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流動する素粒子たちへ

「手抜き」を科学する。
脱力系サヴァイバーの いつもタツオです。

このnoteでは、がんじがらめの状況でも、フェイクや根回しを駆使して、如何に自分の時間を作れるかを日々、研究し実践しているよ。(今日は10分で読める)


久々のnote更新になるんだが、いきなり本題から逸れたヘビィーな話になっちゃうな。

今日の話は、「かなり重たい話を如何に軽々しく話せるか」を念頭に置いてチャレンジしてみようと思う。

先に言っておくけど、僕は思想家でも宗教家でも無い。何処ぞの馬の骨「いつもタツオ」だ。

日々、人が考えない様なこと(というより考えるだけ明らかに無駄だと思うこと)を熟考する「自称 哲学者」なのだ。


さて本題に入ろう「流動する素粒子」について


ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

古典、方丈記(鴨長明)の冒頭の部分だ。

この方丈記の僅か30文字足らずの冒頭文がこの世の真理を表現しきってしまったんじゃないかと僕は思っている。

この文面は定点的に河を見ている状態だ。そしてこの河を比喩としてワイドにスケールし、鴨長明の独特な世界観に誘い込まれる。


僕が今日話したいことは、少し視点をずらした話だ。そう、この水の正体と行方についての話だ。

河は次第に広がってゆったりと流れ、やがて海へ。

海は潮の満ち引きを繰り返し、太陽の光を浴びて蒸発する。

それはやがて雲となって空を流れる。

雲は互いに引き寄せあって厚みを増して行く。

重たい雲が山に掛かって雨を降らせる。

雨は地面に染み込んで、やがて河となる。

このサイクルは永遠と繰り返されるが、一つとして同じものは無い。そう、常ならぬものなのだ。無常…。


理科の教科書×国語みたいな話になっちゃったなw。


何が言いたいかって言うと、全ては流動しているって事なんだ。

同じ様な光景に見えているだけで、常に物事は流動している。

何も水に限った話をしている訳ではないよ。

もっと複雑な話になるけど、全ては「素粒子の集合体」と考える立ち位置で僕は物事を見ている。

この「素粒子」も新しい物がくっついては消え くっついては消えを繰り返す。

僕や君の肉体だって例外ではないよ。

以前に言ったかもしれないけど、僕に信仰心がないことは、この事に由来してると言っても過言じゃないね。(まぁ、ある意味では素粒子と言う概念を信じている事になるか)

あっ。何も神や仏を蔑ろにしている訳ではないよ。どちらかと言うと、日本人に馴染み深いアニミズムに近いのかも知れない。(何だか難しい話になって来ちゃった。僕が超絶くそ野郎と言うことをお忘れなく!)

価値観は多様で、宗教観や思想も全て人それぞれで良いと思う。そしてこれはあくまでも僕の我流哲学での話だよ。


う〜ん。実はこの考え方を突き詰めて行くと、宇宙で起きていることから自分の体内まで全てが繋がってくるんだよ。

つまり、なんて言うか。

僕らが生きているか死んでいるかは大した問題じゃないってことかな…。(頭おかしいと思ったでしょ?うん。若干おかしい)

これ以上 深掘りすると元に戻れなくなりそうだから、掘るのはこの辺りにして広げて行くよ。

大切なことは、僕の命が絶えて肉体が滅んでも、僕は素粒子レベルになって「誰か」もしくは「何か」の一部となって存在し続ける訳さ。(マジで頭おかしく感じるかな。軽く目を通してくれ)

大切な人や大切な物を失ったとしても、それは失った様に感じているだけ。

その人たちは素粒子レベルになって僕らの短なところで流動し、循環しているってことかな。

つまり、このタツオを形作っているものも、常ならぬ流動性の素粒子に他ならないのだ。


大きく捉えると「君は僕で僕は君」みたいな事になってくる。(いよいよヤバイ感じになってきちゃったけど、僕はマジです。キリッ)

これによってどんな相手にも寛容になれるってこと。
勿論、何でも許せという訳ではないよ。本当にどうにもならなくなった時に有効な思考法かも。

僕は以前、我が恐妻デスボイスからの惨劇を受けた時、この思考法で乗り切った実績がある。(詳しくは 現実はバカ正直の大量生産②辺りをよんでくれ)

物凄く曖昧で抽象的な考えの様に見えるけど、実は合理的でリアリズムを追求した考え方だと僕は思った訳だ。

僕が考案している「超絶くそ野郎の流儀」の中で、フェイク系鈍感人というのを推奨している。

フェイク系鈍感人の心構えとして、忍耐せねばならぬ時、この「常ならぬ流動性の法則」を頭に入れておくと、気が動転したり感情の波にのまれることは少なくなる。

まぁ、あくまでも僕に限った話だが…。


今回は、「重い話を軽々しく」だなんていったけど、やはり終始重かったなぁ。

皆さんも様々な思考法をテストすると自分にあった面白いものに出会えるかも知れないね。

軽々しく言えば、思考法も洋服と同じで、その時にその場に見合ったものを身につける感じでいいんじゃないかw

頑固に難しく考える必要は無いと思うな。何しろ物事は常に流動的なのだから…。

最後まで読んでくれてありがとう。

PS:降りしきる雨、いつぞや誰の素粒子か。読んでくれた人に新しい発見がある事を心より願っている「いつもタツオ」より

-おしまい-

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