見出し画像

シュレディンガーはたぶん猫。[第3話]

第3話


 あくびを噛みしめながらの一限目の数学が終わる。するとすぐに山瀬、数十秒後には松岡も寄ってきた。

「てか、どうしたん、その手。厨二病コス?」
「何か出る設定?黒龍波とか」

 開口一番、昨夜の真由美と同じような指摘をされて、俺はその時と全く同様の渋い顔になる。

 ひとりで包帯を巻いて結ぼうとした場合、自然と右手と歯を使って結ぶことになるため、ちょうど手首から八センチメートルほど上のところに結び目がきている。広めのゾーンが包帯の真っ白に覆われている状態は、さも「それっぽい」感じに見えるらしい。

「ちげーよ。ちょっとやらかして、派手に擦っただけ」

 やべえ、帰りに薬屋にでも寄って、厨二病感が薄まる代替案を考えねぇと……。このまま厨二キャラが定着してしまう。

 ため息をつきながら、これまた真由美に言い訳したのと同じく、ごにょごにょと言い逃れる。逆に広めの絆創膏を貼っただけの右手の噛み傷の方は、誰にも指摘されない。朝飯の場では家族全員が居間に揃っていたが、晩に顔を合せなかった父さんだけが「おや」と言いたげに包帯に静かに視線を注いだ程度で、ほぼスルーだった。

 やはり包帯の方があからさまに目立ってしまうようだ。

「けどさ。そんな手だと、宮本、今日遅刻してきたの、助かったかもな?」
「あー、だよなぁ……」
「は?なんで?」

 急にふと思い当たった感じでふたりが言い出したので、俺は問う。その言い出し方に少し危機を感じて。困惑混じりの視線、その四つ分の目はしげしげと俺の包帯を見つめている。

「いや、二組の、片山っているじゃん?ヤンキーの頭やってるさ。そいつの仲間が昨日の夜に襲撃受けて、拉致られたらしくて行方不明になってる。で、片山は犯人にやり返したらしくて、『右手に噛み傷がある奴』を探してるらしい」
「片山と手下の奴が五人くらいで朝の校門に張ってて、登校した男全員の手をジロジロ見たり、絆創膏ある奴は片山のところに連れてかれて引っぺがされて傷確認されたり、尋問されたり。不良のくせに逆に風紀委員みたいになっててな?」

 笑い混じりのふたりだが、俺の表情筋はピシリと固まる。
 ……右手に噛み傷。それはまさに、俺のことだろう。

 俺自身は、確実にヤンキーに襲撃などしていない。何しろ昨日の放課後は寄り道せずに真っすぐ家に帰ったし、帰宅直後からずっとこの左手の口に翻弄されていたため、当然そんなことをする余裕なんてなかった。

 ましてや襲撃なんて、そんな、暴力とか……。そんなことは、俺はもうしない……。例え相手がヤンキーでも……。

 ただし、だ。

 ヤンキーたちの視点で考えると、どうだろうか。そういうピリピリした状況でこんな、手に大げさな包帯なんてものを巻いた、いかにも怪しい奴が身近に存在したなら、どう行動するだろうか。

 左手の包帯でチェックされて呼び出されて、右手の噛み傷もバレる。現実にそこに噛み傷があり、そして異形の口までもがあると知られる……。怪しいことこの上ない。

「いやでも、『右手に噛み傷がある奴』だろ?奴らに見られたの右だし。宮本のそれ、左だもんな」

 なんだ、セーフじゃん、と松岡たちは笑うが、こっちは全く笑いごとではない。知らず知らずのうちに俺は両手を握りしめていた。そんな俺の様子に、山瀬も松岡も様子がおかしいと気付いてしまう。

「……え、宮本?」
「まさかお前、本当に襲撃……?」

 思わず、といった様子で身を引くふたりの声を耳にしながらも、俺は教室の入り口を見ている。そこに今、大柄で少し派手な髪色の男が立ったから。そしてその瞬間、ザワリとクラスメイトたち全員が警戒心を強めたからだ。

