見出し画像

【連載】岩波文庫で読む 「感染症」第3回|現実がゆらぐとき、物語は世界を照らす灯となる ボッカチオ『デカメロン』|山本貴光

 日頃はとかく「役に立たない」と無理解にさらされることの多い文芸だが、このたびの新型コロナウイルス感染症パンデミック下では、過去の物語があらためて思い出され、読まれている。ボッカチオの『デカメロン』はそのひとつだ。

 例えば、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』 による「デカメロン・プロジェクト」 をご存じだろうか。2020年の7月に公開されたものだ。

 同プロジェクトのウェブページを訪れると、「現実が常ならざるもの(シュールレアル)になったとき、フィクションだけがその意味を明らかにする」(★1)と大書されているのが目に入る。

 今回のコロナ禍は、文字通り世界規模という未曾有の出来事であり、そのはじまりが意識されてから1年半近く経とうとする現在もなお、私たちはその影響下にある。ワクチンが開発され、接種が始まっているとはいえ、ウイルスの脅威は終息しておらず、人との距離をとることや、マスクの着用、手の消毒に象徴されるように、それまでにはなかった非常事態が日常化している。そうしたなかで、フィクションこそが現実をよく照らすというわけである。それは、よく考えを煮詰め、選び抜かれた要素を、磨き抜かれた言葉によって構築した文芸作品ならではよくなしえないことである、という意見に賛成したい。しかも、時の試練を耐えて長きにわたって読み継がれてきたものとなれば、なおのことである。

 「デカメロン・プロジェクト」では、コロナ禍が世界を席巻するなかで、作家たちに、この状況に想を得た新たな短篇の執筆を依頼したという。タイトルから分かるように、このプロジェクトの着想自体が、ジョヴァンニ・ボッカチオの『デカメロン』にあやかっている。

 そのページでは、マーガレット・アトウッドやチャールズ・ユウ、イーユン・リー、パオロ・ジョルダーノなど 、日本でも翻訳を通じて読まれている作家も含んだ29名による短篇が読めるようになっている。まさに『デカメロン』で、10人の登場人物が物語を披露しあったように。

★1――原文は次のとおり。”WHEN REALITY IS SURREAL, ONLY FICTION CAN MAKE SENSE OF IT.”なお、このウェブサイトをもとにした本が、The Decameron Project: 29 New Stories from the Pandemic (Simon & Schuster, 2020)として刊行されている。


 さて、改めて言えば、『デカメロン(Il Decameron)』とは、14世紀イタリアの文人、ジョヴァンニ・ボッカッチオ(Giovanni Baccaccio、1313-1375)による物語である。1353年、あるいは1351年完成というから、40歳前後の作だ。原文はイタリア語で書かれている。

 その執筆に先立つ年に、イタリアは災厄に見舞われた。1346年、クリミア半島東部に位置するジェノヴァの植民都市カッファは、キプチャク・ハン国の攻撃を受けていた。このとき、ハン軍にペストが発生したという。交戦したジェノヴァ人たちにも感染者が出る。本国との連絡に向かうジェノヴァ人の一団が、そうとは知らずにヨーロッパにペストを持ち込むことになった。1347年頃のことのようだ。これがリレーのようにして、1348年、1349年とイタリア各地で流行するにいたる。その頃、イタリアは都市が発展し、商業活動も盛んになっていた。言い換えれば、人が密集し、貿易によって往来が盛んであることが徒になって猛威をふるった格好だ。

 ペストは「黒死病」と呼ばれることもある。これは世界で三度大きな流行があったうちの二度目、14世紀以降のヨーロッパで広がったペストを指す。いつ頃からそう呼ばれるようになったのかと思っていたら、ここで参考にしている宮崎揚弘『ペストの歴史』(山川出版社、2015)に記されていた。ヨーロッパにおけるペストの流行を中世から現代にかけて歴史的に捉えた本で、このテーマについて見通しを得るのにうってつけの1冊だ。同書では、黒死病を扱った同時代の文学作品として、『デカメロン』の他にも、オリヴィエ・ド・ラ・エ 『1348年の大ペスト詩集』(1348)やギョーム・ド・マショー『ナヴァル王の裁判』(1349)などを挙げている(★2)。

★2――これらの作品に触れてみたい人のために原語をお示しすると、次の通り。オリヴィエ・ド・ラ・エ『1348年の大ペスト』は、Olivier de la Haye, Poème sur la Grande Peste en 1348といって、1888年にジョルジュ・ギーグ(Georges Guigue)が、サンピエール宮殿の図書室にあった写本から活字にしたもののよう。ギーグの序文によれば、オリヴィエ・ド・ラ・エがどのような人であったかは不明とのこと。また、ギョーム・ド・マショー『ナヴァル王の裁判』は、Guillaume de Machaut, Le Jugement du Roi de Navarre。この詩の朗読とマショーの楽曲をあわせたアルバムGuillaume de Machaut, Le Jugement du Roi de Navarre, Ensemble Gilles Binchois, Dominique Vellard (Cantus, C9626, 2003)などで聴くことができる。

