【寄稿】三上謙一|アタッチメント=「愛着障害」?――「愛着障害」概念をめぐる混乱についての一考察
アタッチメント=「愛着障害」?――「愛着障害」概念をめぐる混乱についての一考察
「愛着障害」概念の流行
最近、日本では発達障害に続いて「愛着障害」という概念が専門家のみならず一般の人たちの間にも流行していますが、その概念的理解は混乱していることが指摘されています(平島・2017;村上・2021)。
一般に「愛着障害」 という言葉が知られるようになったきっかけは、精神科医である岡田尊司氏の著書『愛着障害――子ども時代を引きずる人々』(光文社、2011)によるものでしょう。本来、この用語は、岡田氏が引用している精神医学的診断基準である DSM-Ⅳでは「反応性愛着障害」(DSM-5 では反応性アタッチメント障害と脱抑制型 対 人交流障害)と呼ばれ、「特殊で悲惨な環境で育った子どもの問題」(p.4)として極めて狭く定義されていました。
しかし、岡田は「愛着」の問題は子どもだけでなく大人にも見られ、さらに発達障害を含む様々な心理的問題の背後に実は「愛着」の問題があるのだと指摘し、その定義を拡大しました。
と岡田は述べていますが、実際「自分にも当てはまる」と感じた人が多かったからこそ、一般に広まったのだと思われます。
さらに様々な専門誌でも特集が組まれ、そこでは厳密に用語が定義されないまま「愛着障害」をめぐって、精神科医、臨床心理士、発達心理学者などがそれぞれの見解を述べています。つまり「愛着障害」は一般の人たちのみならず、専門家にとっても興味を惹きつけられるテーマであると考えられます。
私も一応アタッチメントの専門家を名乗っているので、「愛着障害」について講演してほしいとか、関連文献を紹介してほしいと頼まれることがあります。しかし、そのたびに、困惑というかやや複雑な思いをしてきました。
私の立場を先に表明しておくと、私自身は回避型やアンビヴァレント型などの不安定型アタッチメントを「愛着障害」と呼ぶのは望ましくないと思っています。ただ、同時に「愛着障害」概念の曖昧さをただ批判するだけでは不十分であり、一般の人のみならず専門家の間でもこれほどまでに「愛着障害」概念が流行している理由についても考える必要があるのではないとも思っています。
以下にこれらを2点について、私の考えを述べたいと思います。
不安定型アタッチメントは「障害」なのか
まず不安定型アタッチメントを「愛着障害」と呼んでしまうことの何が問題なのでしょうか?
この大前提として「安定型至上主義」があると思っています。つまり、これまでのアタッチメント研究において「安定型」という分類が最も適応的で、好ましい分類であると考えられてきました (Crittenden・2000)。実際、様々な研究によって、安定型アタッチメントがのちの肯定的な発達と相関していることが示されています。
逆に、このような考え方から、「不安定型アタッチメントは問題である」とみなされがちです。実際、岡田(2011)も「成人でも、三分の一ぐらいの人が不安定型の愛着スタイルをもち、対人関係において困難を感じやすかったり、不安やうつなどの精神的な問題を抱えやすくなる」と指摘した上で、「こうした不安定型愛着に伴って支障を来している状態を、狭い意味での愛着障害(中略)と区別して、本書では単に「愛着障害」と記すことにしたい」(p.48)と述べています。
つまり、岡田は不安定型アタッチメントを広い意味で「愛着スペクトラム障害」として捉える立場に立っているようです。
しかし、不安定型アタッチメントをひとくくりに「障害」と捉えるのは正しいのでしょうか? まず不安定型アタッチメントと、岡田氏の言う狭い意味での愛着障害であるDSM の「反応性アタッチメント障害」との違いについて、これまで論じられてきたことを整理してみたいと思います。
両者の相違はいくつかあります。
