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就職は大手理系企業▶️今は英語村の運営。自分と時代の流れで辿り着いた場所

僕が社長になった理由-木田雅之さん-
4つ上の姉から言われた「男の子なら理系がいいんじゃない?」のひと言で、理系に進む道を選んだという木田さん。受験や進路に対して、親も子どもも深く考えることなく、大学まで行くことが出世コースだと信じられていた時代。木田さんはそんな出世コースを歩んできたと言います。その後、外資に転職して考え方が一転し独立。今はなんと、もともとの事業の傍ら、岡山で英語村を運営しているといいます。そんなキャリアをたどった足跡を追いかけてみたいと思います。

2019年夏、”いわみんプロジェクト”として、社長や起業家、独立して活動している方を対象に100人インタビューを実施しました。彼らがどんな想いで起業し、会社を経営しているのか? その中での葛藤や喜び、そして未来に向けて。熱い想いをたくさんの人に伝えたいと思っています。

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木田 雅之(きだ まさゆき)さん

株式会社ナノリンクス 代表取締役社長
株式会社ナノビレッジ 代表取締役社長

2003年 株式会社ナノリンクス設立
2006年 英会話VELCOスタート
2014年 株式会社ナノビレッジ創業
岡山英語村ナノビレッジの運営
中古半導体製造装置、表面実装装置の売買
2019年 古民家ゲストハウスnano inn 開業

半導体の研究職から海外営業部への転身
周囲もうらやむ出世街道まっしぐら!

 小さいころはマンガ家とか、野球選手になりたいとか書いていたけど、ほとんど意味のない夢だったと思います。ポリシーなんてものは持ってなかった時代。周りと同じように特に何も考えずに、成績に合わせて学校を選んで進んでいった感じでした。
 大学には1浪して工学部に入ったんですが、さすがに、浪人時代には自分が進む工学部がどんなところか知りたくて、先に進学していた友だちに手紙を書いた記憶だけはあります(笑)。まだアナログな時代だったから。
 就職バブルだったこともあり、工学部では学校の成績順で推薦される枠みたいなものがあって、自分の成績だとこのあたりの企業に行けるってことがわかったんです。そんな中で、リコーだったらお給料もよさそうだってことで決めました。

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▲現在手掛けている事業で唯一、理系の名残を感じる機器販売業。

 研究職で半導体の開発部門に6年くらいいました。途中でR&D部門が兵庫県の田舎のエリアに引っ越すことになって、飲みに行ける店もないようなところで、そこでの生活がすごく嫌だったんです。異動願いを出していたら、たまたま空いたポストだったのか、海外営業の部門に入ることができて新横浜勤務になりました。
 ところが、じつは、海外営業部は営業メンバーにとってはあこがれの部門だったらしく、「いきなり研究開発からやってきたヤツが配属された!」ってことで、かなり冷たい扱いを受けたような記憶があります。
 ありがたいことに、海外営業部門はちょうど業績がどんどん上がっていく時代で、海外への出張も行けたりして楽しかったですね。ただ、当時は多少調子にのっていて、「業績がいいんだからもっと給料をもらってもいいはず!」と思い始めたりもしていました。
 転職におけるギリギリのラインが35歳だと聞いて、まさにその年齢になったこともあり、実績に対して評価を正しくしてくれる外資系に行きたいと思うようになりました。そして、転職エージェントにいた知り合いに頼んで、外資系のCISCOシステムズに転職しました。

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▲通っていた盛和塾で稲盛和夫さんとの貴重なツーショット!

日本の大企業から外資系企業への華麗なる転職を果たした木田さんですが、この後はキャリアアップの道ではなく、独立という道を進みます。今までの仕事を活かして海外への貿易サポートをとっかかりに、自分があったらいいな、と思った英会話スクール、英語村と、連想ゲームのように仕事の幅が広がっていきます。

外資への転職でキャリア観がリセット!
38歳で独立し、パラレルでの仕事スタイルに

 CISCOはかなりカルチャーショックな世界でした。今まで超日本企業で、終身雇用が当たり前、年齢に応じて役職が回ってくるのが当たり前だと思っていたので、キャリアに関しての考え方がガラッと変わりました。外資にいる人たちはすでに何社か経験している人がほとんどで、今後も自分のキャリアアップのために転職を上手に繰り返していくことを考えていました。10社、20社なんてツワモノもいくらでも!
 そんな環境で働いていたら、今までリスクだと思っていた転職や独立というものへの恐怖心がなくなって、2年後に独立することになりました。最初にスタートしたのは、ファブレスベンチャーが増えていた時代だったのですが、彼らは営業できる人間が確保できていなかった。そこを僕が担おうと思って営業の外注業を始めました。日本の技術力を世界に広げたいって思いで、会社名を「ナノリンクス」と名付けました。