 片山、片山だ……。

 小さな囁きがさざ波のように響く。それに導かれるように俺は男の顔を確認して、険し過ぎる鋭い怒りに満ちた目つきと同時に、その口元に注目することになる。

 そこには、点があった。口の斜め下。小さなホクロ。

 それはもう、昨日の晩からずっと目にしていたもの、そしておそらく今もこの左手に隠されているものとすっかり同じものだと、確実に分かってしまう。唇の厚みや触った時の感触や体温も、歯並びがわりと綺麗で目立つ虫歯がないことさえも、とっくに知っている。この手で弄り倒したんだから。

「い、いや、俺じゃない。絶対違う。襲撃、やってない。でも、ヤバいのは分かる。二限、サボる」

 言い置いて、そのまま俺は脇目もふらず、全速力でダッシュを開始した。チャイムが鳴っているが、構っていられるか。

「貴様かっ!!」

 その問いには振り向かない。が、罵声と足音が追ってきているのが分かって、俺は転がり落ちる勢いで階段を駆け下りる。そんな必死の勢いに、まだ廊下にいた生徒たちは怯えて飛びのいた。その開いたルートを縫うようにしてスピードを上げる。教師らしき声が静止の声を上げていたが、無視して振り切る。説教は後で頼む。今じゃない。

 縦横無尽に校舎を駆け回る。片山は諦めない。やがて体力の限界が来た。 

 残念ながら、俺に持久力はあまりない。相手の方が敵を追うのも得意らしい。人目に付きにくい体育館裏、フェンスで囲われてある少し薄暗い場所に追い込まれて、首根っこを掴まれる。そのまま地面に強く引き倒された。

「ぐあっ!!」

 右の肩と背中から腰までの範囲が痛む。かけていた眼鏡もどこかに飛んでいってしまった。土埃が舞って口の中に入ったようで、舌の上でザラリとする。その感触を不快と感じて頬の付近を歪めようとした、その信号が脳から表情筋に行きつく前に、ドスリとみぞおちに衝撃が来る。全く息ができない。重い。蹴られた、と気づいた時にはもう二発目が腹に入っていた。走り回って完全に息が上がっているところにこれで、こちらはただ腹と首元を押さえて呻くことしかできない。俺の苦しさにはお構いなしに乱暴に首根っこを引っ掴まれて、軽く引き起こされる。

「昨日の夕方、三沢を拉致ったの、お前か?」

 尋問が始まった。

 それは、思っていたよりずっと低い声だった。昨日一日ずっと観察していた時には、この口元からこういう声が出てくるとは、全く想像していなかった。

 至近距離で顔を見ることになる。やはり、その唇とホクロは「とうに知っている」ものだ。

「知らない……」

 しかしこう答えて、俺は首を振る。それが思ったより息絶え絶えの声色で動き自体もユルユルとしたやり方だったことで、ダメージの大きさを悟らされる。目の前のこの片山はかなり喧嘩が強いタイプのヤンキーなんだなと身に染みた。

 ただ、やってないことはやってないから、こっちもホイホイ頷いてやる気はない。だって、実際に昨日の夕方にその「ミサワ」、それが多分拉致られたという片山のヤンキー仲間の名前なんだろうが、ソイツを襲った記憶は俺にはないのだ。

 否定に、片山は眉を寄せると、容易に逃げられないようにするためか、俺の腹に乗る。

「……っぐ、」

 ますます息ができない。何とか逃れようとするが、針でその場に固定された虫みたいに、ただ無駄に全ての手足をばたつかせるだけだった。そうやって俺を抑え込むと、片山は俺の右手首を掴んで絆創膏を勢いよく引っぺがした。容赦ないやり方のせいで痛みが酷い。その悲鳴も絶え絶えの息に紛れて苦しいが、片山はそんな俺に構わず右手側に集中している。

