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シュレディンガーはたぶん猫。[第17話]

第17話

 そして片山のアパートに戻った俺たちは、そのまますぐにシュレからの「改変」を受けることになった。次いつ襲って来られるかも分からず、またさらに虫側が大きく変異してくるかもしれない、しかも一体どんな変異をしてくるかも分からないわけで。善は急げ、というやつだ。

 ここで変に先延ばしてもな、という気分的な問題もあった。

 四畳半ワンルームのこの部屋は、片山らしいと言えばいいのか、あまり物がない。ガスや水道や電気、冷蔵庫とかクーラー、電子レンジなどの「それなりに文化的な人間らしい生活」に必須なものは揃っているものの、ベッドと冬にはこたつになるテーブル、座椅子一脚の他には、必要最低限の棚やクローゼットくらいしかない。

 そのテーブルと座椅子を壁際の脇に追いやって何とかできた空間、そのお世辞にも広いとは言えない部屋の真ん中部分に、俺と片山はそれぞれあぐらをかいて座っている。クーラーも扇風機も動かしていないし、窓も玄関のドアの鍵も閉められてほぼ密閉された空間は、当然のように少し暑い。じっとりとした湿気もあった。

 そんな俺たちの目の前、猫の形を解いたシュレが、ゾロリと蠢く。黒い霧状のものはそのまま部屋全体に広がっていって、まるで俺たちを包み込むような状態だ。

 これが本物の霧、水由来の気体であれば、俺たちの服や皮膚なんかに水滴がついたり湿ったりしたのだろう。しかし全く違うものなので、そのとてつもなく細かい粒子は皮膚を通り抜けて、人間の内部にざわざわと侵入していく。

「う……」

 何とも言えない独特の感触に、俺はつい眉をしかめた。人の手に触られるのとも違うし、この世のあらゆる触感とも全く違う。ただ、振動めいた冷気、いや逆に熱気のようなものが、じわりと通過された場所から広がっていく。たまにビリリとした痛みもある気がしたが、それは普段味わう皮膚からの触覚とは異なっている。体表で起こっている刺激への反応じゃあない。

 これが「素粒子体」としての感覚か……。シュレもあの虫たちも、こんな感覚をもって存在しているという。

 シュレは俺たちの肉体の殻のもっと奥にある、「俺たち自身の素粒子体」に触れることで、より大きく改変を進める予定だと言っていた。地球の生き物の素粒子体は常に肉体の殻や細胞膜みたいな「輪郭があるもの」に包まれていて、この地球上のもの同士は確実に物質的な接触しかできず、人間も自他に関わらず素粒子体には基本、触れられないそうだ。

 ただ、幽霊のような肉体を失った存在なら、理論的には素粒子体に触れられるかもしれないらしい?が。

 そっち界隈でたまに語られる「エーテル体とかアストラル体」あたりが、シュレの言う素粒子体と性質的に被っているっぽいとか何とか……。ただし、シュレはいまだ真の幽霊には遭遇したことがないので単にネットを漁ってみての見解でしかなく、今のところ立証はできないようだ。

 確かにシュレと初めて遭遇した時の、「猫っぽい幽霊みたいなもの」に真正面から体を通り抜けられた?と認識したあの瞬間。急に全身からぞわっと血の気が引いてドン引いたそれは、それこそが幽霊にやられた感覚ですよ!!と言われたら「そうかも?」と思ってしまいそうなものではあった。

 けど。今回のこれは、そんな程度の軽さじゃない……。まるで体の奥底の、いや、体細胞の裏の裏のあたりから、「全部を作り変えられている」ような気がする。

「は……っ、うっ、何、してる、シュレ、お前」

 ふいに、横の片山が大きく息をついた。それが、妙にエロく聞こえた。まるで快感を耐えているような、そういう息づかいみたいだと感じた。同時に、自分の身体が、突然にビクリと大きく跳ねる動きをする。