 同書によれば、16世紀のスウェーデンの文献に、「黒ずんだ死の様相の意味」で黒死病に相当する言葉が使われたとのこと。その半世紀後にはデンマークの文献で、さらに18世紀にはドイツで一般的な名称として使われたという。

 ためしに英語の古い用例を並べる『オックスフォード英語辞典(OED)』(オンライン版)で”Black Death”を調べてみると、14世紀に流行したペストを「黒死病」と呼んだ例として、1755年の文献が挙がっている。エリック・ポントピダンの『ノルウェイ博物誌の試み』を英訳したものだ(★3)。いずれにしても、恐ろしい呼び名は後からつけられたもののようである。

★3――エリック・ポントピダン『ノルウェイ博物誌の試み』の英訳は、Erich Pontoppidan, The Natural History of Norway (1755)で、1348年から1350年にかけてヨーロッパで流行したペストを”Black-death”と表現している(p. 24)。翻訳元となったデンマーク語版Det første Forsøg paa Norges naturlige Historie(1752)には”sorte Død”(黒死病)とある(p. 39)。ついでながら同じ本のドイツ語版では”pestilenzialischen Krankheiten”(ペストの病)だった(p. 45)。

 ボッカチオは、この黒死病が蔓延したイタリアを舞台に『デカメロン』を書いた。


 岩波文庫では、野上素一訳(全6分冊、赤702-1~6、1948-1959)が『デカメロン――十日物語』として刊行されている。日本語では音からつい「大きなメロン」のような連想も働きそうになるが、メロンとは関係ない。この語は古代ギリシア語の「10」を意味する「デカ(δέκᾰ)」と、「日」を意味する「ヘーメラ(ἡμέρα)」に由来する造語である。つまり、「10日」というわけだ。その名のとおり、10日間を描いている。

画像1

 その巻頭、「初日」の「序話」として、ボッカチオ本人が前口上を述べている。読者は、この作品が「いかにも傷ましい重苦しい書き出しで始まっているとお思いになることでございましょう」という前置きから始まる。というのも、「先年の人死(ひとじに)の多かったあの疫病の記事を初めに載せてあるからでございます」というわけだ。

 『デカメロン』の執筆は1348年頃から始まり 、1353年に完成したという。いまとは時間の感覚もちがうかもしれないので、そのまま対比するわけには行かないものの、私たちが置かれている状況でいえば、コロナ禍が始まってから5年後の2024年に完成した、という時期である。生々しい記憶が残っていたに違いない。

 ボッカチオの「序話」は、岩波文庫版で28ページほど続く。そこでは、黒死病によって、人びとのあいだに生じた変化を、つぶさに見てとっている様子が窺える。なによりも「あらゆる人間の智慧や見通しも役立たず」という絶望的な状況だったこと、死に至る病状、感染の様子、新しい生活習慣の出現、死者数といったことについて、「序話」の半分を費やして書き留めている。

 人びとの様子はどうか。一方には、他の人たちから離れてこもり、節制するのがなによりという人もあれば、反対に捨て鉢になって欲望の趣くまま飲んで騒ぐという人もある。そうかと思えば、どちらでもなく自由に行動するわりに薬草なんかを携えて、ときどきそれを嗅いでは心を慰めるという人もあったとか。なかでも最も安全策をとったのは、すべてをかなぐり捨てて町から逃げ出し、自分や人の別荘に移った人たちだったとのこと。

 ボッカチオの見たところでは、どの行動を選んだ人でも、みな死んでしまったわけでもなければ、死を逃れたわけでもない。ただ、罹病した者は置き去りにされ衰弱死したというから凄まじい。それまでのように、人の最期を看取り、集まって死者を悼むという習慣もなくなって、新しい風習が生じたとも記している。

 以上はそうした経済的な余裕のある上流階級の話で、中流階級以下の人びとが置かれた状況はさらに苛酷だった。家にはいるものの、隣人たちと行き来をしたため、感染しあって「看病してくれる人もなく、何等の手當を加えることもないので、皆果敢なく死んで行」った。一日千人以上が罹病したともいい、街はそこかしこが死者で溢れ、やがて「人間一人死んでも山羊一匹死んだほどにも氣にしないという風にまでなりました」と、ボッカチオは惨状を静かに報告している。なかでも次のくだりは、書かれてからおよそ670年後の私たちにも痛切に響く。

