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シュレディンガーはたぶん猫。[第26話]

第26話

 虫はまるでトカゲが尻尾を切り落とすように、自分の素粒子体のうち、片山が捉えた部分を完全に犠牲にして「脱ぎ捨てた」。そしてひと回り小さくなったその姿で片山の目の前から素早く離脱し、虫かごに肉薄する。そして、俺が放った電撃をそっくり利用する形で構成素粒子のうちの中性子部分を陽子に変化させ、「弱い力」を操って虫かごを破った。

 虫の頭の部分に、鋭い角状の針があった。その針の先端に極端に強い電撃を集めて一点突破をしたのだ。

『むっ、いかん……!!』

 綻んだその一点から虫かごは崩壊していく。シュレが咄嗟に虫の足元に自らの素粒子体を付与し、重力を与えることで足枷のようにして遅らせようとするが、それでも虫はフラフラよろめきながらも飛び去って行く。

 ヤバい……!!

 俺たちは奴を追って走り出した。しかし学校の敷地沿いの方の虫かごも、ほぼ同じ形で突破された。

「くっ、学校の外に出られる……!!」

 虫には行き先があるのだろうか。ふらふらしつつも、一直線に飛んでいく。俺たちは引き続きそれを追うが、やがてそのルートが「よく知る道」と完全に被ることに気が付く。

『こっちは、カタヤマの家の方角だぞ……!?』
「っ、何でっ……?」

ひどく嫌な予感がする。何で虫はあえてこっちに行くんだ。
アパートの建物が明確に見えてきて、不快な予感はますます大きくなる。ふ、と低空飛行をしていた虫が急に高度を上げ、ある部屋の窓から入っていく。
俺たちはその部屋に住む人を知っていた。アッコさんだ。

「アッコさん……!!」

 階段をガンガンと音を立てながら全員で駆け上がり、片山が代表して乱暴にドアを開け放つ。

 虫は、確かにそこにいた。ただ、アッコさんでなくその客の腹部をえぐるようにして攻撃していて、すっと小さな青白い光を吸っていた。アッコさんは崩れ落ちるその人を支えるように、そして庇うように守って、必死に上から覆いかぶさろうとしている。その背中に虫が迫る――食われる。

「片山……ッ!!」

 もう一度だ。今度は俺が虫を網で拘束して、完全に押し潰した。ずちゃっ、と素粒子体特有の崩壊感覚を認識する。シュレもより強固な虫かごを二重に用意し、もしもの時に備えた。そして片山がアッコさんを、客ごと抱き抱える形で虫から引き離す。怪我している客人は、かなり乱暴に床に放り出される形になって、痛みのあまりにかなり大きめに呻いて身じろいでいた。ただ、確実に生きているようだ。

 そして、アッコさんは。アッコさんは、片山に肩を抱かれる形で庇われて守られている。

 ただし、その身は透けて揺らめいていた。肉体というものを完全に失っており、むき出しの素粒子体の状態でそこに「在った」。輪郭をじわじわと空気に溶け込むように揺らがせて。

『肉体が消え、素粒子体だけが残存している……』

 シュレが驚愕の気配で呟くのを、俺は聞いた。

『おわっ……?もしかして、なんか、助けられた感じ……?』

 キョトン、とした表情でアッコさんに尋ねられたが、それはいつもの声色とは少し異なっている。それが人間らしく声帯を使って話す方法とは全く違う話し方だからだ。

「アッコさん……でも、体、が」

 何と説明すればいいのか分からず、俺はただ指摘する。するとアッコさんは視線を下に落として、今現在の自分のありのままの姿をようやく認識した。

『へっ……?あ、あれっ?なにこれっ?』

 透けた手やその身を何度も確かめるように見回して、慌て声になっている。そしてそうやって身動くたびに、また輪郭から大気に溶けていくようになって、ゆらゆらとアッコさんの存在がゆらめいてしまう。

 そう、戦いに備えて素粒子体優勢に整えている片山が、今アッコさんに違和感を全く抱かせない形で彼女を抱きしめられているのは、「アッコさんも今は素粒子体として存在しているからこそ」だ。もし生身の肉体のアッコさんが相手だったら、俺が以前みずきちゃんの素粒子体の表面を撫でた時のように、そしてさっき学校に忍び込んだ時に警備員の人を堕とした時のように、その強烈すぎる刺激は、通常の人間には「ひとたまりもない」もののはずなのだから。

