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その鬱憤を晴らすのは誰か?

久しぶりの投稿になりました。m(_ _)m

「犯人探し」「悪者探し」の裏側にあるもの

近頃、薬物であれ不倫であれ、まるで犯人探しでもするかのようにして血眼になって、有名人の不祥事に対して大バッシングを浴びせる風潮を感じてしまいます。

そうしてSNSなどのネット上の情報空間が罵詈雑言に満ちることで、そこにスマホやネットの依存症も相まって、皆が皆絶えず不満や鬱憤のエネルギーで影響し合っている現実が垣間見えるように思います。

こうした社会問題を一体どうしたら良いのだろうか?と考えてしまいます。

本来は、一人ひとりが自らの心を自分で調節し、この画像のようは晴れやかな空を眺めるようにあらゆることを正視していきたいものですね!(^^)

「客観視」の恐るべき力(いい意味で)

d.M(デジタルメディテーション)では「客観視」あるいは「三人称視点」というものを重視します。

直径3cmの黒曜石を半眼で眺めるという単純な方法で行うものですが、ここにはありとあらゆる古神道の叡智(極意)が込められています。

「客観視」はその一端ですが、d.Mの実践を通して上記のような日々の「鬱憤」自体も冷静に眺めてあげるのです。

日頃ネットの情報空間に晒されてばかりでは、「静かに落ち着いて自分自身の心の動きを眺める」という単純作業すらママなりませんよね。(⌒-⌒; )

一日3~5分の瞑想からでも、こうして自らの客観視を行う視点を獲得することができ、知らぬ間に自分が囚われてしまっている感情に振り回されることがだんだんどんどんなくなっていくのです!!

そこに古神道×最新科学のテクノロジーが相まって、瞑想効果を圧倒的に高めてくれるのが「デジタルメディテーション」なのです。


「鬱憤」に塗れて制御が効かない自分。

「自分は鬱憤に塗れているな」と外から眺める自分。

同じ自分といっても、両者は全く別の次元(階層)にあります。


その鬱憤を晴らすのは誰か?

こう最初に掲げた問いの答えはもうお分かりですね?

そう、自分を見つめるもう一人の自分なのです!

先ほど次元(階層)とお伝えしましたが、実は古神道ではこれが「五つ」存在すると見ます。

その五つの階層を自由に上がり下がりして、自在な現実創造が可能になった状態を指して「悟り」と呼ぶのです。

仏教でいう「空」の境地を前提として自由自在な「現実創造」を行うというのが、古神道の一味違うところです。

それを象徴するように、d.Mでは目を瞑る「瞑想」と違って「半眼」の状態で、黒曜石の一点を凝視する形で行います。

こちらは以前ご参加いただいた方がまとめてくださったブログ記事です!

ご参考までに。( ^ω^ )

直接体験されたい方はぜひご参加ください!!m(_ _)m

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