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朝日遺跡ミュージアムー魚をとろうー(*2023/9/18まで)



1.はじめに

 おはようございます。こんにちは。こんばんは。IWAOです。今回は、弥生時代の愛知県の遺跡である朝日遺跡ミュージアムへと行ってきました。ここでは、特別展として、どのような漁撈活動が行われていたのかについて展示されていました。弥生時代から始まった稲作を生かしつつ朝日遺跡の立地を上手く生かした漁撈を行っていたと感じました。
 また、今回は、「歴史」と「自然」の2側面からこの特別展示を見ることができます。歴史が好きな人と生物が好きな人の双方が十分に楽しめる展示です。多くの人に来館してほしいです。

2.構成

 この朝日遺跡ミュージアムでは、漁の際に使用されていた道具、貝塚から実際に出土した魚の骨、関連した遺物の3種類で展示が構成されていました。また、この特別展示自体も「漁撈具」、「魚骨」、「大型魚類」をテーマにした展示構成となっていました。

3.朝日遺跡とは

 まず、ここで朝日遺跡とはどのような遺跡かについて紹介します。朝日遺跡は、主に弥生時代に東海地方最大の弥生集落で、東西文化の交流の拠点として栄えた遺跡になります。東西の文化や物がこの朝日遺跡に集結します。その範囲の広さに驚かされます。また、弥生時代全般に立地した遺跡でもあるため、弥生時代全般を通して、朝日遺跡がどのように変遷したのかもわかります。その上、弥生時代の遺跡では、貝塚が作られ、どのような生活をしたのかも分かるようになっています。つまり、大発見のオンパレードです。

朝日遺跡から出土した土器になります。
手前から弥生時代の初めから終わりごろまでの時代ごとに展示されてます。

 今回の特徴展示の前に朝日遺跡ミュージアムに一度、来館したことがあります。「生業」以外の部分についてもすごい発見ばかりです。いつか、この常設展示でどのようなものが展示されていたのか、何がすごいのかについても紹介していきます。楽しみにしてください。
*また、朝日遺跡とはどのような遺跡について詳細で簡単に知りたい人は、下にリンク先を載せるので、その著作を読むことをお勧めします。

4.魚をとろう

 ここでは、魚をとるために使われていた漁撈具が展示されていました。大きさ、種類が多様で、ものによっては、今は使われていないものもあり、どのような漁労をしていたのか想像するのが、非常に面白かったです。
 まず、最初に紹介された漁撈具は、刺突具で、「銛」と「ヤス」が展示されていました。両者を見比べてみると、大きさに違いがあります。狙う獲物に合わせて使い分けをしていたのではないかと考えられます。

こちらが銛です。太く返しがついているのが特徴です。
こちらがヤスです。返しはないですが、スリムです。

 次は、釣針になります。ここにある釣針は、2つ点で見るべきポイントがあります。
 一つ目は、「釣針は2つ型式がある」ということになります。釣針は、「単式」と「結合式」の2つがあり、見てほしいのは、「結合式」の方になります。

これが、結合式釣針になります。

 下の図と合わせて解説すると、「単式」の釣針は、私たちがイメージする釣針になります。一方の「結合式」の釣針は、「軸」の部分と魚をひっかける「針の部分」が分離したものになります。

筆者作成
赤枠部分が分離しているのかどうかが違いになります。

 では、どうして、分離したものを使うようになったのでしょうか?それは、「獲物」と「壊れやすさ」が関係していると思われます。結合式釣針の方が大きいため、単式の釣針と比べても大型の魚を狙う傾向にあったと考えれます。また、弥生時代から鉄が使われるようになってますが、当時は、非常に貴重品でもありました。よって、鉄が一般的に使えるようになるまで、動物の骨を利用して釣針を作っていました。動物の骨は、丈夫かもしれませんが、鉄ほどの強度やしなやかさは持っていないでしょう。よって、壊れやすく、針と軸を結ぶ部分から折れやすかったために、あえて針と軸の部分を分離した釣針を開発したのではないかと考えられます。その上、針の部分だけ、または軸部だけでも大量生産は可能なので、重宝されたのではないかと考察しています。

左が結合式釣針、右が単式釣針です。
結合式釣針の方が大きいことが分かります。

 2つ目は、鉄製の釣針になります。鉄製の釣針は、弥生時代の中期頃に出土するようになりますが、出土数は、非常に少ないです。これは、私の考察ですが、そもそも当時は、鉄は、非常に貴重な資源であったことが考えられます。古墳時代の倭が南宋に朝貢した真の目的に「朝鮮半島の支配を認められることで、鉄の安定供給を狙った」という事例からも繋がると思います。また、鉄を持っている場合、農業も行っていたことも考えられる場合、農業の生産道具の道具として優先的に回ることになるでしょう。つまり、鉄製の釣針が出るということは、「鉄の供給が安定し、余裕がある遺跡」ということの証拠になるのではないかと考察しました。