「ご、ごめ……姉ちゃん、俺、間に合わなかった……っ」

 呟いた片山は、真っ青になっていた。とんでもない状況を引き起こしてしまったと言いたげに、激しく動揺してしまっていた。俺の口からも、言葉が全く出てこなくなっていた。

 片山がアッコさんを引き寄せるより、俺が虫を捕まえて潰すより、ほんの一歩だけだけど早く、きっと紙一重のタイミングで、もう虫はアッコさんの「肉体の殻」に食いついていたのだ。

『あ、ああー……、でも、色々と助けようとしてくれた。そうなんだね?いっぱい頑張ったんだね?』

 アッコさんは耐え切れずポロポロと盛大に涙を流し始めた片山に、少し困った顔になった。宥めるように何度も背中を優しめに叩く。それは突然に小さな弟に泣きつかれてあやしているお姉さん、そのものの優しい顔だった。

「でも、間に合ってない……っ」

 そうごねる片山には、毅然と首を横に振っていた。そして言い聞かせるように続けた。これは片山だけでなく、俺にもしっかりと理解させようとする形で言い切った。

『いや。間に合ってる。遺言残すくらいのロスタイムはできてるからね。よくやったねぇ。さすが私の弟たちだ』
「遺言なんて……」
『これね、すごく不安定で、もうすぐにでも消えそうになってるってのは、自分でも分かるよ』

 そんなことは言わないで欲しい、と俺は否定的に言いかけたが、アッコさんは確信めいた表情で両手を握ったり開いたりと感覚を確かめるようにして、その結果を伝えてくる。

「アッコ姉ちゃん……」
『そーちゃん。泣かない。しっかり聞いて』

 俯きかけた片山の顔を、アッコさんは両手で包むようにして上げさせる。「そーちゃんが恥じて俯くようなことは何も起こってないんだからね?」と伝えるように。

『私はね、そーちゃんのことをめんどくさいから置いていくとか、そういうつもりは、ゼッタイないんだからね?政信くんみたいな友達もできて、ちゃんと大人になってきた。ひとりの男として頼れるようになった。そう思って、今から大切な頼みごとをキミたちにするんだからね?』
「たのみ、ごと……」

 言われた通りに繰り返す片山。切れそうになっているメンタルを、ギリギリアッコさんに繋げられているのが分かる。

『その人を、助けてあげて。救急車呼んで。私と違って、その人はまだ生きてるんだから。……私の、大事な守りたい人なの。そーちゃんたちにしか頼めないから』

 指摘されて、俺もそちらを見て。

 確かにそうだ、生きてるんだから助けなきゃ、早く、と強く意識する。その腹から強めに出血してはいるが、それでも彼はまだ生きているのだ。苦し気に呻いて血の気を失いつつあるものの、今すぐに俺たちが動けばまだ間に合うかもしれない、という状況なのだ。

「アッ、コ、アッコ……」

 探しているのか、うわ言のように繰り返して手を伸ばすその人。その側に寄り添うと、アッコさんはここだと伝えようと指先に触れようとする。でも触れられなかったのを、俺たちは見た。わずかに開いた彼の両目が、ようやくアッコさんの姿を捕らえられたのか、少し緩んで安心の気配を示す。会話はしにくい状況のようだが。けれど、彼のひと安心を打ち消すようなことを、あえてアッコさんは言う。

『ちゃんと、最期まで生きてね。私は三途の川で、何十年でも待てるんだからさ。そのために助けたんだからね?』

 え、と掠れるような声が彼の口から漏れるのを聞く。

『私の弟を、お願いね?』

 俺に言っているんだ。そう分かったのに、応えるための上手い言葉はちっとも出てこなくって、だからしっかりと首を動かして頷くことしかできなかった。それを確認し終わってから、アッコさんはニコッと笑う。ここまで満足そうに笑うアッコさんを、俺は初めて見た。そうして、アッコさんの素粒子体はさらに大きくゆうらりと歪む。大気に溶けるように揺らいで、広がって、消えていく。

