『増補 オフサイドはなぜ反則か』レビュー

まるで、地質学者のようだと思う。いや、私はべつだん地質学のことをよく知っているわけではないから、ほんとうは違うのかもしれない。でもイメージとしては、地質学をやっている。地層の断面をみて、そこに残された僅かな化石や層のズレから、ここは何万年も前には海の底だったとか、そういうことを推察する。それを、フットボールでやっているのが、この本の著者、中村敏雄なのだ。

ワールドカップ、日本は負けてしまったが、佳境を迎えた戦いを心待ちにしている方もたくさんいるかと思う。華麗なプレー、ゆずらぬ攻防に手に汗を握る。とてもおもしろい。ところで、サッカー好きのあなたのとなりに、サッカーをあまり観たことのない人がいて、こう口走ったとする。

「敵のゴール前に、ひとり選手を置いておいて、その選手にパスを出すようにすれば、もっと得点を入れられるんじゃないか?」

あなたはこう答えるだろう。「それは、オフサイドという反則になる。超ざっくりいうと、攻撃側の選手は、ゴールキーパー以外の守備側の選手より前でボールを待っていてはいけないんだよ」

攻撃側の選手が、守備側の選手より前でボールを受け取っているので、オフサイド(攻撃側の反則)

攻撃側の選手が、守備側の選手より後ろでボールを受け取っているので、オフサイドではない(反則ではない正当なプレー)

あなたの説明にたいして、サッカー初心者はいう。「なんか腑に落ちないなあ。サッカーっていうのはボールを前に前に運んでいくスポーツでしょう。でも選手が前に出すぎると反則になっちゃうなんて。合理的じゃないよ。そのオフサイドというのは、だれが、いつ、どんな理由で決めたルールなんだ?」

こういう質問をする人のこと、どう思うだろうか。くだらない。ルールはルールなんだから。そう思ったりもする。それを言い出すと、なんでサッカーは11人でやるのか、キーパー以外は手を使っちゃいけないのか、全部わけがわからないのだ。しかし、なんだか釈然としない。たとえば、バスケットボールについては、サッカーのようなオフサイドのルールはなく、ゴール付近に待ち構えるプレイヤーにボールがパスされても反則ではない。ルールってのはまったくいったいなんなんだ。

ここで、地質学の登場である。サッカーというスポーツは、今現在の形で昔から存在しつづけてきたわけではない。今のようなルールで施行されるまでに、なんども規則の改定がおこなわれ、このような形に落ち着いているわけだ。その規則の地層をたどってゆくと、今日において、オフサイドというルールがなぜ作られたのか、いろいろなことがわかってくる。それは、サッカーという競技にたいする先人たちの思いを理解することだ。

イギリスを発祥とするサッカー(アソシエーションフットボール)は、昔のひとにとっては、スポーツというようなものではなかった。それは、もともとは作物の豊かな実りを祈って、森や畑に、生命の象徴としての玉を転がす、という呪術的行為に端を発する、という。そして、呪術はやがて村落の祭りごととなった。上の図でいう「祭りのフットボール」の段階だ。

「祭りのフットボール」は、フットボールとはいうものの、今現在のサッカーやラグビーとはぜんぜんちがう。びっくりするような状態だった。まず、村々によってルールがまったく異なる。しかも、そのルールといってもかっちりしたものでなく、グラウンドとその外の境い目がない。そして、プレイヤーと観客という区切りもない

「祭りのフットボール」の多くは、教区と教区の対抗戦として行われた。その教区に住んでいる人々や、たまたま田舎を訪れた旅人、見物客も、自由に参加してよい。また、疲れたら途中で酒場に入って休憩してもいい。家に帰ってもいい。両陣営の参加数は、不均等で、合わせて数百人の人々が入り乱れることもあった

ゴールについては、村の象徴的な建物、教会や水車小屋などが選ばれる。民家や畑を越えて、その地点までボールを運んだほうの勝ちである。途中、川があったら川に飛び込んでもいいし、実際、川を使ってボールを運ぶことを有効な戦術としていた村もあるらしい。

そして、両陣の人間たちがボールを巡ってひしめきあい、殴り、蹴り合う、「密集」状態にいたって、祭りのボルテージが最高潮となる。勇敢に密集に飛び込んで、殴り殴られてボールを奪い取ったものには、惜しみない賞賛が送られる。また、ボールのゆくえとは関係のないところでも小競り合いが起こっていて、端的に言ってカオスなのである。

これは、貧しく過酷な労働に従事している民衆たちの、貴重な息抜きの機会であり、また、コミュニケーションを深める効果もあった。「あの家の末っ子、まだ子供だと思ってたのに、ずいぶんたくましくなったなあ」とか「あそこのじいさん、老骨に鞭打って乱戦に参加してたぞ。まだまだ元気そうだ」とかいう会話がなされていたのだろうと察せられる。いまの日本でも、各地にずいぶん乱暴なお祭りが残っているが、サッカーも、もともとはそういう祭りのひとつだった。

そして、重要な点がもうひとつある。この祭りは、ゴールまでボールを運ぶ、つまり点を先取したら終わってしまう、ということだ。祭りは長けりゃ長いほうが楽しい。多くの村人がそう考えていた。だから、できるだけ長引かせたい…

冒頭でふれた、サッカー初心者の言葉を思い起こしていただきたい。

「サッカーっていうのはボールを前に前に運んでいくスポーツでしょう。でも選手が前に出すぎると反則になっちゃうなんて。合理的じゃないよ」

そう、たしかにサッカーはボールを前に前に進めていくものなのだ。しかし、昔の人は、その最終的な目的の前に、まず、祭りを楽しみたかったのである。合理的に、ボールを相手にとられないようにするには、密集せず、最短ルートに人を配置し、前方につぎつぎとパスをしてゆけばいい。けれど、それでは密集の興奮が楽しめない。かつ祭りがあまりにも早く終わってしまう。だから、あえて合理的な作戦を封じた。それをやる人は、「空気の読めないやつ」として蔑まれる運命にあった。

ここに、オフサイドという不合理なルールの萌芽があるのだ。密集のなかでのボールの取り合いを引き起こし、かつそれを長い時間楽しむこと。勝敗や結果でなく、その過程を楽しむこと。それがサッカーのもともとの醍醐味なのである。だから、守備側の相手よりも前方に出て、密集の形成を妨げたり、試合を早く終わらせようとするプレーが反則になる。

もちろん、「祭りのフットボール」は、粗暴で危険な状態に陥ることもたびたびあったので、時代を経るにつれ、相手の身体を傷つけるような行為は固く戒められるようになった。さらに、産業革命以降、スポーツという概念が強化され、プレー中の個人技でなく、勝敗、いかにして合理的に点を奪うか、という楽しみが、新たに見出されたのだ。このあたり、勘違いしてはいけないところだ。勝つことが最大の目標というのは、フットボールの歴史を紐解くなら、後発の価値観なのである。

『増補 オフサイドはなぜ反則か』において、著者の中村は、こつこつと資料を読み込み、フットボールという競技の地層をゆっくりとたどってゆく。それは、今日、サッカーやラグビーなどの競技を行うプレイヤーに、自分たちのやっていることの意味を知ってほしい、という願いゆえのものだ。また、そういう思考をもった選手がよりよいプレイヤーとなる、ということでもある。それにこの本は、そういうスポーツに興味のない人にとっても、ものごとの歴史をたどり、それを考えることの格好のお手本ともなるだろう。

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