1984.

なかったことにしていたけれど、そういえばわたし機能不全家族出身者。 カタルシスの手段と…

1984.

なかったことにしていたけれど、そういえばわたし機能不全家族出身者。 カタルシスの手段として記憶の文章化しています。 世の中のありとあらゆる差別や争いの原因は、世の中の「こうあるべき。」という呪いと、幼少期に植え付けられた間違った価値観だと思っています。#MeToo機能不全家族出身

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  • なかったことにしていたけど、わたし機能不全家族出身者です。

    I was born in 1984. 東京の郊外に生まれ育ちました。 いろんな形の機能不全家族があるけれど、わかりやすい暴力や虐待は一切ない”わかりにくい機能不全家族出身者”だったため、大人になるまでその事実と抱えたトラウマに気づくことができなかったタイプ。 35年の歳月をかけて「あらゆる差別も争いも暴力も犯罪も虐待も根源は同じ」ということに毒親を通じて学ぶことができました。 これは、わたしのためのカタルシス。母へのラブレター。自己肯定感を得られなかったすべてのサバイバーへの救済。現代社会への選択肢。

最近の記事

#MeToo機能不全家族出身宣言

あなたが抱えている苦しみは、どこかの誰かも持っているかもしれない あなたが経験したことは、多くの人が押し黙ってきたことかもしれない。 わたしが経験したことと同じような経験をしている人が、今もどこかにいる。 ここで起きたことと同じようなことが、どこかでも起こっている。 機能不全家族や毒親育ちの経験を声にすることで、教育や社会システムが良い方向へ舵を取ることのスピードをあげるかもしれない。 これ以上、自分と同じような思いを罪のない子どもたちに経験させる必要がなくなるかもしれない

    • 言葉にすること。伝えること。表現すること。

      文章は”書く人の潜在意識の状態が現れる”と誰かに聞いたことがある。 自己肯定感のある人は、短く分かりやすい文章に。自信のなさや不安、混乱を気持ちの奥に閉じ込めている人は、長くまとまりのない文章になるのだそう。 もしそれが本当ならば、文章を書く練習をする過程で、過去のトラウマを浄化することができるのかもしれない。 これは、わたしのためのカタルシス。あの時、誰にも言わずに自分の中だけに閉じ込めていたことを生まれて初めて外に吐き出す作業。わたしはわたしのために、わたしだけの記憶を書

      • あなたと社会の平和ルール。

        「女の子なんだからそんな格好をするべきじゃない」 「女の子なんだから料理くらいできないと」 「女の子なんだからおしとやかに」 「女の子は聞き上手であるべき」 「早くいい人見つけて結婚しなよ」 「女は子どもを産むべき」 「子育ては女の仕事」 「母親は家庭的で家事も育児も完璧にできる」 「男の子なんだから泣くな」 「男の子なんだから強くあれ」 「男の子らしい色を選べ」 「男らしくあれ」 「男の子だからできるようになれ」 「男は稼いでなんぼ」 「父親は家の大黒柱だ」 「子どもを

        • 花束とキースと社会の平和ルールと。

          一番欲しかったものは最初からすぐそばにあったはずなのに、それは忙しさに紛れてどこへいってしまったかもう誰にも分からなかった。 買い物依存は自己嫌悪忘却装置。 たくさんの鞄も靴も洋服はもうほとんど処分してしまったけれど、その全部がもらえなかった愛情の代用品。 ぽっかり空いた自己承認欲求を満たす一時的ツール。満たされることなく中毒性を持ち刹那的。 わたしが一生大事にするものは、お母さんからのおさがりのワンピース。 母はあまりモノを欲しがらない人だった。 実家を出てしばらくし

        #MeToo機能不全家族出身宣言

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          お父さん、お母さんを乱暴に扱わないで。