『後はたのんだよ~』

 最期の最期はとてもアッコさんらしい、あのどこまでも軽めの口調だった。

「でんわ……れんらく、しなきゃ。ゆいごん、だから」

 状況を見送った片山は、ポケットからスマホを出す。震える手、掴みそこなったスマホが床に落ちる。それでも、ガクガク震えながらも、どこかの連絡先を呼び出している。何度もやり直し、やがて遠く小さく、呼び出しの音が響いて、そして誰か、大人の女の人の声がした。「もしもし」と遠く尋ねてくる音がした。

「あ、あ、アッコ姉ちゃんが、いなくなって、ツレの人がお腹怪我して倒れてる。病院、通報」

 切れ切れに必死に、喘ぐように口走る片山から、俺は奴のスマホを奪った。もうまともに会話ができる状況じゃないっぽいと判断した。

「すみません、俺、片山のダチの宮本です」

 相手の人が一瞬、息を飲むんだのが伝わる。

『事情が分かるのね?分かりやすく説明して』

 それはとても敏腕そうな女の人の声だった。これは確実に頼れる人だ、と一発で分かった。そしてこの人しか今の片山には頼る人はもういないんだとも思った。なので、俺は端的に説明する。

「今、アッコさん、片山の義理のお姉さんの部屋に俺たちはいます。アッコさんは亡くなって、でも遺体はなくて、そしてアッコさんの友人が腹部を怪我していて、このままだと命の危険があります。救急車を呼びたいです」
『分かった、今からそちらに行きます。あなたたちはそこから動かないで、誰か来ても絶対に沈黙を保って。各所の通報も移動しながらこっちでやるわ。こういうことは全部大人がやることだから、このまま私に任せなさい。いいわね?』
「はい」
『じゃあ、切るわね。蒼のこと、見ていて頂戴』
「はい」

 会話はとても端的で無駄がなく、でも片山の安全をしっかりと気にかけるあたりに、確実に信頼できる人だと悟って少しほっとする。

 俺はその場に座りこんで固まったままの片山を見た。グチャグチャと素粒子体が蠢いている。悲しみとか動揺で、見た目を全く維持できなくなっているのが分かった。俺は片山を抱きよせるようにして、その素粒子体を整える作業を自然と始めた。

 怪我をした彼の方はもはや意識が朦朧としているようだからバレないかもしれないが、それでも、今後もっと多くの人がドヤドヤとここにやってくるに違いない。ここまでの大きな変異を他人に見られるのはまずい。

「シュレ。お前ももう隠れてろ。人が来る」

 俺はシュレに声をかける。シュレはアッコさんが消えたその虚空辺りをじっと見つめたまま沈黙していたが、俺の声で正気を取り戻した。

『ああ、すまん。少し考えていた。今、何が起こったのかを』
「何か気になったのか?」

 しかしまだ虚空を睨み続けているので、俺はまだ他の人間が近づいてきていないか注意深く探りつつも、確認する。

『第三世代はまだ発生してから間もない。つまり、成熟期には少し遠いはずだった。その場合に人間の母体を奪おうとしても、変異はうまくできない。何より、その者の腹部もまだ母体としては育ち切っていなかった。ここまで磁場が安定していない場所は、虫たちのゆりかごとしては成立できない』

 シュレは一息でそう説明してきた。奴もこの状況に少し興奮しているのかもしれない、いやに早口だった。

「は?この人は、男だろ?なんで女みたいな言い方……」

 なんで?と俺は疑問に思う。俺はこの人と一度遭遇している。スーツを着ていた。男の人だ。少し中性的な雰囲気ではあったけれど。そう、女装も似合うかもしれない、って――

『女、だろう?その人間は』
「え?」
『女だから、虫は産卵に向けた行動をしていた』
「……え?」
『人間の男では奴らの産卵に適した場にはなれない。これはもう、とっくに分かっていることだろう?』

 俺の脳裏にアッコさんが口走っていた「アウトソーシング」という単語がふと思い起こされる。

 童貞食いの性。その恋人は、どう考えても男の姿にしか見えない、しかし、本当は女の人。すれ違ったあの時、この人の手に持たれていた、大手子供洋品店のロゴ入り紙袋。その中に大量に入っていたのは、きっと新生児用の……。

