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書体デザイナー 橋本和夫さんのお話を聞く会〈前半〉

 7月21日、89歳にして今も尚現役の書体デザイナーでイワタデザイン部チーフ、橋本和夫はしもとかずおさんのお話を聞く会を開催しました。

進行には橋本さんへの取材経験も豊富な雪朱里ゆきあかりさんをお迎えし、これまで橋本さんが体験されてきた貴重なエピソードをたくさん引き出していただきました。

 書体と向き合い70年。様々な時代のお話で2時間以上の大変充実した内容となりましたため、本noteでは2回に分けてご紹介。

今回は前半として、橋本さんのモトヤ時代のことや写真植字しゃしんしょくじとの出会い、また石井明朝いしいみんちょう本蘭明朝ほんらんみんちょうについてお伝えします。



当日の様子(左:雪朱里さん 右:橋本和夫さん)


1.キャリアの始まりと太佐源三たいさげんぞうさん

 橋本さんは高校を卒業後、大阪の活字製造販売会社であった株式会社モトヤ(以下、モトヤ)に就職し、書体の原字を書くお仕事をされていました。モトヤで大きな影響を受けたのが、太佐源三さんという師匠の存在です。太佐さんは、当時では珍しい「言葉で教える」方であったそうです。


太佐さんについて

橋本:太佐さんがモトヤのベントン彫刻機※1用の文字をデザインされる責任者になっておられたんです。当時はタイプフェイスデザインなんて綺麗な名前ではなく原字と呼ぶ時代でした。初めて私に明朝体というものを知らしめてもらったのが太佐さんなんですね。この方はすごくモダンで、オペラで音楽会にも出られていました。昼休みにはサンドイッチを自分で作ってこられて大きな声で歌っていたくらいのダンディーな方です。

※1ベントン彫刻機:アメリカで生まれた活字の母型・父型を製作する彫刻機。日本国内では主に母型彫刻に使用された。それまでの母型製造は鏡文字で原寸手彫りの種字たねじが必要であったが、ベントン彫刻機の誕生により書体の設計は紙に手書きとなり、その原字から作る金属板のパターンは1つから複数サイズの母型を製造できるようになった。

ベントン彫刻機を使用する様子
岩田母型 活字書体見本より引用

橋本:太佐さんは何事に対してもすごく論理的に説明なさる方でした。明朝体は一見平面な感じがするんですけれども、太佐さんは楽譜という形で音階や強弱といった目に見えない感覚的なものを立体的に表現できる方でしたから、明朝体でもそれが活かされていたんだと思います。素人には寄り引きのことや錯視を矯正しながら書きなさいって言われたって分からないですよね。そういうことを割合論理的に教わったと思うんです。文字の重心や錯視なども太佐さんから図形にして習い、タイプフェイスのいろはの「い」を教えてもらいました。

文字の重心について図で説明する橋本


「空気か水のように作りなさい」

 橋本さんが太佐さんから教わったことの一つに、「空気か水のように思われる文字を作りなさい」という考えがあります。この教えを通じて、橋本さんは文字が単なる図形ではなく、もっと深い価値を持つものであると理解するようになったそうです。

橋本:「空気か水のように作りなさい」というのは、例えば高い山を登る時に途中で水場がありますよね。この時滝のように流れている水が、普段は「なんだ水か……」で済んじゃうんですけど、水筒に水がなくなった時にもらう水というのはすごく貴重に思えます。今度は山の頂上へ登った時の空気は五臓六腑に染み渡る感じがしますよね。普段は空気があるのかないのかなんて誰も考えませんが、頂上に着いた時にその価値を見出せます。

 ということは、その何かがあった時に非常にそのものの価値を見出せるものが、結局は活字なんだと。本を読む時に文章が良かったというだけでなくて、この作家の文字はこんなだったのかと貴重に思えるように、ただ図形として文字を作ってはいけないんだということを教わったんだと思います。でも価値があるかを普段から考える人なんていませんから、その価値は文字が後に残るような時に現れるものじゃないかなという風に思うんですよね。


