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小津安二郎監督『東京物語』

シネ・ヌーヴォにて、小津安二郎監督の『東京物語』4K修復版を鑑賞。1953年の、モノクロ映画だが、そこは世界的評価を得た作品だけあって、はじめは古いな、という感じがするけど、それも一瞬、あっというまに作品の世界にひき込まれる。さすがだ。

よく言われることだが、小津のローポジション、ローアングルのショットは絶品だ。これ以上、削るものも、つけ足すものもない、完璧なバランス。『東京物語』の画面からは、幾何学的にかたちを配置する、例えて言うなら理系的な知性を感じる。パッションに任せて撮りました!という天才的なセンスではない。老練の建築家が1ミリの狂いもなく作った構造物のような感じ。几帳面だ。

『東京物語』は、尾道で暮らす老夫婦が、息子や娘に会いにはるばる東京までやってくる、その様子を描いたロードムービーである。田舎からやってきた親を、東京にいる息子や娘がおもてなしするのだが、かれらは自分たちの仕事、生活に忙殺されていて、老いた父と母を持て余してしまう。

しまいには「そろそろ帰ってくれないかな」と愚痴をこぼしたり、老夫婦に金を渡して熱海に追いやったりと、扱いがぞんざいになってくる。老夫婦も若干その空気を感じているのだが、老境に達した彼らはそれを咎めることはない。むしろ、息子たちの邪魔をして悪いなあ、と、肩身の狭い思いをしている。

親としては、たしかに子どもたちは親孝行の念に少し欠けているかもしれないが、それも彼らが自分たちの手を離れて、それぞれの生活を築いている以上やむを得ないことで、むしろ彼らが親のことを忘れるくらいに自立して、頑張って生活しているということに概ね満足を覚えている。ちょっと寂しい面もあるけど、それが親と子どもにとって自然な成り行きだ、と笠智衆が演じる老いた父は言う。

『東京物語』には、親が自立した子どもたちを見つめるときに感じる、頼もしく育ってくれて嬉しい、という気持ちと、もはや自分たちが必要とされていない、ということの、ちょっとした寂しさが描かれている。平穏な生活のなかから、じわりじわりと滲んでくる感情を、さきほど言ったような見事な映像で見せてくれる。しかし、この映画を形作るうえで絶対に外せない要素がもうひとつあって、それは主演の老父役をつとめる笠智衆の怪演っぷりなのである。

笠の演技は、ひとことで言えば大根だ。楽しいシーンも悲しいシーンも、朗らかな表情で棒読みのセリフを口走る。徹頭徹尾それだけなのだ。しかし、これがネガティブな評価にならないのが、笠智衆という役者のすごさだ。

『東京物語』を初めて見る人は、だれだって笠智衆の演技にぶち当たる。小津安二郎という世界的名監督の代表作の主演をつとめるような役者なのだから、当然演技がうまいはずだ、と自分に言い聞かせてスクリーンに向かうのだが、いっこうに笠の芝居を上手だと思えない。

それは当然のことである。なぜならば笠の芝居は本当に大根だから。なんでこんな人が主役をやっているのか、という疑問も当然湧いてくるが、しかし、笠の芝居の下手さは、この映画にとって不可欠なものだ。

「イソガシイノニ、モウシワケナイネエ」「イヤ、カタジケナイネエ」と、自分を邪険にあつかう子どもたちに向かって壊れたロボットのように繰り返す笠の演技は、人間のギラギラしたものを一切感じさせない。

うかつに芝居のうまい、感情表現の豊富な役者を立ててしまっては、下手すると自分をぞんざいに扱う子どもたちへの不満が顔を出してしまうことだろう。しかしそれは小津監督の意図するものではない。感情表現の幅に乏しい笠の演技は、下手なのであるが『東京物語』という映画の色にぴったりとマッチしている、というかこの映画の空気感を作っているのは笠の芝居だともいえる。

息子たちに言われっぱなしになりながらも、ひたすら「モウシワケナイネエ」と謝っている、笠の、寂しくはあるが、子どもたちも独立したのだから、そういうものなんだよ、と語る穏やかな微笑みが、私は大好きだ。おおげさに言えば、笠の棒読みのセリフから、聖なる父性とでも言うべきものを感じるのだ。


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