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あの人


今思い返せば、それはまるで昔見た本の中に隠された、おもちゃの国の話のようだった。

黒いメガネをかけた藤井康介との出会いは、中学三年生の10月。受験生という立場にクラスの中で一番遅くに向き合った時だった。

彼は僕が通うことになった塾のアルバイトをしていた。いつも気だるそうなスウェットに、短くさっぱりとカットされた髪。

わからないと僕が聞いた数式を
スラスラと白板に書き、なにやらブツブツと呟きながら、彼は解き始めたり

僕は、それを冷たい鉄パイプの椅子に座りながら眺めた。

気難しそうに向き合ってるパソコンの中には
どこか知らない小学校の資料。

彼の将来の夢が先生になることだったのは、この時まだ知らなかった。

毎週憂鬱だった僕の火曜日は、とてつもなく幸せなものに変わった。あの汚いアパートの階段を上り、1番端のあの部屋の、ドアを開ければ、きっと彼に出会える。きっと彼の顔が見れる。

ただもう今はそれもうまくは思い出せない。

いつ頃から彼のことを気になり始めたのか。

もしかすると初めて会った時からだったのか。

それとも、彼の大きな背中に触れた時からだったのか。


僕が彼を好きになる理由も嫌いになる理由も、特になにも思わない理由も、あるわけじゃなかった。

ただ彼は、僕がわからないと言えば、一つ一つを丁寧に教え、僕が教えてもらっている教室のすぐ隣の部屋で、しんちゃんという男の子といつも楽しそうな笑い声をあげながら話をしているだけだった。それ以上、それ以下でもない。ただそれだけの存在だった。

生徒であり、先生であり、中学生であり、大学生であり、僕は彼の世界の名前のない登場上人物のひとりであった。

僕の世界で彼には名前があったけれど。

僕はいつもその隣の教室のドアに1番近いところに座り、ノートを取っているふりをしながらいつもそこに耳を傾けた。

どんな話をしているのか、どんなふうに笑うのか、どんなこと言えば彼は怒り、そして泣くのか。

たくさんのことが知りたかった。

そして、彼がかけている黒いメガネを

そっと外し、

彼の目にキスをしてみたかった。

火曜日の10時に、机の上に散らばったペンや、ノートを集め、バックにしまい、あの扉を閉めれば、小説を読むのをやめた時のみたいに、あの時間は終わる。物語はまるで、夢だったと言うような顔をして、僕の世界から消える。

だから僕は、誰よりも早く解き終わった問題をまだ解いているふりをしながら、いつまでもいつまでもあの空間に残った。

それをみて、隣の部屋から出てきた藤井康介はいつものように声をかける「早く帰りなさい」と、

そんな時、僕の心は冷たい氷水につけたみたいにぎゅっと締め付けられ、その空間にいたいという気持ちとは、逆の。早く消えてしまいたいに変わる。

なにを期待していたのか。

子供の僕にはわかっているようなわからないような、曖昧な気持ちだった。


たとえばもしあの時、僕がもう少し気持ちに余裕があって、彼からのどんな言葉でも受け止める自信があったのなら、その扉を閉めてしまう前に、気持ちを伝えてしまっても良かったのかもしれない。あるいはまた、そっと向こう側の岸辺へ、僕はここにいるよと教えてみても良かったのかもしれない。

彼との最後の思い出は、2016年の1月1日で止まってしまっている。

もうその時、藤井康介への想いは無いにも等しかった。それは流れの速い川の中で、石が少しずつ丸みを帯びて行くように、だんだんとそしてなんとなく消えていっていたのだった。

だけど、あの日。

友達と古い神社に初詣に行ったあの日。

僕が「今年こそは恋がしたい」と願ったあの時。

境内の下に伸びる急な階段を降り、オレンジ色の炎があがる広場へ、歩き出すと

甘酒を飲みながら炎を囲む若者のグループの中に、見覚えのある、あの広い肩が目に飛び込んできたのであった。

それはまさしく、藤井康介だった。

彼は僕を見つけるとニコッと微笑み、甘酒を片手に「おっ、こんばんは。あけましておめでとうございます。」と声をかけてきた。

定まらない焦点と、噛み切ってしまいそうな舌をなんとか落ち着かせて、僕はいつもと同じ調子、いやわざと少し焦ったように、全くそのまま同じ言葉を返した。そしてその場をすぐに去った。

人混みの中に消えていくあの人を見て、自分はこんなにも小さく、そしてまだ子供だということを実感した。とても惨めだった。

向こうの岸辺にいるあの人に
声をかけようたって、石を投げつけようとしたってそれは、届くことはないだろう。

僕が年をとるだけ、あの人も年をとる。
その距離は、狭まることも広がることもなく。ただ2人の間を流れる大きな川のように。

それだけじゃない。それだけじゃないけど、その話はしたくない。もうこんな気持ちになるのは散々だった。

聞き耳を立てた、あの人の周りの人たちが話していること「お前が先生になるなんてなぁ」確かそんなことを言っていた。

夢叶ったんだ。きっとあのアパートにはもう来ないんだろう。僕は悟った。

そして僕も、もうあのアパートにはいかない。

炎の中で木の枝が、バチっと大きな音を立てて燃え。

僕の初恋とともに、空に上がった。

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