 この頭の中で固まった、おそらく「真実」かもしれないそれは、しかし今となっては、あえて今ここに浮上させて表面化させる意義が、果たして存在することだろうか。ただショックを受けて座り込むばかりの片山を目の前にして。

 俺は沈黙を選ぶ。気付かなかったものとして、全てを墓に持っていくことにする。

 こんなこと、知ったところで、何だってんだ。

 頭の外にそんな思考を追いやって、今はただ、片山の動揺を落ち着かせることにひたすら集中する。

 やがて、先ほどの電話先の人がやってきた。三十代くらいの女の人だった。

「あなた……もしかして、あなたが、宮本くん?」
「あ、はい」

 俺の顔を見るなり、その人は言い当てる。こちらはまだ名乗ってもいないというのに、そんなことをしなくてもとっくに俺がそうだと知っている、とでも言いたげに。

「私、川島と言います。蒼と、アッコからも話は聞いているわ。そう、あなたが……ありがとう。大変なことをさせてしまったわね。もう大丈夫」

 ぽん、と肩を叩かれて、俺は自分の肩が緊張のあまりガチガチに固まっていたことをようやく知る。

「……っ、はい」

 自然、じわりと視界が緩んだ気がした。

「詳細な事情は後で聞き取るとして。ただ、アッコが消えて腹部を損傷した怪我人もいるってことは、おそらく前の二つの事件との関連を疑って、確実にマスコミが来るわね。だからまず、何を置いてもあなたたちをここから避難させるのが優先事項。いい?話はそれからよ」
「はっ、は、い」

 そうだ。関連性を疑われる。虫のことは、マスコミは全く知らない、でもこれは「この街で起こった、腹部を狙われた妊婦の猟奇事件」のちょうど三件目になるのだ。さっきシュレが言ったことが正しいのなら。

「そんな悪意の矢面に、成人もしてない学生ふたりを晒せるもんですか。いい?あなたたちは何も見なかった。第一発見者はこの私、このアパートの管理人でアッコの後見人。私が管理人としてたまたま訪れたら、こうなってた。だから私が通報した。周囲の人間には、例え親やお友達でも、絶対にここにいたことは言わない。いいわね?」
「はい……っ」

 その有無を全く言わさないあえての強い口調は、きっと俺たちを守るためだ。それがきちんと伝わってくるので、俺は全てをこの人に任せよう、そうすべきだと考える。

「下に車を呼んでるから、それに乗りなさい。家の近くまで送らせる。あと、しばらく蒼は別の場所に保護します。どうせアッコにべったりだったことはすぐバレるだろうし、あれはこのままこのアパートに置いておくと特にマスコミの的になりやすい見た目だろうから。アッコに似過ぎてるものね」

 川島さんはちらりと片山に視線を投げて、「万が一そうなった時」を想定したのか、ひどく痛そうに顔をしかめる。

「あの子が落ち着いたら、連絡を取らせるわ。きっとよ。名刺を渡しておくわね、そちらからも何かあったらここへ」

 川島さんは手早く胸ポケットから名刺を取り出して、「はい、ちゃんと家まで持って帰るのよ」と俺の手にしっかりと握らせてくる。絶対なくさないようにしなきゃと誓って、俺はそれをポケットになおし込んだ。

「はい、片山のこと、お願い、します」

 伝えて、俺は改めて傍らの片山に話しかける。

「片山」
「みや、みやもと」

 涙でぐちゃぐちゃになった目が、何とか俺の姿を捕らえはしたようだが、全く視界は定まっていない。ここにいる、と知らせるように一度その腕を握ってから、耳元で伝える。

「シュレはうちに連れてく。落ち着いたらちゃんと連絡しろよ。分かったな?俺も連絡する」

 カクリと頭が揺れるだけの返事を、何とか確認して。そして俺はその場を早急に去ることになった。

 家に帰ると父さんと母さんと真由美に「片山のアパートで例の猟奇事件の三件目が起こった。片山の知人で、俺も会話したり見たりしたことがある人が事件に巻き込まれた」とだけ伝えて、自室にこもった。

 これらはきっともう数時間後になれば大々的に報道されることなので、全く隠す情報じゃないだろう。



[つづく]

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