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シュレディンガーはたぶん猫。[第2話]

第2話



  じわじわと蝉が鳴いていた。その鳴き声に混ざるのは、人の泣き声だ。真由美が、妹が、俺の足元に座り込み、わんわんと泣いている。蝉しぐれに負けない声量で。

「おにいちゃんが、セミのこと、ころした」

 嗚咽交じりに父さんに告発するのを耳で聞きながら、俺は自分の両手の中を見つめている。コロリと力なく転がる蝉の体には、いくつかパーツが足りない。汗ばんだ指の股には千切れた脚らしきものが張り付いている。はらりと二枚の羽が地面に落ちた。

「ちがう……ぼく、セミのこと、すき。すきだから、たくさんカンサツしたくて。もっと、みたくて、それで……」

 俺は頭を振る。違う。違う。殺したかったんじゃない。

 そんな俺を、父さんは目を見開いて見つめていた。落ちた沈黙が恐ろしかった。蝉と真由美だけが喧騒を生み出しているその空間は、どこか異世界に迷い込んだかのように思えた。

「政信」

 名を呼ばれて、怒られる、と思ってビクリとこの身を固くする。しかし、やがて父さんは宥めるように諭すように、俺の頭を撫でてきた。

「小さいもの、弱いものには、優しくしなさい」

 それだけを言い置くと、父さんは俺の両手のひらから、蝉の体とへばりついた脚のいくつか、そして落ちていた羽二枚を自分の手に拾い上げる。そうして、俺の背を押して促した。

「……埋めてあげよう」

 父さんはそれっきり話さず、黙々と近くの木の根元に枯れ枝で穴を掘って、蝉を埋めた。その後、使った枝を立ててまるで墓標のようにする。そうして、両の手を合わせた。

 だから、俺も同じように父の動きをトレースする。「こういう時」には、人はそうすべきなのだと学んで。

 蝉と真由美だけは、いまだ激しくないている。それ以外の静寂を壊すように、俺の左の手のひらから、ケタケタと誰とも分からない笑い声がした。

 違うだって。違うだって。アハハハハ、認めたっていいだろうが。お前は好奇心で蝉を殺す人間だ。そろそろもっと大きな、いっそ猫だって殺すんじゃないか?この馬鹿め、畜生め、猫め。殺し返されたって知らないぞ。早く認めろ、認めてしまえよ。そうすりゃもっと楽になるだろ。いつまで隠してるんだ。

 左手のあの口が、ホクロをくっつけたその唇が、早口で嘲る。弧を描いてゲラゲラと笑う口を、俺は必死に押さえようとする。どんなに口をふさいでも隙間から含み笑いがまだ漏れ出していて、ヤツは延々と笑い続けていた。

 ジリジリと太陽が頬を焦がしている。蝉しぐれも真由美の嗚咽も誰とも知れない声も、強く耳をえぐり続ける……。

 

 光が眩しくて、そろりと毛布を引いて身じろいだ。

 今は、真夏じゃあない。
まだ。少し早い。

 蝉も真由美もないていない、俺に与えられているいつもの自宅の一人部屋。ぼんやりと滲んだ視界。その左手のひらに蝉の死骸は握られていなかった。かわりに違うものがある。

 ……あれは、小学生の頃、四年生くらいだっけか。父方の実家近くの山に行った時のことだった。

 カーテンの隙間から入り込んできている日光は初夏の朝特有の爽やかさだったが、当の照らされている対象が異形過ぎる手のひらのため、あまりいい目覚めにはならない。

 左手の居候は、いかにも寝ているふうに静かだ。夢の中のように饒舌にしゃべることも、ましてや嘲ることもなく。

 包帯は巻いて寝たはずだったが、完全に結び目がほどけてしまっていて、腕に絡まるままになっている。テープでガーゼを止めてもいたというのに、それも中途半端に剥がれてひっくり返っていた。これは「単に俺の寝相が悪かった」というだけではなさそうだ。

