シュレディンガーはたぶん猫。[第13話]
第13話
なので、俺も何とか、この顔を上げられる気がした。
綺麗に塗られた薄いピンクのネイルと、その先端にキラキラした金のラメが光っている。そのすらりとした腕、肩、とじわじわと視線を上げていき、とうとう目線が合った。
途端、ニコッ、と微笑まれてしまい、うっ、すごい、「お姉さん」だ……と息が詰まりそうになる。
噂の「アッコ姉ちゃん」は、ショートカットの、とても綺麗な人だった。キンキンの金髪の片山よりは、少し茶髪に近い柔らかめの金髪をしている。片山は基本、仏頂面に近い表情だが、アッコさんはずっとニコニコとしていて穏やかそうだ。でもなんか、血がつながった姉弟って言われても納得する感じに、醸し出される一部の雰囲気がどこか似ていた。
「むしろキミの方が、私で平気かな?ハジメテの相手にしたい好きな子とかいい感じになってる子とか、いないの?」
ダイジョブかな?と囁かれて小首を傾げられた。その耳元のピアスがしゃらりと小さな金属音を立てる。ものすごくいい匂いがするのは、香水なんだろうか。
うわ、成人した女の人だぁ……。
ひええ、と俺は少しのけ反ってしまう。
「や、そういう人は、別にいないんで……大丈夫です……」
そんな人いただろうか、いやいない、と思考を走らせようとした瞬間、つい片山のことをちらりと思い出してしまった。
……あれはノーカンだ。絶対。そういうのじゃねぇから。
「そっか。ならよかった」
「は、はい……」
まだ特に何もされていないはずなのに、既に完全に雰囲気に気圧されてしまっている。そんな俺の肩を宥めるようにポンポンと叩く手は、どこまでも優しかった。
「あっは、そんな怯えないで。大丈夫だから。てか、そーちゃん、私のこと、キミに何て言って紹介したの?」
そーちゃん、というのは、おそらく片山本人のことなんだろう。片山の下の名前は「蒼」らしいから。
「あ、あの。なんか、童貞の男を食う妖怪とかって」
言ってもいいのかなコレ、と恐る恐る口走ると、一瞬キョトンとした後に大爆笑されてしまった。
「あっははは、それはそうなんだけどね!!そーちゃんのも食ってるしね!!」
「え、」
「あー、知らなかった?そっかぁ。そーちゃんも、それは言ってなかったんだ、さすがに」
この姉と弟は、発言の唐突さもそっくりらしい。俺が息を詰まらせてアッコさんの目を凝視すると「あッ、ヤバ、つい言っちゃったわ」とでも言いたげに口元を押さえる。それからそのまま約五秒ほどへらりと誤魔化すように笑っていたが、ふっと息を吐き出して意識的に話題を移した。
「ま、その話の続きは後にしよっか。時間も限られてることだし。今はこっちに集中しようね。はい、どうぞ」
はい、と口走りながら手を広げて、アッコさんは俺の心身を丸ごと受け止めるような意思を伝えてくる。
「キミの好きにしていいよ?」
「好きに、って……」
好きに、と言われても、困った。動けないまま、こっちは受け入れ態勢バッチリですよ、とばかりに捧げられているその両腕を見る。まさに「どうぞ」の姿勢そのものだった。
しかし、俺はというと動けない。
女子相手に、一体俺は具体的にどうしたいのか、これまでも全く考えられていない。セックスなんて「俺がやってはいけないことだ」としか思ってなかったから。
まず、触っていいのか。
そこからだった。俺の頭の中には、あの蝉のように目の前の女子を傷つけるかもしれない、という怯えが、ずっとある。
「童貞の子って、初めてのことなんだから、当然、自分がどういうプレイが好きとか、何も分からないわけじゃない?」
アッコさんは、そんな俺をヘタレだとか、笑ったりはしなかった。ずっと手を広げた「どうぞ」の体勢のまま、待ってくれていた。そして、そうだよね、分からないよねぇ、と言いたげに小さく頷いて、納得顔になる。
「だから、私はまず、好きなように触ってみることから、オススメしてんの。そしたら優先でしたいこととか、プレイの好みとか、その子なりの型みたいなものがいくらか自覚できると思うのね?」
だから、はい、「どうぞ」。
再び、その腕を広げられる。
「……触っても、いいんですか」
両手を握りしめておずおずと尋ねると、ニコ、とアッコさんが笑う。当方は全く構いませんよ、と証明するように。
「どーぞぉ」
「昨日は、ちゃんと捨てられたのか?」
「ま、まぁな」
次の日、当然のように片山は確認してきたので、俺は思い出し赤面しながら応える。片山としては相手を紹介した立場だから気にしてたというか、確認しておきたいだけなのかもしれないが、こっちはちょっといたたまれない気分だ。
俺は昨日の事後、布団に埋もれながら「アッコさんが当時中三だった片山を食った時の話」を聞いてしまっている。
「そーちゃんはね。教育放棄っていうのかな、そういう家の子でね。天涯孤独がすっごい寂しかったんだと思うの。だから、本当は私にもっとちゃんとした家族っぽいものを、らしい『お姉ちゃん』を求めてたと思うのね」
ペットボトルの水を一口、グイッと豪快に飲んでから、ふう、とアッコさんは吐息をついた。サバサバした無造作な感じだったのに、何でかそれがいやに色っぽくも見えた。
