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長生きしてね

 年長者を敬いなさいと言われても、いまいちピンと来なかった。「ただ年を取っているだけ」で、尊敬の対象になるのか、幼い私には疑問だった。
 そうやって言ってしまえば、きっと「恥知らず」だとか「若者はなっちゃいない」だとか叱られてしまいそうで、口に出すことはできなかった。

 たぶん私は、「歳を重ねる」それ自体に価値を置くことの意味がわからなかったんだと思う。年数はどうであれ、その人がどういう人なのか、どういう経験をして、今どう生きているのか、それを見ることによって尊敬は生まれると思っていたのだ。

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 ストレスがたまると、「あーもう死んじゃいたい」とやけになることがある。そういうとき、たいてい頭に浮かぶのは、親じゃなくて、祖父母の顔だった。

 一緒に住んでいた私の家族は、アウトドアなタイプではなく、家族行事も特になかった。だからやったことがないことが結構ある。海に行くとか、家族で野外BBQをしに出かけるとか、そういう記憶がない。

 だからこそ、祖父母や曾祖父母の家に行ったときの経験は、私にとって新鮮に映ることが多かった。家のお庭でBBQをしたり、自然豊かなダムに行ったり。農家の物置小屋の匂いだったり、つきたてのお餅の味だったり。小さなことかもしれない。そういう記憶が、今の私の好みを作っているなぁ、と最近は感じる。

 いろんなことを自由にさせてくれた印象が、祖父母や曾祖父母の方があるのだろう。いなくなりたいと思って、実行に移そうとしたときに浮かんでくる顔はいつだって祖父母たちだった。
 たくさんの経験をくれた、その恩返しができていない。私がいなくなったら悲しむだろう。悲しませたくない。
 ――そうやって、どうにか実行に移さずに済む。そのブレーキは強力すぎて、どんなに「消えてしまいたい」と思っても、内側から込み上げる何かが涙になって押し寄せてくる。そうやって守られたことが何回もある。

 「もう生きていたくない」と嘆いたあるとき、ふと考えた。20年生きた私の、何倍の時間を祖父母たちは暮らしてきたんだろう?

 年齢なんて、ただの数字だと思っていた。そこに尊敬なんてなかった。けれどそのとき、一気に考えが変わってしまった。
 私が20年そこらで諦めそうになっている、この「生きること」を、彼らは私が生まれる前から、ずっとしている。それだけで、純粋に「すごい」と思った。何年も、何十年も生きること。そして、他人だったはずの相手と共に生活を送ってきた彼らが、心から尊敬する存在になった。

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 長生きすることって難しいよなぁ、と思う。「生きることって、ただ息してるだけとは違うんです。生きがいがあって、はじめて生きていることになるんです」といつの日か祖母は言ったことがあるという。
 生活のどこかに生きがいを見いだし、歳を重ねる。生きることを諦めず、暮らしを営むことが、どれだけ難しいか。なんとなくだけど、私は人より知っていると思う。

 
…エピクテトスは こう言いました
「記憶しておきなさい
 君はこの世界という演劇の 1人の役者であると
 君の役割はただひとつ
 与えられた役を見事演じること」と…

雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。』2巻 #9 より

 私は、孫という他の誰でも替えのきかない役割がある。それを抜きにしたって、祖父母たちが経験してきたことや、考えていることを聞きたい。そこには、親や友だち、知り合いから聞くこととはまた違う面白さと、私がまだいなかった頃の歴史があるからだ。そして何より、私が何度も諦めそうになる生きることを、身をもって教えてくれる。

 そうやって考えるようになってからは、祖父母の家を訪れる回数が増えた。私は孫という役を演じる。演じられる自分が恵まれていることも知っている。

 そうやって演じながら、同時に、彼らにも演じてもらっているのだ。私の、替えのきかない「おばあちゃん」「おじいちゃん」という役だ。その役は、何度も生死の淵に沈んだ私を助けてくれて、これからも生きていく理由をつくってくれた存在だ。だから、どうか長生きしてね。

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