シュレディンガーはたぶん猫。[第1話]
見切り発車ですが、創作大賞「ホラー小説部門」に参加してみることにしました。応募期間は4月23日(火)から7月23日(火)までということなので、期限いっぱいまで、しばしお付き合い頂けると幸いです。
ジャンル説明・あらすじ。
第1話
第一章
「手に包帯巻いて異形を隠すのを、厨二病みたいって言うな」
学校から帰って自室で部屋着に着替えたところで、ふいに左の手のひらに違和感があることに気付いた。何の気なしに見てみたそれだけのはずが、俺は再度、今度はまじまじと自らの左手を凝視することとなった。
「――く、口、えっ、なんで?」
それは「人間の口」に見えた。縦はちょうど鼻の下、人中辺りから、アゴの少し上の少し凹んだところまで。横は唇の端から頬に至る直前まで。その辺りのゾーンが、俺のちょうど手のひらの真ん中から「生えて」いる。本来なら占い師さんが手相を鑑定する時に見る部分、生命線なんかのしわがあるそこに、何でなのかは分からんが、リアルな唇がある。
ひっ、と思わず声が漏れた。
錯覚と思おうとして瞬きをしたり右腕で両目を擦ったりしてみたが、変わりはない。口はずっとそこに在り続ける。そしてその唇は絶えず動いていて、舌がちろりと見えたり、少し半開きになったり、閉じたり、としている様子は、いかにも「本物の唇」の挙動だった。
冷たい嫌な汗が背中を流れていく感触。それを味わいながらも、微動だにせず、俺は部屋の床に座り込んだままじっと見つめる。
いや……何で?何が?どうして?何これ?
その問いに応える者は誰もおらず、ただ時間だけが過ぎていく。しかし、体感的には数分後。いつまでも驚きっぱなしで凍り付いているわけにもいかない、と俺は強く決心した。
勇気を絞り出し、恐る恐る、俺は右手の人差し指でそれに触れてみる。三ミリくらい開いた下唇、その真ん中が、俺の指先の力を押し当て方に従うように押し返す。
リアル過ぎる弾力と、体温らしきものと、わずかに息遣いのようなものも感じた。
「……ッ、」
「政信、ご飯できたわよー、早く降りてきなさい~」
俺はその瞬間、おそらく、大声で悲鳴を上げようとしたのだと思う。けれども、それは一階から呼ぶ母さんのある意味のんきな声のおかげで完全にかき消えた。
「ご、ごは、ん」
俺の口はそう復唱して、すると、途端に「ヤバい」という考え一色に意識が切り替わる。「コレ」を家族に見られるわけにはいかない。隠さないと。
「便所行ってから、行く……!!」
返事を返し、階段を駆け下りるようにして二階の自室から一階の洗面所に移動すると、据え置きの救急箱を漁ってガーゼと包帯とハサミを引っ掴む。そのまま隣のゾーンのトイレに移動して、しっかりと鍵をかけた。
居間からのテレビの音が漏れ響いてきているが、特に家族が俺の様子を気にしている気配はない。今のうちだ。
俺はちょうどいい大きさに切ったガーゼを手のひらにあてて、完全に「それ」を覆う。その上から包帯をぐるぐると巻いて隠してしまった。微妙に手が震えていて、焦っているのを自覚する。
また使うことを念頭にガーゼと包帯の残りとハサミはスウェットのズボンのポケットに押し込んだ。我が家の救急箱はそこまでしっかりと在庫管理されているわけでもないから、新しいものを買って戻しておけば特に何も言われないだろう。
そうやって全ての隠ぺいを完了してから意識して息を整えると、俺は何事もなかったかのような顔をして居間へと向かう。
父さんはまだ帰宅していない。いつも夜九時過ぎる頃に帰って来るから、きっと今日もそうなんだろう。台所では母さんが慌ただしく皿やマヨネーズなんかの準備などをしていて、妹の真由美はソファーにだらしなく寝そべってスマホを弄っている。気配に気づいたらしい真由美がひょいと顔を上げて、俺の左手をその目に留めた。
「ねぇ、兄ちゃん。その左手さぁ」
「っ、なに」
脈拍が乱れかける。思わず強めに「なに」と口走ってしまった。大丈夫か。もしバレたら。
「なんか、厨二病の人みたいだねぇ、包帯。ね、ちょっとその眼鏡クイッてしてみてよ。厨二眼鏡キャラみたいに」
「絶対やらんわ」
肩の力が変な感じで抜けてしまう。バレてはいないようだが、そっか、厨二病っぽいか……これはこれでちょっと痛恥ずかしい気分だな……。
「ちょっと、派手に擦りむいただけだ。大したことないけど擦れたら痛いから」
「ふうん」
俺は適当に誤魔化してダイニングテーブルの所定の位置につく。真由美も特に深追いはしてこず、だらだらと腕を伸ばして伸びなぞしている。
隠ぺい工作に時間をかけていたからか、もう既にテーブルの上には全ての料理が揃っていた。豆腐とわかめの味噌汁とサラダ。メインには親子丼だ。すぐに真由美と母さんも席に着き、いつも通りの夕飯の時間が始まった。
懸念するようなことは何も起こらず、夕食を終えると俺はすぐに自室に戻る。居間に長居してボロを出したくない。何しろ、この「謎の口」の検証はまだまだ終わっていないのだ。
――この口は「しゃべる」のか。
食事中、平静を装いつつも気が気でなかったのは、そのことだ。リアルで動くし体温も息遣いも舌もあるっぽい、ということは、通常の人間と同じくしゃべったりうなったり歌ったり、そういうことも可能かもしれない、ということだ。まだそういう動きを見てはいないのだが、念の為だ……。
声を出す機能はあるのか、ないのか。あるとしたら、どこにあるのか。きちんと調べておかないと。対策なしにいきなり発言されるのは少しまずいだろう。