真ん中の5となっているものが、鉄製の釣針になります。

 さらに。別で漁のために使用していた道具はあります。それは、「石錘」と「土錘」になります。どちらも「網の重り」として使用していたものになります。石錘の場合は、石に縦の溝を作り、そこに網の紐を通したと思われます。一方の土錘は、真ん中に穴が通り、そこに網の穴が通ります。
 石の方は、重いものも混じっているので、大勢の人が引っ張って使用する「地引網」のようなものを想定されて使用されていたのかもしれません。

右が石錘で左が土錘になります。
  網の紐の通し方のイメージ図です。

5.魚から何が分かるのか

 ここでは、実際に朝日遺跡から出土した魚骨と魚の剥製が展示され、どのような魚を利用していたのかが説明されていました。

動物考古学について

 まず、どのような魚が利用されていたのかを紹介する前に動物考古学でどのようにして、骨から生き物の同定や分析が行われているのかについて紹介します。また、ここでは主に魚での場合が中心となります。
 当然、遺跡から出土する動物の骨は、全身骨格が揃った状態で出てくるとは限りません。つまり、バラバラに出てくるものの方が多いということです。(*丁重に埋葬された場合は、別ですが…)そして、魚の場合は、下の状態ように骨が、どれが何の部位に当たるのかよく分からないままバラバラになったまま出土するものが多いです。
*魚の骨に限らず、鳥などの利用もされており、部位によっては、非常に小さいです。よって、「発掘時に採取されたもの」とある地点から土を持ってきて、その土を水で洗い、選別する「水洗選別」という2つの場合から骨が取られます。

骨の得られ方は、この2通りになります。
これで、スズキの一個体分です。
(*これは、1個体分の中でも一部の骨です。)

 そして、骨のどこの部位に当たるのか(例:下顎の骨なのか、鰓部分の骨なのかなど…)を特定します。その次に、各部位ごとに科、属、そして、種単位で特徴があるため、その特徴から、同定をしていくという流れになります。

全て尾椎になりますが、種によって、骨の形が違うことが分かります。 
一番わかりやすい例になります。前上顎骨(右)のクロダイとマダイです。
左がクロダイ、右がマダイです。
クロダイの方が、植物も食べるため、すりつぶすための臼歯が多くて発達しています。

 どの骨がどの生物のものか同定でき、同定できた数をまとめていきます。ただ、腹椎や尾椎など、何番目の尾椎または腹椎なのか特定しづらい場合もある上、そのまま同定できたものをそのまま採れた個体数として把握するのは、いいとは限りません。よって、最小個体数で、遺跡から出土した同一種の同一部位の骨を数えることでその遺跡では、「少なくともこれくらいはいただろう」と遺跡での個体数を推測し、その最小個体数を採取された数として使用する場合があります。

上の図の場合、スズキの上顎に該当する骨が3つ、下顎に該当する骨が5つ出土したとします。
この場合、スズキは、少なくとも5体いたであろうと推測できるので、最小個体数は、5体です。

ここまでの流れは、下の図にまとめられます。

朝日遺跡から何が出たのか

 朝日遺跡では、多くの魚が出土しました。下の表は、朝日遺跡から実際に出土した魚の一覧になります。種だけでみても非常に多くの魚が利用されているのが分かります。

『研究紀要(6)』36頁 表1より引用

 では、どのような種が、よく利用されたのでしょうか。下の最小個体数(MNI)を基に作成されたグラフでは、特に、この1種、または1属が突出して利用されたのではなく、様々な魚を多く利用していることが分かります。つまり、多様な分類群が見られるということです。また、下の図の赤く塗られている部分は、「淡水魚」に当たります。赤い部分と黒い部分(ここでは、汽水・海水魚)のバランスが釣り合っていることが分かります。
 朝日遺跡では、「コイ科」「ナマズ属」「クロダイ属」「スズキ属」は、相対的に高い割合を示し、これらの合計だけで、40~50%の割合になります。実際に展示されていた魚骨は、「クロダイ」「スズキ」「マイワシ」「アユ」「ナマズ」「コイ」「フナ」になります。これらの種から共通することがあります。それは、「集落に近い所に生息している」という点になります。また、展示されていた魚や出土の多い魚は、2つの傾向に分けられます。