1つ目は、不安定型アタッチメントは発達心理学におけるアタッチメント研究に由来してアタッチメント対象を持っているのに対して、反応性アタッチメント障害は精神医学研究に由来して、アタッチメント対象を持っていません(青木・佐藤・2015)。
2つ目は、前者は発達のリスク要因であるのに対して、後者は1つの精神医学的障害です。
3つ目は、前者は生涯発達的な研究が蓄積されていますが、後者の長期的予後についてのデータは不足しています。
そして、4つ目は、前者は関係・文脈に特異的ですが、後者は関係・文脈を超えた個人の障害です。サハール(2014)は、アタッチメント方略とはアタッチメント障害のような「個人内的状態や個人的特性ではなく、どのようにして 安全や関係性を確保し、アイデンティティの感覚を保ち続けるのかを、多くの場合非言語的かつ非意識的に関係の中で交渉すること」(p.175)と両者の違いを強調しています。
このように、不安定型アタッチメントと「狭い意味での愛着障害」である反応性アタッチメント障害とは一見明確に区別できるようです。
このような両者の関係を整理する視点として、ボリスとジーナー(1999)は両者を「スペクトラム」として位置づけることを提案しています。つまり、安定型→回避型・ アンビヴァレント(抵抗)型→無秩序型→アタッチメント障害(ジーナーら独自の概念である「安心の基地の歪み」)→アタッチメント障害(DSMにおける反応性アタッチメント障害と脱抑制性対人交流障害)というように、安定型から不安定型へ、そしてアタッチメント障害までを連続したものとして捉えようとする視点です。
このような視点は、両者の関係を理解する上で比較的わかりやすく、岡田(2011)の「愛着障害」もスペクトラムとして捉える点では、ボリスとジーナーと共通しているといえるでしょう。
要するに、現在の日本で用いられている「愛着障害」の問題の1つは、スペクトラムであるがゆえに、その概念的輪郭が明確に定義されないまま専門家も非専門家も自由に使用している点にあるといえます。
しかし、このように「リスクとしての不安定型アタッチメントがやがて『障害」になる」という見方だと、不安定型アタッチメントに備わった適応上の価値が見過ごされてしまいます。これまでのアタッチメント研究では、文化によって方略の分類に偏りが見られることや、リスクに晒された子どもには安定型が減少することも示されています。
もちろん「安心」できる親子関係や環境が得られたるのは望ましいことでしょう。しかし、もし安定型のみに進化上の利点があるのならば、どのような文脈においても安定型方略が常に優勢に使用されるように生得的に固定されているはずです。
このように考えると、安定型にのみ適応上の価値があるのではなく、不安定型にも何らかの価値があるはずだとクリテンデン(2000)は指摘します。
さらに「“文脈の変動を考慮しながら、安全を最大化する方略”が適応的なアタッチメントを定義する特徴であるべき」(p.389、強調は原文)と提案しています。言い換えると、個人の使用するアタッチメント方略がその文脈でどのような「機能」を果たしているのかこそが大切なのです。
実際、安全な社会では確かに安定型(Bタイプ方略といいます)が最も適応的ですが、民主主義的ではない危険な社会ではオープンで素直なコミュニケーションをするBタイプ方略は機能せずに不適応になる可能性もあります(独裁者をオープンに批判したら、たちまち捕まってしまうでしょう)。そして、そのような社会では回避型(Aタイプ方略といいます)やアンビヴァレント型(Cタイプ方略といいます)の方が自己を守ってくれるかもしれないのです。
このように考えれば、方略の分布の文化差については説明できますし、さらに視点を広げれば、虐待を含む様々な危機が生じている家庭環境で、子どもが自らの安全を最大化するために示す行動の「機能」を子どもの置かれた文脈から理解することもできるでしょう。
