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残しておきたいものを残したい時、どこまで覚悟があり、どれほど負債を担えれるのか。

残しておきたいものを残したい時、どこまで覚悟があり、どれほど負債を担えれるのか。

自分の大切にしているコレクションは、物としてみれば見る人によっては「無い方が良いゴミ」にしかならないかもしれない。

ある人はマンガのコレクターで、倉庫にぎっしりと500キロ以上ものマンガを蓄えている。
その倉庫の維持費、本が傷む実質の減価、仕分けにかかる時間など、どれもタダでは無い。
重量が嵩むことで家屋も傷む。
これを手放す時は購入総額を下回るだろう。
また、高く売るには時間と手間が必要で、購入時より高く売れたところで「利益」とは言い難い。

その人はその目減りした資産を突きつけられたくは無いのかもしれない。自分が持っているものが宝だと思い持ち続けたいのだ。

それをその人が宝と言うなら否定しない。

私が、その人の持つ宝の価値を理解できないだけなのだ。
そして、私は、その人が宝とするその価値観を尊重する。
金銭と言うひとつの定規の結果だけで落ち込む必要もないと思う。
そして、自分がそのマンガを譲り受けた時は、自分の価値観で合理的に処分しようと思う。

自分が大切にしたい物は、手放すことになった時、価値のわかる人の元へ届いて欲しいと思う。
絵本を手放す時は子供の手に取るところへ。バイクを手放す時は整備をして長く乗ってくれる人のところへ。
マンガ、絵本、バイク。
その個体に思い入れはあっても、それは引き継げない。
マンガや絵本は情報媒体。バイクは工業製品。それに付加する思い出は一身専属のもの。

思い出は言葉や写真や音声などの情報媒体にして表現出来た一部のみしか伝えられない。

残された本には書き込みや栞があるかもしれない。バイクにはこだわりの部品やキズやイニシャル設定があるかもしれない。
そのそれぞれに思い出はあっても、その思い出までは観測できない。

どこまでの思い出を残したいか、覚悟を問われる。どこまでそれに時間とお金と労力を注ぎ外在化して残していくか。

引き継がれた先でも新たな思い出を作って欲しいと思うのは、自身のエゴであり執着。
思い出に共感して欲しい、わかって欲しいと願うなら、それは自分の人生を使って自由に表現すれば良い。
写真に残し、現物を残し、書き残し、伝えていけば良い。

ただ、自分の持つ執着の対象物が誰か大切な人の時間を使い、それがその人の人生の質を下げる結果となりそうなことになるなら、私はその対象物を自分で屠る。

大切なものは自分で片付ける。
私は昔、やむなく家族の写真を焼き捨てた。
残す覚悟では無く捨てる覚悟をした。
残しておきたいものだったが、状況から残しておくことが出来なかったもの。
未来に生きる人たちを思って手放した。後悔は無い。おかしな話に聞こえるかもしれないが、家族の写真を焼き捨てた自分を誇りに思う。
他の人の手に渡り不本意な思いをするよりは、自分の思い出として残しておきたいものだった。

時間は有限だ。エンデのモモに出てくる時間泥棒、灰色の男たち。彼らは人々に効率を求め、そこでできた余白時間を奪うことで命を得ている。

何に時間を使うかどうかは自分で決める。

私は、自分が大切にしたいものを選んで時間を使う。

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