「でも私、しょせんは童貞食いだからさぁ……。当時は、そうしてあげられなかったんだよね。私も今よりずっとクソガキで、馬鹿で、余裕なくて、その期待を裏切っちゃった」
そしてそこでちょっと、思い出すかのように痛そうな表情になる。顔を合わせてからその時まで、アッコさんの言い回しは常にあっけらかんとして見える気もしていたが、台詞のその部分は重みがあった。とても後悔しているらしかった。
「だから私に似て、心が栄養不足な子になっちゃったというかね。ほら、他人の体を触ったり触られたりしないと得られない栄養、ってのが人にはあるからねぇ」
重くなった雰囲気を誤魔化すように、アハハ、とアッコさんはあえて声を立てて笑う。
俺は、片山が他人を遠ざける乱暴なヤンキーとして振る舞いつつも、逆に「妙に人にベタベタと近づきたがる、パーソナルスペースが近い男」でもある事実を思い起こした。
「キミはこれまでの子とは少し毛色が違うから、教えとくんだけどさ」
そこで、また真剣みがある表情をアッコさんが作って見せたので、俺もしっかり姿勢を正して聞く。
「あの子、最近は信頼していいかまだわかんないって童貞の友達できたら、まず私を斡旋すんの。セックスってその人の全部が出ちゃうものじゃない?特に初回で取り繕える男ってのは基本いないし。だから、リトマス試験紙みたいに私の反応見て、それから相手の子への対応決めてるの」
片山が何で俺にアッコさんを紹介したのか、それも結構強引に、有無を言わさずやったのか。俺にはその理由が分からなかったわけだが、ちゃんとしっかり目的があったらしい。
そして、アッコさんはくしゃくしゃと俺の頭を撫でてくれた。気にしないでいいんだよ、と強く分からせるように。「弟を宥めるお姉ちゃん」そのものなやり方だった。
「これは『アッコお姉ちゃん』としての、そーちゃんへの贖罪でもあるんだよ。だからね、キミがさっき私に対して色々やっちゃったことを、悔やむ必要は全くないよ?」
その首筋に爪で引っ掻いたり、噛んだりした痕が鮮やかに残っていて、見た目が痛々しかった。
「何で、そんなこと……」
「下半身がすっきりしたはずなのに、キミがすっごい、泣きそうなモヤった顔してるから~」
そしてそう笑って、アッコさんはまた俺の頭を撫でて、それからぎゅっと強く抱きしめてくれたのだった。
確かに「他人の体を触ったり触られたりしないと得られない栄養、ってのが人にはある」んだろうな、と俺にも分かる気がした。そういう「初めて」だった。
「……あのさ。アッコさん、ああ見えて、実はいいお姉ちゃんだよな。ちゃんとお前のこと心配してた」
自分が知り合った人間がどんな奴か、という深めの意見を丸投げして求めるくらいに、片山があの人を心から信頼しているのが分かった。アッコさんの方も、片山をしっかり大切な弟として扱っていた。
俺に対しても「そーちゃんにちゃんとキミみたいな友達ができてうれしいな」なんて言って、ずっとニコニコ笑っていた。安心したよと言いたげに。
あんな――正直、「乱暴」をした俺相手に。きっと童貞を深くこじらせすぎたせいだ。滅茶苦茶申し訳ない。
次があるなら、絶対繰り返したくない……。アッコさんとは「童貞食い」という宣言通りに二度目はないのだと理解しているけれど、もし他の子相手に、次の機会があるなら……。
「俺も、そう思う。いい姉ちゃんなんだ」
片山が大きく頷いた。
「ただ、童貞食いなところだけ、本当クソ姉貴なんだけどな」
「それは、本人も自覚してたっぽいけどな……」
私、クソすぎて長生きできない気がしてるんだよね~、でもこれが止められない性っていうか。などとアッコさんは笑いながらこぼしていた。
その日以降、俺はあんまり女子に対して気後れしなくなった、気がする。そしてそれが単なる肥大した自己評価ってだけでなく、正式な評価として現われたのが、ちょうど七月の頭。梅雨明けの一歩手前の時期だった。
俺は隣の席の岡田さんにこっそり呼び出される、という華々しい成果に遭遇することになったのだ。
「あの、ね。私、宮本くんのこといいなって、思ってて」
緊張のあまり、声と肩をプルプルと震わせながらも、何とか頑張って話している岡田さんは、とても可愛らしかった。
「好き、なんだ。宮本くんに今好きな人とか彼女がいないなら、お試しでもいいから、私と付き合って、くれる……?」
潤んだ目、上目遣いでおずおず尋ねられたりして、つやつやした唇も小さく震えていて、見ているだけでクラクラした。
「うん。いい、よ」
一も二もなく喜んで頷いて、そうして、俺には彼女ができた。これが童貞を捨てたおかげだというのなら、片山には大いに感謝しなければいけない。
なので、片山にもすぐに報告した。
「そう、か。よかったな。念願の彼女」
「まぁな」
それはちょうど俺の腰の左側あたりに片山の鼻が生えていたための対消滅作業の途中だったのだが、ツンと鼻同士を近づけて合わせながらも、普通に片山は祝ってくれた。
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