          テレビで見たり聞いたりするような「虐待」や「家庭内暴力」なんていうものはうちにはなかった。 「なに言ってんだよ!違うの!そうゆうもんなの!」 車の運転席と助手席で、彼らがどんな会話をしていたかわからない。でもそれは、意見が合わないといつも乱暴に母の言葉を押さえ込む父の言葉だった。「何よ」が、いつもの母の最後の反撃になり、言いたいことのほとんど全部を言えずに、それはすぐに終わるのだ。父が母を小馬鹿にする態度は、子どもながらに母はあまり頭が良くないのかもしれないと思わせた。

          お父さん、お母さんを乱暴に扱わないで。

          事前感情封印暗示。

          1984年5月5日、朝の一番忙しい時間帯にわたしは生まれた。 母にとって第二子となるわたしのお産はとてもスムーズだったそうだ。 「鼻筋の通ったかわいい女の子ですよ」そんな風に助産師さんは母に伝えたかもしれない。「赤ちゃんの時は鼻筋が通っていた」となんだか残念そうに言った母の言葉を覚えている。 母は看護師で、自宅にほど近い市立病院で働いており、その目と鼻の先に兄も弟も通った保育園があった。仕事が忙しくたまにナース服のまま保育園にお迎えに来てくれる母が誇らしくてたまらなかった

          事前感情封印暗示。

          黄金に輝くフレームの中の上野

          母が美術館が好きなのを知っている。 でも、どんな展示が好きなのかは知らない。 弟が生まれる前に、母はよく中央線に乗って兄とわたしを上野の美術館へ連れていってくれた。見ず知らずの同世代の子たちと列を成して、今にも動き出しそうな動物たちと視線を合わせて心を躍らせた。この頃わたしは一体、母とどんな会話をしていたのだろうか? その日は父もいた。父と母と兄とわたしの4人で、冬のたぶん土曜日。 上野の公園口改札を出ると、さらにたくさんの人で溢れていた。はぐれないように人の波にぶつから

          黄金に輝くフレームの中の上野

          森の中のお母さんとわたし。

          私の住む地域はよくある住宅街で、最寄りの駅が近くなるごとに公団住宅の数が増えていく。 エリアごとに作りが異なる公団住宅はバリエーション豊かで、見事に緑と共存していた。ここは昔は本当に森だったのだろうと容易に想像できるほど、立派な木がたくさん生い茂っていて、それは子供にとっては鬱蒼とした雰囲気が少し怖くもあった。それでもあの小さくミニマムな間取りと、近所にたくさんの同年代の友達が住む構造が、わたしににとっては大変魅力的で憧れだった。 その鬱蒼とした森の中に、まるで森のくまさん

          森の中のお母さんとわたし。

          母とわたし。

          「幼稚園行ってみる?」 弟が生まれて、わたしは馴染みの保育園をやめて幼稚園へ通うことになった。 弟の出産休暇を利用して、わたしとの時間も作ってくれた母の計らいだったと思う。 記憶の中では人生最初の大きな環境の変化を想像もできないまま、わたしはなんの迷いもなく母の提案を承諾した。 通うことになった幼稚園では、上品な制服を着て、お弁当を持参して、学校の真似事をした。友達はすぐにできたけれど、保育園とは明らかに違ったなんだか気取ったノリに、結局最後まであまり馴染めなかったと思う

          母とわたし。

          赤い自転車のボックス席に乗り込んで。

          始発電車に間に合うように家を出る父に代わって、保育園と幼稚園の送り迎えはもっぱら母の役割だった。赤い自転車の荷台に取り付けられている子ども用のボックス席は、今見るような滑らかなプラスチックの椅子が付いているのではなくて、網のカゴから足が出せるような旧型のもので、座布団を毎回カゴに敷かないと到底痛くて座れなかった。(ちなみに座布団を敷くと乗り心地は最高に良かった) 弟が生まれて、わたしが幼稚園に通いだした頃、家を出るまでの朝の一番忙しい時間に、母の見ていないところで弟を泣かせ