『研究紀要(6)』37頁 図2より引用
1960~63年、1995~96年に採取されたもので構成

 朝日遺跡は、現在の地図から見たら、海まで非常に遠いことが分かります。しかし、朝日遺跡が存在していた当時は、干潟が広がっていたと考えられており、海はすぐ近くにある環境にありました。海に近い環境にあることから、汽水や内湾に生息する「クロダイ」や「スズキ」が多く獲れることは、十分理解できます。また、マイワシも多く獲れており、彼らは、回遊性で沿岸表層部分を泳ぎます。産卵などの理由で浅場に来たものをとっていたのでしょうか。
*今回の展示ではなかったのですが、「ウシサワラ」という1mにもなる大型魚の出土も確認されています。ウシサワラは、沿岸表層性で、河に遡上する遡上することもあり、遺跡周辺で汽水域が展開する所で、出土が確認されています。(例:森ノ宮遺跡、鳥浜貝塚など)

よく採れたクロダイとスズキの骨になります。
これが、マイワシの骨です。
めちゃくちゃ小さいので、よく見つけて分かったなと…
朝日遺跡の位置
朝日遺跡とその周辺環境を再現したものです。
弥生人が漁をし、貝を採っている様子が分かります。

 もう一方で、注目してほしい点があり、「アユ」「ナマズ」「コイ」「フナ」、つまり、淡水魚の出土も多いことになります。これは、稲作を行うようになったことと関係します。かつての水田の環境では、「コイ」や「フナ」のような魚が多く獲れるような環境だったと思います。そして、彼らは、川や池などから水田へと遡上してきます。その習性を利用したのではないかと考えらています。実際、朝日遺跡から注目される遺構が出土しており、弥生時代後期頃の「ヤナ」が出土しています。最終的には、このヤナに魚を追い込み、捕獲するために使われていたのだと思われます。

コイの喉の骨、咽頭骨、咽頭歯です。
フナの喉の骨、咽頭骨、咽頭歯です。
発掘時のヤナ遺構です。
復元されたヤナ遺構です。

 以上の点から、朝日遺跡では、遺跡の近場で獲れる魚を利用していたことが分かります。その近場は、海水魚だと「汽水・内湾に生息する魚」、淡水魚だと、「水田に遡上してくる魚」の2つに分けられます。魚骨の最小個体数の分析から、遠洋性の漁で大物を獲るよりも、近場で利用できる魚を利用していたことが分かります。

実際に朝日遺跡から採れた魚の剥製です。(海水魚版)
実際に朝日遺跡から採れた魚の剥製です。(淡水魚版)

コイとフナは人に利用されるが、人を利用する

 朝日遺跡で出土した魚で注目してほしいものがおり、それは、「コイ」と「フナ」になります。日本では馴染の深い魚になりますが、稲作を行うようになって彼らの利用が活発になりました。また、ここからは、「コイ」と「フナ」の立場になって読んでほしい部分になります。
 コイとフナは、日本や中国のような温帯湿潤性の気候の場合、雨期、梅雨などの雨が一気に降りだし、夏に向かって暑くなる時期に産卵するために遡上します。つまり、春から夏にかけて湖などの場合、ヨシなどの半分水で半分陸地になっているような陸と水の中の中間地(*エコトーン)に産卵します。このことから、コイやフナは、水位が上昇する時期に産卵する生態を持つことが分かります。また、ヨシ場は、天敵となる大型の魚が入りずらい、エサとなる植物プランクトンの生産も早く、エサに困らないなどの利点があります。
 「弥生時代とはどのような時代か?」と問われたら、多くの人は、「稲作を始めた」と答えるでしょう。つまり、水田を作り、稲を共同で作るようになったため、食料を大量に生産・獲得できるようになったということです。ただし、この「食料の獲得」は、「人間の立場での回答」です。先程のコイやフナの生態は、「雨期にヨシなどのエコトーンに産卵する」というものでした。コイやフナの立場から見た場合、水田は、「新たに創出されたヨシ場」に該当しないでしょうか。つまり、コイとフナの新たな産卵場が水田によって作られたということを意味します。コイとフナは、「人間の作った環境を利用した」ということです。コイ科の研究をされている中島経夫氏は、水田についてこう記述しています。 