「あえっ……!?」

 自分の口から変な声が出た、と悟った直後、じわりと股間が熱く濡れた感触があった。まさか、と自然と手探りしてみて、確かに「そういう状態」である現実を思い知らされる。

「っ、まて、うそだろ……っ」

 これは、一体、何が起こったんだよ。中学生時以来の急速過ぎる暴発状態に、さすがに俺も激しく混乱してくる。

『一応、この状況でお前たちに言っておくのだが』

 頭の中に疑問符を浮かべるばかりの俺たちに、淡々とシュレが言ってきた。そのどこから出てきているのか謎の振動音さえも、ピリピリとした快感に転じる。

『素粒子体を持つ我らにとっての、互いの素粒子構成を取り込み合うという行為は、人間における婚姻や生殖、性的交渉などという行為に相当する、のかもしれない』
「は……?こんい、ん?」

 今、何か、とても重要なことを言われているような気がする。その感覚のまま、何とか俺は訊き返した。

『同化しても良いと認識した別個体と素粒子の交換を何度も繰り返し、やがて同質化することで、我は我らとして、我らは我として一体化する。その時に、強いエネルギー刺激的なものが得られるわけだが、おそらくそれは、お前たちが性的快感と呼ぶものに近い』

 だから?つまり?

『我々の祖は、極めて効率が悪いものとして肉体を捨てたと伝えられていたが、なるほど。感覚という電気刺激を体温の上昇、動悸や血流増加などの数々の肉体反応、熱エネルギーなどに回すという肉体の作用によって、直接的に素粒子間で強烈なエネルギー作用が影響し合うことがないようにと人間は調整されているらしい。確かにこれは効率が悪い、と言えなくもない。肉体というものは非常に興味深いものだな?』

 シュレの声色はある意味、荘厳な感じで全身に響いて、また強い衝動に襲われかける。

「ん、もっと……俺らに分かるように言え、シュレ」

 片山が焦れた声で要求した。そわりとその両膝が揺れている。何とも居心地悪そうに身じろぐそぶりに、片山も俺とほぼ同じ状況に追いやられているのだと、察してしまう。

『元々、別個体との素粒子の交換自体が非常に心地良いことである上に、人間の肉体に素粒子体の感覚そのままのエネルギー刺激を流すと、種族的には全く未経験であろう極端に多大な感覚――この場合は、非常に増大した快感に襲われることになる、と想定される』

 なるほどな、と腑に落ちるしかなかった。そうして、シュレがずっとこの方法に対して、終始気が進まなそうな態度だった理由も、身をもって理解した。

「そういうことは、やる前にちゃんと説明しろってんだ……」

 せめて、事前に言っておいて欲しかった。そしたら、少しくらいは心構えができたものを……。事前に服や下着を脱いでおくとか、そういうことも含めてだな……。

「みや、もと」

 いつの間にか、片山が側まで寄ってきていた。呼びかけられると同時に、ぎゅっと腕を握られた、と思ったし、片山も握ったつもりだったと思う。が、違った。

「ひう……っ」
「う、あっ」

 指があるだろう場所は肉体感覚がズレたように感じて、同時に酷い快感に襲われる。ぞわ、と接触した部分から、まさしく「混ざる」気がする。今、俺と片山の素粒子体同士が触れ合って、まさに「混じっている」のだと理解した。

 のろのろと俺は身じろいで、片山から意識的に離れようと試みた。その間も、混じりの感覚はずっとぞわぞわと残存し続ける。一瞬、抵抗するように片山が強めに掴み返そうとしてきて、また酷い感覚に持っていかれそうになる。

 足腰が立たない。思うように動けない。

「っ、クッソ、きもち、い……」

 これこそが、これまでの対消滅程度では済まなくなるほどの、強い「混じり」の状態……。

 結局のところ、「肉体の殻をもつ人間」にとっての素粒子体の存在というものは、万事が「こういうもの」なのかもしれない。シュレであろうが、虫であろうが、上位の感覚をもって肉体を持つ者を支配可能、という意味において。

 シュレと虫の違いは、単に「俺たちに友好的なのか、敵対的なのか」という、ただ一点のみの、ほんのわずかな差しか存在しないのかもしれない。

 俺たちはかなり危険な賭けを始めてしまったんだろう。

 けど、これでもう戻れなくなった。この星にいる全ての虫を全部殺し切るまでは、止まれなくなった。



[つづく]

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