 最初は2年間、委託元の会社の人とドイツで営業していました。帰国したときに現地で感じた英語の力不足をどうにかしたいと思って、英会話スクールを探したところ、自分が思うような形態のものが見つからなかったんです。だったら自分でスタートさせようと思って、英会話スクールを事業としてスタートさせました。

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▲大阪と滋賀では英会話スクールVELCOを運営している。

 僕がやりたかったのは、テキストなんかは使わず、カフェで外国人とおしゃべりするような感じで英語を使うスクール。テキストで勉強しても、本当に話したい英語は話せないって思っていました。しかも僕が考えていたのは、あくまでも英語を使って外貨を稼いでくるためのツールとしての英会話だったんです。
 そのスタイルは一定レベルで認められて、店舗数も拡大させていって、バイトの子を社員にして、自分がいなくても勝手にお店が回るような仕組みにしていきました。

 独立して6年ぐらいしたときに、石垣島へ旅行したときに出会ったのが今の奥さん。僕が英会話スクールを発展させて、いつか英語村をやりたいっていう夢の話を一生懸命に聞いてくれました。正直、英語村を田舎でやりたいという思いはあって、いろんな構想は練っていたんだけど、1人身で田舎に引っ込むのはさみしすぎて躊躇していた部分があったんです。でも、彼女と一緒だったらできる!と思うようになりました。

ステキなパートナーとの出会いで、一気に自分の夢にアクセルを踏むことができた木田さん。とはいえ、ご本人の当初の予定よりちょっと遅れ気味なのだとか。今のビジネスとこの先、木田さんが描く未来について教えてもらいました。

古民家を購入し英語村をスタート
モノではなく体験を売る時代

 彼女は山口県の出身で、僕は当時、関西中心でビジネスをしていたので、間の岡山の物件を見に行ったところ、ひと目ぼれの古民家を発見しました。あとは彼女を説得するために、どんどん既成事実を進めました(笑)。
 古民家を購入して彼女に遊びに来てもらって熱弁をふるってくどきました。彼女と知り合ってから2年くらいかけて、やっと古民家での英語村がスタートしました。

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▲村の運営は奥さんが中心です。英語を学び、日本の文化を学ぶベル場所!

 ナノビレッジは外国人講師ではなくて、外国人観光客が話し相手ってことになります。日本人は英語環境がある古民家宿に遊びに来るっていうビジネスモデル。今まではモノを売ることで日本と海外を結び付けることをやりたいと思っていたんだけど、最近は体験というコトに価値を感じてくれることがわかってきたんです。
 岡山英語村ナノビレッジから車で20分くらいの所に、古民家ゲストハウスもオープンしました。お金なんかいっぱいなくても幸せな暮らしはできるってことを、実体験として感じてもらえる、そんな暮らしがココにはあると思っています。

 38歳のときに独立したとき、50歳までには大きく成功をさせて、その後は世間のために生きよう!って思っていました。世界にはつらくて苦しい生活をしている人たちがまだまだいっぱいいます。すべての人を助けることはできないかもしれないけど、自分の目の前にいる苦しんでいる人たちは助けてあげたいって思ってます。でも、まだまだ思うようにはできていない現実で。。。まずは自分の周囲をしっかり固めて、一刻も早く目指していた自分になれるようにしていきたいと思っています。

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▲ナノビレッジでの様子。国境を越えた人たちが集い、縁側でくつろぐ。

「好きな言葉は"常に余力"。稲盛和夫さんがやっていた盛和塾に行っていたころ、自分で定めたもの。みんなには笑われました。普通は“常に全力”だろ、って。でも、僕はひざを軽く曲げておくように、少し余力があるくらいじゃないと、変化に対応できないと思ってます」
確かに木田さんのビジネスは、ガチガチに決めてある感じではなく、少し自由度があって、今後どうにでも展開を変えられそうな感じ。古民家にさまざまな国の人が集い、英語学習をしながら暮らす。めちゃくちゃステキ!!


下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!