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【3.11】かたりえぬものに

 2022年3月11日。今朝は起きたときから暖かくて、春物のコートで外に出た。東京の3月のこの時期はこんなに暖かいんだな、と思う。宮城にいたときは、まだまだ寒い時期だった気がする。そういえば、2011年の今日の夜は雪が降っていたらしい。停電して、外に出ていなかった私にはその記憶がない。あの夜、私はうまく寝れていたのだろうか。

 東日本大震災から、今日で11年が経った。9歳だった私は20歳になった。11という数字を指で折って数えても、すぐに終わってしまう。宮城で育った私だって、つい節目で考えてしまうけれど、時間は常に流れているもので、区切りなんてものは、きっとない。3月11日に文章を投稿することだって、なんだか流行りに乗っているみたいな感じがする。考えることはよいことだと思うけど、あの日に置き去りにされた大切な誰かのことを考えている人は、時が過ぎて、大切な人の声を忘れてしまいそうになることを悔やんでいるのかもしれない。テレビでは現状を伝える番組が多く組まれ、あの日を忘れないとか、それでも復興へとか、大切なあの人が帰ってこないとか、そういう感情の渦が誰かに消費されていく。

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「宮城に住んでたんでしょ。震災のとき、大丈夫だった?」

  そう聞かれたとき、私はどう答えればいいのかよくわからなかった。仙台に住んでいて、ライフラインは止まったけれど、津波は家までこなかったし、親族で亡くなった人もいなかった。かといって、大丈夫だった、と言うのも、なんだか違う気がしていた。

 私の経験としての東日本大震災という出来事が、言葉になってうまくまとまっていないのかもしれない。そう思って去年の今ごろ、仙台市図書館で3.11震災コーナーの本を見たことがある。放射能のことや、帰る場所を失った人のこと、当時の写真などが載っている本が多く置かれていたが、私には読めなかった。私が経験した東日本大震災と、本の中の東日本大震災が、うまくつながらなかったのだ。私にとって東日本大震災は、運動会とか、学芸会とか、そういうよくあるハイライトの1つで、それ自体が悲しい記憶というイメージはない。小学生で経験したために、その出来事はあって当たり前のもの、仕方のない出来事として記憶されてしまったのかもしれない。

 ずっと、東日本大震災に関するいろんな出来事や、感情、復興や防災の意味がうまく捉えられなかった。よくわからないまま20歳になって、よくわからないまま今日を迎えた。東京のこの時期は暖かいんだなぁと思いながらバスに乗って、窓の外を眺めながらそのことについて考えていると、ふと言葉が浮かんだ。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない
(ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』)

 なぜかこの言葉を思い出して、しっくりきた。本をすべて読んだわけではないので、言葉の背景はわからない(少し調べてみると本来の意味は違うみたいだ)。けれど、ああ、私はこのこと――東日本大震災について沈黙すべきだと、無意識的に思っていたのかもしれない、と。

 きっと、私にはわからない。伝承館にあるものも、語り部の方が伝える話も、3.11震災コーナーに配置された本の中身も、全部、誰かが直面した事実と、誰かが経験した感情だ。目の前で津波が襲ってくる恐怖。大切な誰かがいつまでも帰ってこないこと。避難所で常に近くに人がいる感覚、知らない誰かの匂い。誰もがいつ帰れるかわからなくて気が気でない、重い空気感が体育館にこもること。放射能がないか身体中を調べられること。家に置いてきたペットの行方。家に置いてきた大切なものは、津波に流されて二度と帰ってこない。そういうたくさんの事実と感情がある。
 メディアがカメラを構え撮影し、当時のことをインタビューされること。復興のためとチャリティーコンサートを行う人や、募金を募る人、どこの誰とも知らない人からのメッセージ。そういう東日本大震災を取り巻く出来事が、当事者にとってどんな存在で、どんな意味を持っていたのかわからない。語り部の方から聞いても、被災した場所に訪れても、写真や映像でその光景を見ても、本で読んでも、きっと私には、わからないことで、私が何かを語ってはいけないような気がした。

 宮城に住んでいたからという理由で聞かれて、「私は大丈夫でした」と答えるとき、誰かのつらさを無視しているような違和感があった。大丈夫だったよ、でも大変は大変だったよ、いや私よりも被害に遭われた方はたくさんいるし、でも直接的な被害がなくとも誰もが大変に思っていたんじゃないかな――、そんな一言では言えない気持ちを、何気ない会話で全て伝えることはできないから、最初だけを取り上げて言っている。それはある意味で、沈黙に近いのかもしれない。それでも、震災について聞かれる限り、私は安心していられるんだろう。聞かれなくなったときが、風化したときだから。

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 11年という歳月は、私を成長させてくれた。掲げられた半旗の後ろに広がる空は、どの色を混ぜたら作れるのかわからないような複雑な色をしている。人々の装いが冬の重ためのコートから、春のトレンチコートに変わっていく。ゆっくりと、春が来ることに、生活が変わっても、桜が咲くことに、たんぽぽが咲くことに、つくしが生えることに、あのときどれだけの人が助けられただろう。地震という自然は恐ろしいのに、変わらずにある身近な自然に支えられているような気がする。

 世の中が目まぐるしく変わる今日このごろ、あなたは何をして、何を考えているだろうか。あなたに声もかけられないけれど、私は今日の1分間、名前の知らないあなたを考えながら、祈っていたような気がする。今も恐怖にさらされている人が、大切な誰かを考える人が、あの時に想いを馳せる人が、そして文章を読んでくれたあなたが、明日通る道の隅っこや、空の色に、春を見つけられますように。

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