          赤い自転車のボックス席に乗り込んで。

          父と母。

          わたしに初めて料理の作り方を教えてくれたのは、親友のお母さんだった。 その親友の家によく泊まって、同じ高校へ通う親友が登校してている間、なぜかわたしだけが彼女の家で熟睡し続け、彼女が帰宅するのを彼女のお母さんと一緒に待ったりしていた。 その彼女のお母さんはいよいよわたしが一人暮らしをする時、いつまでも寝続けられるわたしのために、爆音のする薄桃色(わたしには少しラブリーすぎる)の目覚ましどけをプレゼントしてくれた。涙が出るほど嬉しかったけど、涙は必死に我慢した。あの頃は、まる

          連鎖。

          怒られる時は、げんこつも一緒に飛んできた。 きっとわたしが何か悪いことをしたからだろうからだけど、内容なんて覚えているはずがない。 殴られた、怒られていたという記憶だけが強烈に残る。 兄にも本当によく殴られた。頭を剃って、凹んでいるところがあれば兄の仕業に間違いないと思う。 わたしは飼っていた犬をたまに叩いた。 父が彼女を叩いてしつけていたから。 彼女は元気で優しくとても賢かったけど、今思えばわたしたち家族にいつも怯えていたのかもしれない。雷が本当に苦手な子だった。それは怒り

          父の記憶。

          まだ弟が生まれる前、 父は早ければ、私たち兄弟が夕食もお風呂も終え応接間でテレビを見ている時間に帰宅した。インターホンの合図で玄関の鍵とチェーンを開けるのがわたしの日課だった。 「たらいま!」の声は明るかった。父のスーツとコートが、知らない世界の独特な匂いでなんだか近寄りがたかった。 父はよくいろいろな場所へ遊びに連れて行ってくれたり、たくさんのことを経験させてくれたはずなのに、楽しい思い出が一つもないのはなぜだろう?いつも怒っていて、怖かった印象が強い。 夏に兄とその友

          父の記憶。

          現代家族エラーシグナル・バランス装置。

          この家にコミュニケーションがないのは、わたしだけのせいじゃない。 母からのわたしに対しての扱いを、父も、兄も、弟も、知らないはずはなかった。 知らないわけなかったのに、どうすることもできなかったのか、どうしようとも思わなかったのか、どう思っていたかも実際のところよくわからない。 いや、よくわかっていないのは、わたしだけかもしれない。みんな母には気を使っていた。彼らから見ても、わたしは不良だったのだろうか? 理由がよくわからないまま、問題の対象になっている。 父と母はきっとよ

          現代家族エラーシグナル・バランス装置。

          後少しの辛抱。

          母からの言葉の暴力は日常的だったけれど、父は母伝いに聞いたことを、事務的にたまに口出す程度だった。その暴力的な母が叫びながら父を止めに入った時があった。 秘密で外泊して朝帰りが見つかった朝、父はわたしに馬乗りになってわたしをボコボコに殴った。しばらく外出禁止と言われたけれど、到底外を出歩けるほどの普通の顔ではなかった。 その時の映像は今でも色鮮やかに情景の詳細を映し出すけれど、なぜか痛みの記憶だけが綺麗さっぱりなくて思い出せない。 床に倒れるまでの間に視界に映った家具た

          後少しの辛抱。

          なかったことなんかにできない。なかったことにしていたこと。

          燃えるようなオレンジ色の夕日が曇りガラスに刺さった後に優しく部屋に広がっている。 あの子はベットの上で声を殺しながら泣いている。 このまま首を絞め続けたら死ねるだろうか。 死んでしまったら、この苦しみは綺麗さっぱり無くなるのだろうか?彼らは、悲しむだろうか?それが最大かつ効果的であることは間違いなかった。 「キレる若者」が社会現象になったあの頃、 わたしはテレビで話題にされているあの子達と自分を比べてまるで別世界の怖い出来事だとは到底思えなかった。 どうして大人は、子ど

          なかったことなんかにできない。なかったことにしていたこと。