更に病威の驚くべきは、私が今お話しようとしていることでございますが、これは多くの人々が、私もその一人でございますが、聞いただけではあきれるばかりで、自分の眼で見なければ、私も此の眼で見たのでございますが、いくら信頼を置くに足りる人の口から聞いたとしても、殆んど信じることも、況んやそれについて書くこともできなかったでしょう
(第一冊、57ページ)

 敢えて多くは言い添えないが、まるで他人事とは思えない指摘だ。「コロナは風邪のようなものだ」と信じていた人が、自ら罹患してようやく考えを改めた、という話が思い出される。もちろん無闇に怖がってデタラメを信じるのも拙いが、さりとて「あんなのはたいしたものではない」と決めつけるのも褒められたことではない。ここでボッカチオは、人の想像力の限界を指し示しているようにも読める。自分の限られた経験の埒外にあることを、いかに思い描けるか。


 そんな惨状を背景として、ボッカチオは物語に入ってゆく。フィレンツェのとある寺院で儀式に参加した若い女性が7人、おしゃべりをしているところ。途中を端折れば、町を出てあちらこちらに泊まり歩くのはどうかと提案する。召使いも連れてというから、裕福な人びとなのだろう。そこに居合わせた3人の若い男性たちと連れだって旅に出ることになる。この10人の人びとが、旅先で無聊を慰めあうために、毎日1人1つの物語を披露するという遊びを始める。10人が1話ずつ、10日にわたって物語る。つまりは100の物語がにぎにぎしく集められたのが、この『デカメロン』という次第。

 なかには艶話などもあるので、昔から好色趣味で読まれることもあったのをご存じかもしれない。ここでは、肝心の物語は置いといて、むしろ「序話」に注目してみた。

 思えば、ステイホームが常態となってから、ゲーム業界の売上が好調だとか、ネットで動画を見る人が増えた、といった話をよく耳にするようになった。かたちは違うとはいえ、こんな折りに物語に触れたくなるのは、いまも昔も変わらないのかもしれない。

 「現実が常ならざるもの(シュールレアル)になったとき、フィクションだけがその意味を明らかにする」としたら、それはなぜか。とりわけそれまでの日常とは異なる状況が生じたとき、平時には特に気にせず済んでいたさまざまなことが、意識にのぼるようになる。自分や他人の呼気が、目に見えないウイルスを含んで空気中に放出される、あるいはそれを吸入する可能性、ものを媒介して手指その他から感染する可能性などはその一例。それを意識する人しない人、健康や生命より他の要素を優先する人などが入り交じって、人間の社会では一筋縄ではいかない常ならぬ動きも生じる。

 こうした現実の世界は、複雑すぎて捉えがたいものだ。それに対してフィクションは、現実を参照しながら限られた要素を使って世界の模型をつくりだす。込み入っているはずの出来事を、いわば人間の身の丈で把握できるかたちにする装置でもある。これを読むあいだ、人は意識のうえで現実世界を少し離れて距離をとることもできる。それは、ものの見方を凝り固まらせないためにも必要な距離だ。精神のストレッチと言おうか。

 ときとして、小説や詩を読み終えてページから目をあげると、世界が少し違って見えることがあるのはそのためだ。フィクションは、世界を見るための別なる光を与えてくれる。もちろん、現実の状況と作品と読者のくみあわせ次第で、その働きも変わるわけだけれど。幸か不幸か『デカメロン』は、時代と場所を越えていま、私たちが置かれた常ならぬ現実を見つめ直すための灯となっている。

 なお、『デカメロン』の岩波文庫版は、現在品切れ中。文庫で手軽に読めるものとしては、平川祐弘訳(全3冊、河出文庫、河出書房新社、2017)がある。

*以下の文献を参考にしました。
宮崎揚弘『ペストの歴史』(山川出版社、2015)
ギョーム・ド・マショー『声楽と器楽アンサンブル作品集』(ラコドン/アンサンブル・ジル・バンショワ/ヴェラール、CANTUS9626、Cantus Records、2003)ブックレット
・Georges Guigue, Oviliver de la Haye, Poëm sur La Grande Peste de 1348 (1888)
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
コーエーでのゲーム開発を経て、文筆・翻訳、専門学校・大学での教育に携わる。立命館大学大学院講師を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。
著書に『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『マルジナリアでつかまえて』『投壜通信』(本の雑誌社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)ほか。共著に『人文的、あまりに人文的』(吉川浩満と共著、本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(吉川との共著、筑摩書房)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川との共著、太田出版)ほか。
twitter @yakumoizuru

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?