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言葉にすること。伝えること。表現すること。

文章は”書く人の潜在意識の状態が現れる”と誰かに聞いたことがある。
自己肯定感のある人は、短く分かりやすい文章に。自信のなさや不安、混乱を気持ちの奥に閉じ込めている人は、長くまとまりのない文章になるのだそう。
もしそれが本当ならば、文章を書く練習をする過程で、過去のトラウマを浄化することができるのかもしれない。
これは、わたしのためのカタルシス。あの時、誰にも言わずに自分の中だけに閉じ込めていたことを生まれて初めて外に吐き出す作業。わたしはわたしのために、わたしだけの記憶を書くことにしました。なかったことにしていた機能不全家族出身の自分のこと。

- それは人間の仕組み。-
ウンチやおしっこ、汗やくしゃみや咳のように「出す=デトックスする」ことで保たれている動物の生命バランスを無理に抑え込んでしまえば病気になってしまうように、感情や涙、言葉も、抑え込んでしまうと人は病む。
思春期に喧嘩や殴り合いができるヤンキーは、吐き出せているぶんまだ良い。言い合えない、喧嘩できない、感情を吐き出せないのが一番まずい。
感情を出さずに閉じ込めてなかったことしてしまうと、それは後々何かの形で不具合が生じ、必ず自ら代償を支払うことになる。それは対人関係だったり、仕事、慢性的な疾患、パートナーや親子との関係。理由のわからない生きにくさを生む。
感情を吐き出さないのは、その時は自分やその場を守っているようで、実は自身を傷つけている。
ただ口に出すことで、自分自身への尊厳を守るためにことができる。思ったことを口に出すだけで、結果的に自分を大事にすることに繋がる。
それは自分に嘘をつかないということ。

あの時、なかったことにしていたことは何?
なかったことにしていたのは、
毒親の存在。
自分が機能不全家族出身という事実。
あの時吐き出せなかったわたしの感情。
怒りと悲しみの中にいた、わたし自身の存在。


- 記憶を辿る旅。-
どのくらい傷ついていたかなんてもうすっかり忘れてしまって、なかなか思い出すことができないか、もしくは記憶から完全に消し去ってしまったかもしれない。
対等に感情を言い合えなかった環境で、自分の感情を封印して育つと、自分の本当の感情に気づくことそれ自体が容易ではなくなってしまう。
もう記憶に残らないほどのことでも、その時植え付けた(植えつけられた)意識は潜在意識にしっかりと刻み込まれている。あの時のことを、なかったことになんてできない。
確実に起こっていた記憶を、丁寧にひとつづつ掘り起こして思い出していく。子ども時代に意識に埋め込んだ、世界の見方や思考を探り出す。他人や社会の出来事と比べてしまって、こんなこと大したことじゃない。と思ってスルーしていることが本人にとてつもなく大きなトラウマの原因だということもある。

-「出すこと」でしか解決しない。-
「出すべきだった感情」は、何かの形で「出す=デトックスする」必要がある。相手に面と向かって言葉で伝えられるのが一番いいけれど、歌でも踊りでも絵でも詩でも瞑想でもスポーツでも、何かをクリエイトすることでも、何かの形で変換されても、どんな形でも、とにかく自分の内側から出してしまえば、それなりの「バランス」は保たれるのだと思う。

- 記憶の文章化自己治癒法。-
それぞれにあった「出す」方法があるはずだけど、文章は人の深層心理を表し、書き続けることで混乱していた感情や思考が整理される上に、トラウマの浄化効果があるように思う。何よりも「書いて出してみた」わたし自身がその効果をとても感じているから。(これについては追って詳しく書きたいなと思います)
書いたものを客観的に視覚化できことや、いつでも何度でも修正することができることもいいところで、誰にでもすぐにできる方法なのだと思う。
あの時の出来事・感情を文章化(言語化)することで、自分の中で混乱していた感情が整理され、なかったことにしていた自分の感情をしっかりと認識することができる。自分が植え込んだ「意識」に自覚が持てるようになると、本当の意味で自分を大切にすることができる。自分の植え込んだ間違った意識に気づくことができると、現実の選択(行動)に変化をもたらしていくことになる。

それから、自分の感情に向き合う作業は、自分にしかしかできない作業だけれど、決して自分一人でやる必要もない。もしかしたらプロの力を借りる必要のある人もいるかもしれない。(このことについても、もう少し専門的に考えてきたいな)

- 機能不全家族出身体験シェア。-
「自分の整理のために書く」だけでも、大きな効果と意味があるけれど、「機能不全家族や毒親育ちのリアルな経験を広くシャアすること」の、ものすごく大きな意味があると考えています。
実体験をオープンにすることで、今この瞬間にそういった環境に身を置いている人の大きな支えにもなるばかりか、広く社会に認知と理解されるようになることで、社会という共同体として、この先の道をより良い方向へ選択することができるようになると強く信じているから。

子どもの頃に人権や尊厳、心身の健全性を軽んじられて成長してきた不健全な大人たちが今この社会を作ってきた。

わかりやすい虐待や、経済的な問題、両親の人間性の欠落などの機能不全家族出身者とは一見違うからこそ、なかなか気づくことができなかったわたしのような一見恵まれた環境に育った家庭に育ったアダルトチルドレンは想像以上に多いのだと思う。
健全とは言えない家庭環境で育ったにもかかわらず、その事実を世の中の平和ルールに押し込めてなかったことにしてしまったことで、「いたって普通に育ってきた」もしくは「幸せな家庭に生まれ育った」と思い込む。思い込んでいるから、大人になって社会で生きることに何かしらの支障が出てきてどうしようもなくなった時に、その原因が「家庭環境」だったと気づけるはずもない。それはもうずっと出口のない迷路で迷い続けるか、もしくは迷走していることさえ気づかない状態。
現実に影響を及ぼしている原因のほとんどが、幼少期や思春期のトラウマだということに「気づいて死ねたらラッキー」なんていうのは、一刻も早くなくなればいいなと思う。だけど、この先世界が二分化されると言われていることの大き分かれ目はここにあると思う。
人類が、脈々と連鎖する古いルールを脱ぎ捨てて、トラウマ経験から学んでいくことに終止符を打ち、すべての人間が自分らしく、自由に活き活きと生きるためのそんな当たり前の社会。

自分の感情がわからないと、他人の気持ちもわからない。
自分の感情を大切にしないと、他人の感情も大切にできない。
もしかしたら自分の本当の感情を言語化できないと、他人と理解、共感しあい、深い繋がりを築くこともできないのかもしれない。
言葉にすること、伝えること、表現することは、その行為自体が人類の成長に繋がっているのかもしれない。
誰かの気持ちもわかってあげるような人間で、わたしはありたい。

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