つまり、不安定型にも文脈に適応する上での何らかの「強み」があるはずであり、不安定型アタッチメントを「愛着障害」と名付けるのは、負の側面を強調しすぎてしまう危険性があると思われるのです。
DMMによる分類と方略の理解
私が訓練を受けてきたクリテンデンによる「アタッチメントと適応の動的-成熟モデル(DMM)」では、これまで日本で普及してきたアタッチメントをA(回避型)、B(安定型)、C(アンビヴァレント型)、D(無秩序・無方向型)の4分類に分ける、いわゆるABC+Dモデルよりも、さらに細かい分類を提唱しています。
具体的にはDタイプを使用しない代わりに、AタイプをA1からA8、CタイプをC1からC8とスペクトラム状に細かく分けた上で、例えばA3/C5などと両者を組み合わせて分類することもできるように想定されています。そして方略の数字が低数字から高数字になるほど情報がより極端に変換されるように配置されています。そのためDMMを用いた実証研究によると臨床群はA3ー8やC3ー8などの高数字方略を用いているのが通常であり、臨床群がBタイプやA1ー2やC1ー2などの低数字方略を用いることはほとんどありません。
スペクトラムになっているという点でDMMとボリスとジーナー(1999)の発想は似ていると感じるかもしれません。それでも、ボリスとジーナーとの決定的な違いは、安全な社会では不適応につながりやすい高数字方略そのものを DMM は「障害」と判断しないということです。なぜなら、たとえ高数字方略であっても、多くの危機に晒され、なおかつ保護されることも慰められることもなかったその個人の人生においては何らかの機能を果たしていたと考えられるからです。
つまり、過去の文脈においてその方略はその個人にとって役立つもの(適応的)であったということです。しかし、現在より危険の少ない環境という新たな文脈でその方略を使い続けると、「危険人物」とみなされ、結果的に不適応になる可能性が出てきます(犯罪や紛争の少ない安全な先進国でA7(妄想的理想化)やC7(脅迫的)という方略を用いる人は精神科病院や刑務所に入りがちになるでしょう)。
要するに「障害」と「方略」は分類の仕方が異なるということです。DSMやICDのような精神医学的障害は「症状」に基づく分類であるのに対して、DMMは対人関係上の「機能」に基づく分類であり、両者はある現象を全く異なる基準から分類する方法なのです。
そのように考えると、障害と方略を同じスペクトラムに並べるボリスとジーナーの図式には無理があるといえるでしょう。
DMM の発想では、方略の価値は「それがAかBかCなのか」だけで判断するのではなく、その方略がどのような文脈でどのような機能を果たしているのかという視点から理解される必要があります。
例えばこの発想は、方略を個人が用いる「道具」として捉えてみるとわかりやすいかもしれません(Chimera・2010)。方略を障害と呼ぶのは「道具そのものに問題がある」とみなすことになります。しかし、実際に問題になるのは、(例えば、包丁のように)道具の使い方を誤った時にこそ起こるといえます。
したがって、DMM は不適応を「ある文脈で適応的であったために形成された方略を、それが適応的ではない文脈へと適用しており、それをあまり変えられずにいること」(Crittenden・2016、p.11) と考え、道具であるアタッチメント方略を「障害」と呼ぶことはないのです。
これで「愛着障害」という概念が抱える問題を明らかにできたのではないかと思います。 しかし、これだけでは一般の人のみならず専門家までもが「愛着障害」という概念を使って惹きつけられているのか、説明できないでしょう。
「愛着障害」という曖昧な概念がなぜ専門家の間でも流行しているのかを考えてみたいと思います。
なぜ、「愛着障害」という用語が流行したのか?
アタッチメントの正しい理解が専門家にも広まっていないからでしょうか?
