、って思うよね。人には優しくしたい。そして両親、いつもありがとう。