2.写真植字との出会い

 橋本さんは仕事を始めて4年目頃から写真製版もされるようになりました。モトヤの1957年頃の書体見本帳には橋本さんが撮影された写真が載っています。当時は二眼レフカメラを使っていたそうです。その後写真植字※2と出会い、株式会社写真植字研究所/現・株式会社写研(以下、写研)に入社しました。

橋本:今でも写真製版はありますが、当時は湿板方式しっぱんほうしきという濡れている間に感光する方式でした。それを勉強している時に技術雑誌を見ていたら写真植字という項目が出てきたんです。当時はまだ普及していない新しい言葉でした。
 
 ベントン彫刻機では原字作成から印刷されるまでに何工程もかかってしまうものが、写真植字だったら写真的に文字を加工して組版をするという、原字そのままの状態が再現されるのではないかと、魅力的なものだと考えたんですね。そこで24歳で東京に出てきて写研に入りました。1959年6月6日、日付まで覚えています。

※2「写真植字」 写研ホームページ

写真植字機
株式会社写研 写真植字見本帳No.44より引用


3.石井茂吉いしいもきちさんと石井明朝いしいみんちょう

 写研に入社するまで石井明朝は知らなかったという橋本さん。入社してから少しずつ石井明朝の空気を感じるようになっていったといいます。また橋本さんにとって2人目の師匠となった石井茂吉さんはどのような人物だったのでしょうか。


石井さんについて

橋本:石井さんは「至誠通天しせいつうてん」という言葉を大切にされていました。至誠通天とは、誠を至して天に通ずるという意味です。石井さんはいわゆる明治時代の実直で難しい、文字には厳しい方でした。自宅でコツコツと作業なさっている姿は本当に没頭されているように見えました。

 私が石井宋朝いしいそうちょうをデザインしていた頃、作ったものをお見せしに伺うんですけど、ご指導をお聞きしても石井さんは教えてくれないんです。「ああ」か「うん」でおしまいです。「ああ」の時はちょっとまずくて「うん」の時は良くてとかそういう感覚で、会話がないんです。とにかく技術は見て習いなさい、技術は盗むものだということです。


自分で評価する癖

橋本:石井さんは先ほどの太佐さんとはまるっきり正反対なわけですね。なんで何も言ってくれないんだと腹立つ気持ちもありましたが、なぜあの時は「ああ」だったのかというのを見直す、自分で評価する癖をあの時に植え付けられたというか、覚えさせられたなという風に考えています。でも一回自分で直して持っていくと、今度は手を入れてくれるんです。


石井明朝「文字には味がないとダメだよ」

橋本:石井さんがよくおっしゃったのは、「文字には味がないとダメだよ」ということです。私は書道をやっていたのですが、「一」を書くのにもただビーっと線を引くのでは味わいがないんですよ。初めと途中があって押さえがありますから、力を抜いたり入れたりします。いくら写植の文字にしてもあの味わいがないとダメよと。それを集約したのがまさに石井明朝だと私は理解していきました。

画像上:石井細明朝 ニュースタイル LM-NKL
画像下:石井中明朝オールドスタイルMM-A-OKL
橋本の資料より引用

 例えば、これが普通の明朝体のハネですよね(写真①)。一方筆書きの場合は、一回筆を返してから跳ねます(写真②)。そうしないと筆がもつれてしまいますからね。ですから石井明朝のハネは、こうなります(写真③)。石井明朝は全ての線画が筆書きに対応した形になっているんです。


4.本蘭明朝ほんらんみんちょう

 写研時代に橋本さんが手がけた書体として本蘭明朝があります。ご来場者への事前アンケートでは具体的に書体のお話を聞きたいという声が多くありました。

本蘭明朝M
橋本の資料より引用


本蘭明朝誕生の経緯

 1965年には全自動写植機サプトン※3が登場しました。サプトンは円盤状の文字盤を高速回転させて印字をするため、石井明朝の細い横画が消えてしまうという難点がありました。そこで新しい本文用書体が必要になり、生まれたのが本蘭明朝です。

※3全自動写植機サプトン

全自動写植機サプトン
写研の歴史:https://archive.sha-ken.co.jp/history/より引用

橋本:石井明朝はグラフィックデザインで非常に好評な、大きく使うと華やかに映える書体ですから、従来の活字書体とは一線を画す書体でした。ただ、次第に金属活字を使っていたところからも写植で組版をしたいという声が出てきたわけです。