 左手は全ての布類が、まるで蹴り飛ばされているかのように剝がされていて、もしかすると、暑かったのか、苦しかったのか。確かにこの口の立場からしてみれば、昨日の夜からずっと何時間もマスクをつけられていた状況と変わらないだろう。夜の寝ている時間くらいは布類外してくれよ、となっても仕方なかったのかもしれない。

 寝ぼけ眼のまま「満足げにすうすうと規則正しく呼吸して寝ているふうの人の唇」を眺めながら、「口としての呼吸の権利を最大限確保してやるべきだったんだな……」などと保護者か飼い主よろしく、深く反省する俺。

 ――なんつー目覚めだよ、おい。都合良く寝て起きたら消えていた、とはならねぇのかよ。何の反省だ、コレは。

 憤慨したが、もう分かってるんだ。今の俺は、あの夢のせいでとことん懺悔の感覚に弱いのだと。

 目覚めはすこぶる悪いが、それでもモソモソと起き上がって軽く頭を振る。時計は朝六時半過ぎ。ギリギリまで寝ていたいタイプなのだが、今日はアラームが鳴る予定時刻の三十分も前に起きてしまい、もったいない気分だ。

 少々憎らしい気分になった。イラッとした気分に任せてまだのんきに寝込んでいる様子の左手の唇を、二本指でキュッとつまんでやる。途端、ビクリと大きく動いて、さも「驚いて起きた」時のような挙動をした。その後あくびの挙動までしているあたり、本当に「たった今起きたふう」な動きだよなぁと感心してしまう。マジでリアルだよな、と俺は思わず人差し指でツンツンと唇をつついたりして。

 すると、突然、口は俺の指先を軽くかじってきた。

「おわっ!!」

 慌てて引っこ抜こうと試みる俺に対して、逆に抗議するかのように舌が絡みついてくる。「ダメだ、抜くな」と動きで意思を表明しているのが、分かった。何でか。

 口の中の人差し指の存在を確かめようとしているのか、輪郭を確認する動きで舌が蠢く。それはいやに丁寧な手つき……いや、「舌つき」と言うべきろうか、そんな慎重なやり方だった。人差し指一本を十分に検分し終えると、そのまま舌を滑らせて親指へ。それが終わると、もう一度人差し指経由で中指、薬指、小指……と移動していく。

 おそらく、俺が昨晩口の中を観察したのと同様に、口の側も俺の存在をこうして、手探りならぬ口探り状態で観察しているのだろう。

 好き勝手に検分したからには、こっちも相手が満足するまでとことん検分されるしかない。お互い様というものだ。もの慣れない感触と、ヌトヌトと赤の他人の唾液で濡れそぼる指に、まあまあ気持ち悪さはあったが、そう観念して、俺は左手の口がやるままにまかせる。

 ふいに舌の先で指の付け根をしつこく探られて、くすぐったかった。おいコラ、それやめろ。伝えようとして舌を軽く押し返すと、にやりと口角が上がって笑われた息遣いがする。

 ……もしかして、コイツ、わりと性格悪い奴か?

 口の斜め下、小さなほくろを見た。見た目ではそれ以外にらしい「個性」はない。ただ、執拗な舌の動きもあって、そこには当人の性格が現れていると感じる。リアルな人格の存在があると、確信した。

 たらたらと唾液が溢れ出てきて、両ひじに向かって一筋ずつ、流れていく。パジャマ代わりの半袖Tシャツの袖口が左右どちらもしっとりと濡れてきた。その肌に張り付いてくる感触に、夢の中同様の、しっとりと汗ばむ真夏特有の気配を錯覚する。一見、自分の両手のひらを「いただきます」の形で重ね合わせているだけのようにも見える俺だが、現実はそうじゃない。

 夢と記憶が呼び出した痛みが、心に強く蘇る。手を合わせて蝉の死の底での安寧を願い、詫びた。蝉には人のような赤い血はないはずなのに、何故か両手が真っ赤になった気分になってくる。いずれそうなるかもな、と思わされる。

 ちゅ、と人差し指全体を包み込むように咥えられて、唾液ごと吸われた。そんなことをさも「美味そうに」やられてしまい、思わず眉のしわが深くなった。至近距離で見たそれは口元のほくろも相まって、妙に印象的な視覚になる。