フナをはじめとするヨシ場で産卵する魚は、水田のシステムをヨシ場とみなしそこで産卵をする。

https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/1874

 人間は、食料を得るために水田を利用しましたが、コイやフナは、水田を産卵場と見なし、産卵のためにやってきます。この時、コイやフナの利用も一緒に考え付いたとは限りません。「コイやフナが勝手にやってくるようになった」ため、人間もコイやフナを利用するようになったということが考えられます。つまり、人間がコイやフナを利用できると思ったから利用したではなく、コイやフナと人間がたまたま巡り合った結果、人間が食用として利用するようになり、家畜化にいたる最初の起点であったというシナリオです。

コイ(あるいはフナ)から見た田んぼの見方だと思います。

*ここからは、私の一考察ですが、外来種のコイ、大陸系統のコイが日本にやってきたのは、早くとも弥生時代からではないかと考察しています。水田で稲を生産できるということは、「水の管理ができなければならない」こと意味します。水の管理ができなければ、魚や貝などの水棲生物の運搬、ましてや、飼育もできないことは容易に想像できます。また、ヒメタニシが、稲作と共に日本にやってきたことが、DNAの研究から分かっています。つまり、ヒメタニシは、外来種です。よって、この時期に外来種のコイが稲作と共に日本にやってきた可能性があるのではないでしょうか。
 また、長江流域の遺跡から、コイの養殖が行われていたのではとも考えられています。稲作が伝わると同時にコイの養殖や利用がセットになっていても不思議ではありません。その時に、技術だけなのか、もしくは、養殖などで利用されていたコイがセットになって日本に来たのではないかと考えています。

*外来種のコイと日本在来のコイの違い、日本在来のコイについても過去に記述しました。こちらもご覧ください。

6.弥生時代の漁撈とは

  今回の特別展示では、朝日遺跡以外の弥生時代の漁撈に関する展示も行われました。それが、「池上曽根遺跡」になり、池上曽根遺跡のイイダコ漁と魚骨が紹介されていました。
 池上曽根遺跡からは、イイダコタコツボが出土しており、その数は、「2000個」と言われています。これだけのイイダコを利用する理由は、ただ「食べる」だけでなく「祭祀」などの目的で利用されていたことが考えられます。メスのイイダコが抱える卵の様子が、稲の豊作と被って見えることだと言われています。
 また、ニフレルでは、イイダコの生体が展示されている上、実際に復元されたタコツボも展示されています。復元されたタコツボの中にイイダコは、入ることが観察できます。つまり、イイダコ用のタコツボは、イイダコに使えるということです。

朝日遺跡ミュージアムにて展示されていたタコツボ

 この池上曽根遺跡からは、魚骨も出土しており、朝日遺跡の出土したものとも重なります。池上曽根遺跡から最も多く出土した魚骨は、「マダイ」と「フグ(*ここでは、ヒガンフグを紹介)」になります。つまり、弥生人は、今で見た場合、超高級料理を食べていたということを示します。そして、注目してほしい事実があり、「フグが利用されている」ということになります。フグのほぼすべての種類に毒があり、調理をするには免許がいるため、毒が非常に危険であることは分かります。つまり、弥生人は、フグに毒があり、その毒をどう処理して、利用するのかを知っていたため、フグを利用することができたということです。古代の人達がどのようにして知識を得ていたのか分かりませんが、よくここまでたどりつけたなと驚かされます。

マダイの骨です。
私は、マダイの分解標本をもっており、それと比べるとかなり大きいタイです。
フグの骨です。
前上顎骨(左側)、つまり、上あごの骨の一部と思われます。
フグの標本が欲しいのですが、その理由は、顎の太さです。

7.大物に挑む

 ここでは、先程の魚と違い、大型魚であるマグロ、サメ、エイ、そして、鯨類について紹介されています。まずは、先程も紹介した「結合式釣針」が展示されています。非常に大きい釣針で、この釣針を利用して大型の魚類や鯨類を得ていたのではないかと考えられます。

結合式釣針です。これで、完形です。
かなり大きい釣針で、大人の手の平のサイズくらいありました。

 魚骨の分析から、朝日遺跡では、遺跡の環境を利用して漁労を行ったことを説明しました。ただ、大型の魚を全く利用しなかったという意味ではありません。大型の魚も出土しています。
 朝日遺跡から出土した大型魚は、まず、「サメ」と「エイ」があげられます。サメやエイは、今でもフカヒレなどの食材として利用されることがありますが、朝日遺跡に限らず、食材以外の理由で利用されていました。つまり、「生活の道具」、「威信材」です。
 
「生活の道具」では、メジロザメ科の歯と思われるものが、利用されていました。その歯は、肉を切り裂くためのギザギザがなくなっていること、表面が削られていること、歯根の一部が平らに削られているなどの特徴から、「柄を付けた刺突具」として利用されていたと考えられます。