 そこでサプトンのような全自動のものに変えたのですが、石井明朝は優雅でシャープな書体ですから、筆の抑揚が効いた押さえが強くなるあの書体の良いところが逆に黒みのように欠陥として出てしまいました。そこでそういったところを全て除いて、写植用の本文用書体として作ったのが本蘭明朝なんです。日本語はわずかな画数の文字からものすごい画数の文字まであるので、英文と違い黒みの差が極端です。ですから同じに見えるようにある程度フトコロ※4を広めに、ゆとりを持たせる文字にしたんですね。

※4フトコロ:文字の画と画の内側にできる空間のこと

石井明朝と本蘭明朝
株式会社写研 写真植字見本帳No.44より引用


横組への意識

橋本:本蘭明朝は横組も意識して作りました。文字というのは縦に長いものも横に平たいものもあるわけですから、その文字を四角っぽくしようとすると変に見えてしまいます。その固有の形というのはやっぱりこれは無視できない。例えば「王」という字を「山」と同じように高くしちゃうと高すぎる。少しは締めていかなくてはいけないんでしょうけど、普通の「王」よりは少し高くしておくというふうにしました。

隅取りについて

橋本:鋭角に交わるところは白くポチポチと窪みをつけています。ある線の太さに対して別の線が鋭角に交差すると倍の太さになるので、黒く潰れたみたいになるんです。英文では「W」などで同じことが起こりますが、英文の場合はそこまで角度がつかないので違和感がありません。でも日本語は違います。その隅取りのテストに5年くらいかかったんです。写植で初めての本文用書体と謳うのだからいい加減なものは出せないだろうということで、長くかかりました。

本蘭明朝の隅取りの例
橋本の資料より引用


 前半は以上となります。橋本さんの豊富なご経験を通じて、書体の歴史を振り返ることができました。石井明朝や本蘭明朝をはじめとする数々の書体は、デザインの美しさと実用性を兼ね備えており、今なお多くの人々に愛されています。橋本さんやその師匠たちが、その時代に合わせて「使う人のことを考えた読みやすさや美しさ」を常に意識されていたことが改めてよく分かりました。その心をこれからも忘れずに書体制作に励んでいきたいと思います。
 後半では、紅蘭楷書こうらんかいしょやタイプフェイスと書道の関係、また今後の展望などについてご紹介します。



橋本 和夫 はしもと・かずお
書体デザイナー。イワタデザイン部チーフ。1935年2月、大阪生まれ。1954年、モトヤに入社し太佐源三氏に師事。金属活字の原字制作にたずさわる。1959年、株式会社写真植字研究所(現・写研)に入社し石井茂吉氏に師事。後に原字制作部門のチーフとなり、写植機用の原字制作・監修にたずさわる。写研退職後はフリーランスを経て、1998年よりイワタにてデジタルフォントの制作・監修を行う。
雪朱里さんによるロングインタビュー
マイナビニュース
https://news.mynavi.jp/article/font-history-1/
『時代をひらく書体をつくる。 書体設計士・橋本和夫に聞く 活字・写植・デジタルフォントデザインの舞台裏』
著者:雪 朱里
発行:グラフィック社



雪 朱里 ゆき・あかり
著述業。1971年生まれ。武蔵大学人文学部日本文化学科卒。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷などの分野で取材執筆活動をおこなう。2011年より『デザインのひきだし』レギュラー編集者も務める。著書に『「書体」が生まれる ベントンと三省堂がひらいた文字デザイン』(三省堂、2021)ほか多数。マイナビニュースにて「写植機誕生物語〈石井茂吉と森澤信夫〉」 https://news.mynavi.jp/series/syasyokuki/ を連載中。
著書一覧
https://www.amazon.co.jp/stores/author/B00IJ683KQ
手がけた書籍・雑誌一覧(ブクログ:ゆきあかりの本棚)
https://booklog.jp/users/yukiakari



株式会社写研ホームページ

株式会社モトヤホームページ


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