あの最初の恐怖は時とともに落ち着いてしまった。夕食中に食べながらも脳内をいくらか整理できたこともあり、今や俺の脳内は「もっと調べてみようか」一択となっていた。気になると徹底的に調べないと気が済まない性格でもある。
部屋の鍵を確かめ、包帯とガーゼを外す。やはり、変わらず「それ」は左手のひらの中心に鎮座していた。手を握りしめてみた感触で何となし分かってはいたが、やはり目で見ることで認識が強まる。
まずは、試しに唇をツンツンとつついてみた。先ほどもやったことだが、まず入口からだろう。今回は道具を用意したが、いきなり奥まで突っ込むのも、正直抵抗がある。
使うのは、台所から取ってきた長めのスプーン。パフェを食べる時に使うような、長細い形状のやつだ。「歯医者さんが使うあの金属の棒」みたいなイメージで使えそうなものを探した結果、我が家にはそれしかなかった。
――すみません、ちょっと入りますよ。
そんな気持ちで触れてみたところ、唇が開く。まるでノックに応えて開けてくれたような気もして、少し面白い。
突然恐ろしい勢いで嚙みついてくる、などという危険なことにはならず、ほっとする。もしこれが妖怪とか化け物とかの類の口だったら、などと一応警戒していたのだが、鋭い牙があるとか唾液が酸で金属が溶けるとか、そんなオカルトな話ではないようだ。
「普通に人間の口っぽい……?」
観察しながら、思わず呟く。
いや、滅茶苦茶リアルな人間の口が手のひらにくっついてる時点で、かなりのオカルトではあるんだが。でも、これで何もしなければそこまで危険ではないかも?と分かったのはよかった。酸の唾液を垂れ流された日には、たまったもんじゃあないしな。
スプーンで舌を押しのけるようにして、勉強机のライトを当てながら、少し奥を覗き込む。口の奥には謎の異次元空間が広がっていて、というようなこともないようだ。喉に触れたスプーンが更に奥までどんどん飲み込まれていく、なんてことは起こらない。
普通に人間の口だと思う。ただ、虫歯の治療もない、銀歯もない、正直、とても綺麗な歯並びだと思う。俺の口が何かの間違いでそのまま自分の手にコピペされたのか?と思っていたが、俺には特徴的な八重歯があるし少し歯並びも悪いので、これは確実に俺の口ではないと分かる。
この世の誰かの口のコピペなのか。それとも、創造された全くの架空の人間の口なのか。それは分からない。
ひとまず、思いっきり観察して安心したので、俺はスプーンを手のひらの口から抜く。するとスプーンの先端からタラリと液体が糸を引いて落ちた。「ああ、唾液か」と眺めて、ひとまずティッシュで拭う。
その時、唇の左下……唇本体からするとちょうど右下に位置する、そこに小さな黒い点があることに、ふと気づいた。
俺の左の手のひらにはホクロはない。つまりそれは、この唇の持ち主のもの、ということになる……。初めて発見した「手がかり」になるかもしれない。ちょうどよく身近に「本人」がいるかは依然不明だが。
「唾液があるってことは……コイツ、何か、食うのかな」
思い立ち、俺は勉強机周りをきょろきょろと探す。ちょうど眠気覚ましや小腹がすいた時用の袋入りの飴玉があったので、右の指先と歯を使って個装を破る。そうして取り出した中身を、左手の唇の隙間からひとつ、押し込んでみた。歯に飴玉が当たっているのか、コロリと小さく音が鳴っている。
「お。舐めてるっぽい?」
手元を確認しつつ、時間差で自分の顔の方の口にも飴玉を放る。慣れたオレンジの味だ。
全く同じオレンジの味を、左手の口も認識しているんだろうか。ちゃんと味わっているんだろうか。しっかりもぐもぐと口を動かしているあたり。
「こっちの味覚を俺が感じるわけではない、のか」
左手の口の味覚の神経と俺の脳の繋がりはない様子だ。また、触覚もないようだ。唇に触れた時、触れた側の俺の指には「弾力があるな」などという感触があるが、左手の真ん中の唇ゾーンは、全く触れられたと感じない。その部分だけあたかも別人の器官みたいで、不思議だ。
懸念していた「声を出す」ということもなさそうだ。結構な間スプーンで口内を弄っていたわけだが、左手から声が出てくる様子は全くなかった。一度スプーンを、不注意なことに取り落としそうになったのだが、その弾みで少し奥まで突っ込んでしまった際にも、声自体はなかった。さも驚いたみたいに、大きく開けられた唇自体が震えてはいたが。
俺自身が舐め終えたのと同じタイミングで改めて左手の口の中もスプーンで探って確認したが、飴はもう見当たらなかった。きちんとすっかり舐め終えたということらしい。
何でか、まるで野良猫に餌付けができた時と似たようなほっこりした気分で、俺は今回のこの検証を終えた。
一体どうしてこんなことになったのかも分からない。消す・解決する方法も分からない。そのため、それなりに今後への不安はあった。
だが、「これは思っていたよりだいぶ、共存できそうじゃないか。まるで餌付けしてるみたいだったし、ちょっとかわいいかもしれないぞ」なんて、かなりのんきなことを思いながら、俺はスプーンを片付けて寝たのだった。
次の日、「いやいや、これは絶っっ対、無理だろ!!どうしてこうなった!?」と頭を抱えて青ざめることになるとは、つゆほども知らずに。
[つづく]
※第2話目以降はこちらから↓
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