 ぞわ、と背筋が震えた。それを恐怖からではなく、性的な快感の方から来ているものだ、と一気に悟らされる。

 えぐられるような痛みを伴う気分と、別のもののはずのねっとりした性感は、意外と器用に同時進行できるものらしい。

「うわ、えっろ……」

 思わず声が漏れた。

 たぶん、男だろうな。これが可愛い女の子だったら色々と夜のオカズ的な意味で助かるんだけどなぁ、と期待したかったのだが、「こんな堂々かつ性格悪めにエロい舌の使い方をしやがる女が、そうそういてたまるか」とも思う。

 何で俺が野郎相手に、しかも口という一部分だけ見て、エロいとか考えなきゃなんねーんだよ……!!

 再度むかついたので、俺は少し仕返しすることにした。完全に腹いせだ。人差し指と中指、二本の指を突っ込んで舌を捕らえて軽く引っ張ったり、上あごを口の中からごそごそ探ってみたり、歯を指でなぞったり、あえて奥まで指を突っ込んでやったりした。

 しばらくの間、舌はそんなこっちの行動にただひたすら耐えていたと思う。たまにあの「美味そう」な雰囲気を出してさえいたので、相手はそれほど俺の仕返しに懲りてはいないと判断していたのだが。

 突然、口はガリリと強く、嚙み切る勢いで歯を立ててくる。

「いづっ……!! この……っ!!」

 悲鳴を上げ、俺が今度こそ慌てて指を引っこ抜こうとした、その瞬間。しかし、口はまるで傷ができたことを確かめるように染み出した血を舐め取ろうとその舌を動かしてから、ニイッと満足そうに笑った。やってやったぞ、とばかりに。

 昨日の流れから、何をしてもろくに抵抗しない、と思わされていた。全然大人しくなんてなかったわ、コイツ。すっかり騙されてた。罠かよ、こん畜生が……。

 途端に、ゲラゲラと夢の中で笑われたことを思い出す。

――この馬鹿め、畜生め、猫め。殺し返されたって知らないぞ。早く認めろ、認めてしまえよ。そうすりゃもっと楽になるだろ。いつまで隠してるんだ――

 ちっ、と舌打ちして、ベッドを出る。枕元からティッシュを引き出して血止めしながら、右手の人差し指と中指の付け根とすぐ上の関節の間、綺麗に半円状に残っている歯形を見下ろす。噛み痕はあくまでも人にやられた形跡で、やはり酸で溶けたり謎の変質をしたりというオカルトにはならなかったものの、コイツに能動的な意思があることははっきりわかった。

 絆創膏まだあったっけ……。口隠しの包帯もまた巻かないといけない。右も左も散々な手のありさまだ。

 あーあ。俺のこの左手の口は寝相も寝起きも、口癖までもが相当悪いらしい。昨夜のあの大人しさは、本気で策として猫を被っていただけのようだな。

 気楽な共存はできそうにないとついに分かってしまい、どうにも重い気分になってしまう。

 ……とまぁ、そんなことを朝からジタバタやっていたせいで、結局、俺は遅刻ギリギリまで家にいることになってしまった。そのため、俺は「とても重要な情報」を聞きそびれた。

 いつもの朝だったら、仲がいい友人グループの松岡や山瀬と顔を合わせてダラダラだべっている、その間に聞けていたはずだ。チャイムが鳴るとほぼ同時に教室に駆け込むことになり、すぐに教師が来てしまったため、まだ息を荒くしている俺に松岡も山瀬も「ギリギリじゃんか、お前~」とヘラリと笑って見せるくらいで、会話の時間は取れなかった。もし一限目の授業後の休み時間になるまでに知らされていたならまだ逃げられたのかもしれないが、そこのところは真面目な友人たちなので、授業中に俺のスマホにその情報が届くようなこともなかった。

 その逆。不真面目な者――すなわち一部のヤンキーたち数人は、全く遠慮せずに教師の声を聞き流しながら彼らの連絡網をグルグル回して人海戦術に勤しんでいたらしかったのだが。そんなこと、俺には知る由もなかった。



[つづく]

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