 そのまましばらくまじまじと噛み傷を凝視していた片山だったが、突然、ぱくりと俺の右手の指をくわえた。そして手の輪郭に沿って、丁寧なやり方でぬるりと舌が這う。

「な、にを」

 元からの息苦しさだけでなく、息が詰まる。

 何をしているのか、と訊く必要はないと、もう俺には分かっていた。昨日、そして今朝と全く同じやり方で舌が動いていた。まずは人差し指、そして親指。再び人差し指を経由して、中指、薬指、小指へ……。ニイィッ、と笑う口元のホクロも同じだ。

「見つけた。やっぱり、お前か」

 口走ったのは片山の方だったが、俺も全く同じことを目の前のコイツに思っていた。

 俺の左手にあるものは、間違いなくコイツの口だった。今や全ての感触が証拠だった。このために朝、コイツは俺を噛んだのだと理解した。目印を付けられた。だとしても。

「……でも、襲撃したのは、俺じゃない……。昨日の放課後は、すぐに帰った。それはうちの親とか、同じクラスの奴に聞けば、分かる……」

 おかしい。昨日の片山とその仲間に何が起こったのかは分からん。口の件は言い訳できないほどの覚えがある。が、襲撃に関しては、全くもって覚えがないのだ。

「は?これが何よりの証拠だろうが」

 片山は完全に頭に血が上っているようで、きっぱりと決めつける。ギリリと右腕を掴む力は手首をねじ切る勢いだ。

「とっとと言え。三沢の居場所」
「知らねぇ……っ」

 言えるわけがない。だって、本気で「ミサワ」自体を知らないんだから。居場所どころか、そもそも当人の顔も知らない、関わったこともないくらいの奴だろう。現在、高校三年生の俺だが、同じクラスになった奴、三年分のクラスメイトしか基本覚えていない。帰宅部だから、他クラスや他学年の知り合いも少ない。目の前の片山のことだって「怖い・でかい・ヤバい・気を付けろ」くらいの噂は耳にしていたが、その程度だった。

 ギリギリと首元を締め上げられて、持ち上げられた分の勢いのまま、地面に後頭部を叩きつけられる。何度も。そのたびに、頭がぐわんぐわんする。

「言え。殺す前に」

 は?殺す気か。マジで、何でここまで預かり知らんことを詰められてんだよ、俺は。口のことならまだ土下座で詫びてもいい、ただし、やってないことはやってねぇし、知らねぇ。

 理不尽な気分が膨れ上がる。それは今まで一度も経験したことがなかった、暴力的な気分だった。ずっと抑えていたはずのものだった。「殺す」と言われた瞬間、「死ぬかも」と感じた瞬間、自然とスイッチが入ったような気がした。

「しらねぇっつってんだろうが……!!」

 激しい怒りと同時に、どこか客観的にその怒りを観察する自分があった、と思う。俺の右手は掴んでいた片山を振り切ってその頬を殴っていた。衝撃で片山の体が少し浮いた、そのタイミングを逃さずにこの身を反転させる。急な反撃だったからか、優位にあるからと少々気を抜いていたのか、片山はまともにそれを食らったようだった。

「何だ。ヒョロいわりに、俺に抵抗できんのか。お前」

 片山は右頬に手をあてて、何だか意外だと言いたげに、どこか驚いた顔になっていた。これまであまり強めにやり返されたことがなかったのかもしれない。ずっと怒りそのものの険しい目元だったのが、少し間抜けにも見える顔つきになった。こっちこそ、意外な表情だと思った。そんな顔で、片山はペッと唾を吐く。泡立ったそれは赤み混じりだ。口の中が切れたらしい。

 が、ともかく、ゼイゼイと肩で息をしながらも、俺は次の攻撃に身構えた。片山もすぐに驚きらしきものを封印して、俺たちは再度喧嘩に戻ろうとした。

 途端。ぐにょり、と視界が歪む。もしや頭に衝撃を食らいまくったせいだろうか、と一瞬考えたが、どうも違う。立っていられず、俺はそのまま目元を押さえたまましゃがみこんだ。