これが、生活の道具に利用されたであろうサメの歯です。
写真から、ギザギザがない点と表面が平らになっていることが分かります。

 「威信材」としての利用は、ここでは、椎骨に穴をあけ、アクセサリーの一部として利用していたものが展示されました。これは、エイの椎骨となっていますが、30番となっているものもエイで、それと比べると、非常に大きいものであることが分かります。サメでも、威信材としての利用がされているものもあり、別の遺跡から確認することもできます。このような利用をした理由は、「権力の象徴」を示すためではなかったのでしょうか。実際、サメと遭遇し、何もないとは限らない上、サメも非常に大型なものもいます。よって、それを倒したことは、強い人間の証であり、サメの骨を威信材として利用したのではないでしょうか。

31番となっているものになります。
*29となっているものも注目です。エイの尾の棘を刺突具で利用したものになります。

 他の大型魚は、マグロの出土が、1点のみ確認されており、大型の魚を利用していたことの証拠になります。また、1ⅿを超える魚は、マグロ以外でもサメやエイ、ウシサワラなどが挙げられますが、数は、少ないです。

これが、朝日遺跡から出土したマグロの骨です。
椎骨になります。

 大物として、今回は、クジラとイルカの骨も展示されていました。イルカでは、バンドウイルカの下顎の骨で、クジラは、アワビオコシに利用された助骨になります。鯨類の利用で興味深い点があり、「漂着個体の利用の方が中心だった」という点になります。クジラの出土があまり多くないということが理由にあげられ、積極的に取りに行くことは少なかったようです。ただ、クジラ、イルカの出土の多い遺跡やクジラの狩りを描いた土器の文様は、あるため、捕鯨を全くしていなかったということにはなりません。

バンドウイルカの下顎です。
イルカなどのハクジラは、歯の本数などで同定が行われるそうです。
アワビオコシに加工されたクジラの助骨です。

 私が、この展示で気になったことがあります。それは、「サメやエイは、朝日遺跡の漁労活動以外で得られたのではないか」という点になりますつまり、交易でサメやエイが手に入ったのではないかということです。浅瀬に生息するサメやエイは、小型なものが多いと思います。まして、朝日遺跡の当時の海の環境は、干潟に近い上に魚骨の分析からもあまり遠洋の漁労を行っていないとの結果が示されています。よって、食用以外の利用を漁撈活動だけで補えたのかに疑問も持ちました。
 ただ、別の事例で当てはめた場合、朝日遺跡でも同じようなことがったのではないかと考察しています。入江内湖遺跡という滋賀県の低湿地遺跡からマグロの椎骨が見つかています。他にも長野県の遺跡からシュモクザメと思われる文様の入った土器が見つかっています。これらの事例から、生物が交易の対象であったり、他の集団との接触などで注目されていたのではないかと考察しました。
 その上、朝日遺跡は、石や木材と当時の環境を調べた際、どこかから持ってきたもの、つまり、交易で手に入れたものもあります。よって、そのような交易ルートからサメやエイが得られたのではないかと、考察しました。

8.まとめ

 以上が、朝日遺跡の漁労活動についてになります。朝日遺跡の漁労活動は、「遺跡の立地を上手く生かした」漁撈になっていたのではないかと感じました。出土した魚骨から、海水魚は、汽水・内湾のもので、淡水魚は、水田の環境を利用したものが多く出土傾向にあり、遺跡の近場で利用できるものが多かったです。当時の干潟の環境や水田の環境からも利用された魚との祖語は、あまりないのではないかと感じます。
 また、池上曽根遺跡の出土品も展示され、朝日遺跡とはどのような所に違いがあるのかという点で比較できるので、そこは、非常に面白かったです。
 展示で、注目してほしい所があり、それは、「漁労具は、どのような部品からできているのか」という所になります。今のようにプラスチックや金属がない、あっても極わずかの時代でした。これらが登場する前の先人は、動物の骨を利用していましたし、今回の展示でも動物の骨でできているものも少なくありません。つまり、人間は、生物や自然との関係を持ち、その恩恵を直接受けていたということです。現在は、物の大量生産でよりいいものが簡単に手に入りますし、それを否定することは、決してしません。ただ、このような時代は、まだまだ最近になってできたばかりで、本来は、自然と直接関係を持って恩恵を受けていた時があったことは忘れてはならないと思いますし、そのようなことを忘れかけているのではないかと感じました。

 以上になります。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

9.参考文献


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