確かにもちろん、それもあるかもしれません。しかし、私は、より本質的な理由が存在していると思っています。
それは、現在使用されているDSMやICDなどの記述精神医学の診断体系に限界を感じている専門家が増えているから、ではないでしょうか。
記述精神医学は、ドイツの精神医学に由来する症状の客観的記述を重視する精神医学の流れを指しています。これに対して、フロイトの精神分析理論の影響を受けて、症状を生み出す原因となる無意識の葛藤や人格構造の理解を重視する精神医学を力動精神医学と呼びます。アメリカの精神医学はDSM-Ⅱまでは力動精神医学に基づいていましたが、DSM-Ⅲ以降、精神分析理論に影響を受けた原因の推測を排除し、ドイツの記述精神医学のように客観的な症状記述に徹するようになります。
この大きな転換は診断の信頼性を高めた一方で、症状を生み出し、クライエントの対人関係パターンを規定する人格構造や、それを生み出した家族関係の理解を失う結果になりました。ボウルビィ(1951)は「家庭環境を精神障害の原因であるとする考えは(体質や遺伝的要因を重視する)ドイツ流精神医学とは対立する」とかつて述べましたが、記述精神医学と力動精神医学の考え方はそれだけ大きく違うのです。
私は現在の「愛着障害」概念が専門家の間で流行している背景には、この失われた部分を回復したいというニーズがあるのではないかと考えています。 そしてこれこそが、「愛着障害」問題の本質だと思っています。
実際、岡田氏は著書『愛着障害の克服——「愛着アプローチ」で、人は変われる』(光文社、2016)において、症状ではなく、背景にある「愛着の問題」を見ることの重要性を指摘し、「医学モデル」から「愛着モデル」への転換を唱えています。
また教育現場の支援においても「愛着障害」という概念を積極的に使用している米澤好史氏による『発達障害・愛着障害 現場で正しくこどもを理解し、こどもに合った支援をする 「愛情の器」モデルに基づく愛着修復プログラム』(2015)では、子どもの暴力行為や攻撃行動への支援に際して、DSM-5の「重度気分調整不全障害」や「素行障害」「反抗挑戦性障害」などの診断名からは「その原因や支援の方向性は一向に見えてこない」(p.35)と述べています。彼は発達障害と愛着障害を区別する必要性を強調していますが、大人の治療や支援に関わる臨床家もやはり中々改善しない症状の背後にある「発達上の問題」をDSMの発達障害という概念だけでは説明しきれないと感じ始めているのではないでしょうか。そこでアタッチメントという概念が臨床家に注目されて、「愛着障害」という仮の診断名が流行するようになったのではないかと私は考えています。
しかし、いくらアタッチメント理論を参照していても「症状」に基づいて分類している限り、従来の精神医学の枠組みの中に留まり続けていることも確かです。
実際、現在の治療法は、うつ病やPTSDなど特定の診断名ごとに特定の治療法や心理療法を開発していく流れになっています。これに対してDMMは、診断に基づくよりも、個人のアタッチメント方略の「機能」に基づいて支援していく、という新たなアプローチを提案しているのです (Crittenden・2016)。
私もアタッチメントを「障害」と名付けてしまうよりも、対人関係の「機能」という視点から活用する方が役に立つと思っています。なぜなら、「症状」に着目するだけではわからない、クライエントの対人関係パターンが家族関係の中でどのように生み出され、支援者との間でもどのように繰り返され、さらにそれがどのように現在の問題に関連しているのか理解することを助けてくれるからです。
実際、同じ診断名であっても背後にある方略は様々であることが DMMの実証研究で示されています(例えば、「Ringer & Crittenden・2007」による摂食障害に関する研究)。これは同一の診断名であっても、アタッチメント方略に応じて異なる介入が必要になることを示唆しています。
もちろん、DMM が精神医学的診断を軽視しているわけではありません。実際、アタッチメント方略から症状は予測できないので、実践では診断を含むアタッチメント以外の情報も収集した上で介入計画を立てることが不可欠です (Crittenden・2016)。どちらか一方、ということではなく、症状に基づく診断分類と機能に基づくDMM 分類は「相補的な関係」と捉えるべきでしょう。
もう少しこの関係をはっきりさせましょう。
両者はちょうどゲシュタルト心理学における「ルビンの杯」のように「図」と「地」の関係にあります。
現在の精神医学は図としての「症状」に焦点を当てているため、アタッチメントという文脈は「地」として背景に退き、見えにくいです(そのためにやむを得ず「愛着障害」という用語が必要とされているのでしょう)。
しかし、クライエントを総合的に理解するには——クライエントの症状や問題行動がアタッチメント関係の中でどのような機能を果たしていたのかを知るには、「地」のアタッチメントに焦点を当てて、それが前景化される必要があります。
このようにアタッチメントを「障害」と呼ぶのではなく、症状や問題行動の「文脈」として区別することによって、理論的な曖昧さを回避できるだけではありません。
背景にある「文脈としてのアタッチメント」に焦点を当てれば、クライエントがその文脈に適応しようとしてきた必死の努力が現在の症状や問題行動を生み出しているという、より共感的な視点を持てるという実践的な利点もあるのです。
以上が、私が今まで考えてきた「アタッチメントと愛着障害の用語整理」になります。
この短い考察が現在の「愛着障害」概念をめぐる混乱の整理に少しでも役立つことを願っています。