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恋愛エッセイ#22 あれはたしかに恋だった。

「それは、僕にとって心のなかでは、恋愛だったかもしれない。」

この言葉は、岡本太郎さんの本「自分の中に毒をもて」にでてくる太郎さんが幼い頃の恋のエピソードについて語った時の言葉。


今のところ、この言葉を越えた恋愛をわたしは知らない。

この言葉はこの先も私にとって大切な恋愛経験の一つになる。

この言葉で私はどれだけの恋愛をしたのだろう。

太郎さんが、小学2年生の夏休みに伊豆へ両親と旅行にでかけた。彼らが泊まった大阪屋という宿には、おなじく旅行できていた15歳の綺麗なお姉さんがいた。年が離れていたけど、太郎さんは彼女にひかれた。とはいっても、まだ小学2年生の彼は彼女のそばに寄って、子供のままで彼女と話した。


もし無邪気な自分を見せても、彼女が愛してくれない場合は、自分だけが心のなかで、一人で恋愛をはぐくんでもいいじゃないか。そうすればとても素晴らしい夢が広がる。

ぼくの心のなかでも、伊豆の思い出は今でも忘れない。そういう思い出があるということはとても素晴らしいことだ。

40歳を意識し始めた35歳くらいの時、自分が女ではなくなっていく感覚になって怖くなった時期があった。このまま年をとって、シワができて、相手にされなくなる。その時に初めて"女でありたい"と強く思った。
もっと気楽に恋愛しておけばよかったと後悔した。

そんな気持ちを心の奥にしまいつつ、表では仕事にメラメラ燃えてい時にたまたまこの本を読んで、太郎さんの話を聞いて、執着して捨てられずにいた私の恋心とか、まだ女性でありたい気持ちとか、まるでクレヨンしんちゃんの家の押し入れみたいにパンパンだった気持ちがどーんと抑えきれずに飛び散った。

その感覚はモヤモヤが晴れたような、自分の進むべき道がみえた時のような、とにかく最高の気分だった。

告白したとか、付き合ったとか、
フラれたとかではなく

「あれは私にとって恋だった」

自分一人で育てるそんな恋もあるのか。

思い出すだけでフワッとした気持ちになるような、それを恋と言ってもいいのなら、意外と恋多き女だったのかもしれない。

そしてそれは何も起きなかったからこそ、
たしかにすべてがいい思い出になっている。

小学4年生のころに東京の親戚の家に遊びに行くため、一人で新幹線に乗って名古屋から東京に向かった。その時に私のとなりに座っていた20代前半くらいの優しそうなお兄さんとの2名席に、ドキドキしすぎて息もできなかった時の感覚を今でも覚えている。小学生の女の子が一人だったからなのか気にかけて話もしてくれた。名古屋から東京までの1時間40分、私は確かに恋をしていた。

高校生の頃はベッカム全盛期でとにかくサッカー部がモテた。
サッカー部というだけで彼らはモテていた。ワーきゃー言われるようなキラキラした人が昔から苦手な私は、大人になっても「サッカー部でしたと」聞くだけで、映画研究部の自分にもどってしまい自分は近寄ってはいけない人だと勝手に自信をなくすし、
社会人になって好きになった人がサッカー部だったと聞いただけで嫉妬したりもした。

そんなキラキラモテモテのサッカー部に一人だけキラキラというより、"雰囲気"という言葉がしっくりくる男子がいた。休み時間に友達とはっちゃけるわけでもなく、1人で本を読んでいた。キラキラ男子に隠れてる彼の存在が誰かに気づかれてはこまる!たから誰にも言わなかったけれど大好きだった。彼は一人で片思いをするのにちょうどよく、ずっと見ていられた。そして見ているだけで終わった。


大学受験で塾に2つ通っていた。
そのうち一つはマンツーマンで大学生の男の先生だった。正直、顔とか何も覚えていない。ただ、高校生の私にとっては大学生と二人になることが恥ずかしくて耐えられず勉強どころではなかった。その頃仲の良かった友達が大学生と付き合っていて、昨日撮ったチュープリとか、毎日年上彼氏とのラブラブな話を聞かされていたからなお、意識してしまったのだと思う。


大学は落ち、写真の専門学生になった頃にローソンでバイトをしていた。その頃からとにかく外国人にモテた。中国人2人とマレーシア人から超モテていて、マレーシア人の彼は夜勤明けで私と交代するはずなのに、私と一緒にいたすぎて仕事が終わってもそのまま残り、私のために無償で働き続けると言う私から仕事を奪う行為をしてくれた(笑)もちろん付き合ってはいない。それにヤキモチを焼いた中国人が嫉妬して私にトラップを仕掛けて最悪な事態になったりもした。

おっと、エンジンかかってきたわ。

この頃に私は外国人需要が高いと悟った。
自分が女として楽しむには外国人だと狙いを定め、その後無事にカナダ人と
フィンランド人と1ヶ月程度付き合った。

そうか、モテ期ってやつも恋だな。

一回り以上年の離れた独占欲強め男性に好かれたこともあった。
付き合ってもいないのに私と二人になれる場所を作るために車を買った。何度かデートはしたけれど付き合おうとしない私に腹が立ったのか、彼は私にやきもちを焼かせたくて、私よりもさらに年下の女の子と「ご飯を食べに行く!どうだ!!」みたいな感じで言ってきた。もちろんそんな面倒な年上と付き合うことなんてあるはずもない。もしろ断る理由を自ら与えてくれてありがとうだ。

でも、そんな思い出さえも、長年主婦をやっている今の私には大切な思い出だ。あの時好きになってくれてありがとう。でしかない。

やばい、私、めちゃめちゃ恋してたわ。

「もっと気楽に恋をしておけばよかった」なんてもの寂しげな大人の女みたいな雰囲気でクソ自分に酔いしれていた先ほどの発言を土下座したい。
すんまぺん。


正直、太郎さんの本を読むまでは、今話したことを全て忘れていた。というか自分の中ではもう、ないことにしていた。

付き合ったとか、フラれたとかそれが恋愛だと思っていたからさ。

今はつらいかもしれない、めんどうかもしれないけれど人生を振りかえった時にたくさんの思い出のかけらや、ぐちゃぐちゃだった感情が意外といい味だしてくる。隙間を埋めてくれたりもする。

だから、もっと大好きな人には感情的に、情熱的になってもいいかもよ。

若松英輔さんの「ひとりだと感じたときあなたは探していた言葉に出会う」という大好きな本がある。

私たちの日常には「生活」と「人生」という二つの次元がある。

という言葉から始まるのだけど、恋もきっと同じで

経験という恋と、
気持ちという恋、

2つ存在しているのかもしれない。

そう思ったら、いろいろな思い出が倍になった気がして得した気分だね。


えりな


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