 ぐにょぐにょの視界は、今は頭を上げられず、地面を見ているはずだ。確かにこの校舎裏の土を見ている、そのはずなのに、何故かダブるように空が見えた。左目の視界だけに。

「は……?」

 青空。空は青空だ。今日はわりといいお天気で、五月のわりに暑い。雲がひとつだけ、白く映えている。

 そんな情報を左目が送ってきて、あり得ない。だって、地面に崩れそうなところを何とか両手をついて耐えていて、顔を上げられないんだ。地面しか見ていない。なのに、地面の奥に空があるのか、空の奥に地面があるのか。遠近感が分からない。気持ち悪い。

「おい……?」

 こちらの急な異変に、片山も不安そうな声色になっていた。

 俺は意識して、ノロノロと頭を上げる。すると今顔を上げて揺れている視点と、空の青がブレブレに混ざりあって、気持ち悪い。酔いそうだ。車酔いに似た感覚。吐き気が忍び寄ってくる、あの感じ。

 空は、「知っていた通り」に、晴れていた。初夏の空にひとつだけ白い雲。右目は普通だが、左目の空は、変な感じで空二つが重なり合って見える。

 ズレを見るに、もうひとつの視界はもっと違うところから空を見ているようだ。どこだ、どこから……。俺は目元を押さえたまま、辺りを確認する。
すると、指が左視界に入ってきた。指、指……。

 何とか吐き気を耐えて、探して。俺は見た。

 絶対にありえないはずのその部分に、確かに「目」があることを。そしてそれが確かに「俺の左目」であることを。

「片山……首、お前の首の、右側。斜め後ろ」
「あ?」

 何なんだ、とイライラした様子で乱暴に応え、片山はそこに手をやる。す、と俺の左瞼を何かが押さえた。手の感触だと分かった。片山の指だ。

「何だ、これ……首、変な感触、が」

 首元を自分の目では凝視できないからか、執拗に手探りして確かめようとする片山。直接見れはしないものの、違和感はしっかりあるらしい。そのたびに、俺の左目は上から押され、下瞼を引っ張られる。あまりいい気分にはならない。

「あんまり強く押すな。そこ、俺の目が、ついてる」
「はあ?」
「そんで、俺の左手の、こっちがお前の口な」

 左手を軽く振って示すと、てんで訳が分からない、という顔をされた。当然だ。仕方ない、と俺は決心して、この身に何が起こっているかを伝えるためにと、右手と歯を使って左手の包帯を解く。何だ何だと最初はただただ困惑の表情だったのが、包帯、ガーゼと段々外されていくたびに少しずつ恐怖の色に変わっていく。

 怖いものなしに見える片山にも、これはなかなかの衝撃だったようだ。全ての布類を取り払った時、左手の口はぽかんと、驚きと恐怖の形で大きく開けられていた。目線を上げると、それと全く同じく、まさしくコピペの形で片山の顔面の口も開いていて。同じ位置にホクロが目立っている。

 ああ、間違いなく、コイツの口……と俺も完全に悟るしかなかった。架空の人間の口かも、特に無害なら別に放置していてもいいんじゃないか、などと軽めに想定していたつもりが、これで現実と向き合うことが確定した。



[つづく]

※他の話数はこちらから↓


第1話 / 第2話 / 第3話 / 第4話 / 第5話第6話第7話 / 第8話 /…

お読み頂きありがとうございました。よろしければスキお読み頂きありがとうございました。よろしければスキ・コメントなど頂けると嬉しいです!

作者・鰯野つみれのNOTEのサイトマップは以下↓となります。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

まずサポートについて考えて頂けただけで嬉しいです、頂いたサポートは活動費として使わせて頂きます!