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小説 トビの舞う空 最終話


「おい、舜太!昨日カレンちゃんとどこ行ったんだよ」

月曜日、舜太が教室に入ると、ランボーが待ってましたと絡んで来た。騒ついていたクラスが急に静かになった。

「美術館に絵を見に行ったんだよ」

「お前ら手繋いでたよな、付き合ってんのか?」

ランボーは舜太の机に手を突いて顔を覗き込んだ。

「あ、いや」

舜太は、もしランボーに何か言われたら、堂々と交際宣言してやろうと意気込んでいた。しかしクラス全員の前で、宣言するほどの度胸はなかった。

「まさかお前とカレンちゃんが、そんな訳ねえよなあ、ハハハ」

完全に馬鹿にされた、舜太はランボーをキッと睨みつけた。

「あん?何だその目は、言いたいことあんのか、おい!」

ランボーは凄みを利かせた。

すると突然、教室の後ろの扉がバンと大きな音を立てて開いた。そしてカレンちゃんがツカツカと入って来た。

いきなり現れたカレンちゃんに、クラスの皆が一斉に目をやった。

カレンちゃんは、舜太とランボーの所に来ると、毅然と言い放った。

「私と舜太は付き合ってるよ、何か文句ある」

カレンちゃんの突然のカミングアウトに、クラス中がざわめいた。そして舜太も覚悟を決めた。

「僕はカレンちゃんと付き合ってます。僕は小さい頃からずっとカレンちゃんが大好きです。これからもずっと」

廊下にまで響き渡る大声で舜太は言った。二人の堂々とした交際宣言にクラスはシーンと静まり返った。

「何だよもう、敵わねえなあ、コッチの方が照れちゃうじゃねえかヨ。まあ何か知らんけど、おめでとう!」

静けさを破りランボーが一人拍手を始めた。するとクラスの一人また一人と拍手を始めた。

「パチパチパチパチ」

「ヒューヒュー」

「おめでとう」

いつの間にか、廊下から他のクラスの生徒達がたくさん覗き込んでいた。

交際宣言をやってのけた舜太とカレンちゃんに向けて、大きな拍手が沸き起こった。

カレンちゃんとの交際宣言の後、いつも孤独だった舜太に友達が増えた。

ランボーは口は乱暴だが、話すと気さくないい奴だった。サッカー部キャプテンのウッチーは絵が好きで舜太ととても話が合った。

クラスの中での存在感が増して行くに連れ、舜太の高校生活は次第に充実したものになっていった。

勝手に殻を閉ざしていたのは、舜太の方だった。自分から積極的に働きかける事で周囲の状況は一変する。そんな経験は舜太にとって初めてだった。

舜太はトビの舞う空を美術館に寄贈したいと、美術部の小森先生に相談した。

先生の人脈は幅広く、教え子には美術界で活躍する人が多数いた。先生は江島早雲に詳しい専門家を紹介してくれる事になった。

小森先生が舜太に紹介した専門家が、絵の真贋判定に家に来る事になった。

舜太はかあちゃんに、画商の人が来ると伝えると、ようやく売る気になったかと大いに喜んだ。

真贋判定の日、カレンちゃんと渡辺、そして何故かランボーとウッチーも来たいと言い出した。舜太はゾロゾロ四人を引き連れ家に帰って来た。

玄関には、黒い革靴が揃えて置いてあった。見慣れない靴だった。だが舜太はその靴に不思議と親しみを感じた。

舜太は四人の友人と居間に入った。かあちゃんと向かい合って、真っ黒なスーツ姿の男が背中を向けて座っていた。

「こんにちは、お邪魔します」

友人達が一斉にかあちゃんに挨拶をした。

「おやおや、お前こんなに友達いたのかい」

かあちゃんは少し嬉しそうだった。

専門家の後ろ姿を見た舜太は一目で気付いた。この髪型とポマードの匂い、まっ黒なスーツ、この人は、もしや!

「み、みやけ!」

舜太が言うより先に、カレンちゃんが叫んだ。

「ご無沙汰しておりました。舜太様、カレン様、またお会い出来てうれしいです」

専門家の男はそう言いゆっくりと振り向いた。小森先生の紹介した、江島早雲の専門家とは三宅の事だった。

「三宅!会いたかった、元気にしてた?」

舜太が駆け寄り三宅の手を取ると、カレンちゃんもその上から手を握った。

「あら、知り合いだったの、大人を呼び捨てしては失礼でしょ!」

「良いんですよ、お母様、舜太様とカレン様は私の友達ですから」

「はあ、そうですか」

かあちゃんは狐につままれた様な顔をした。

舜太が振り向くと、ランボーは怯えた様子で渡辺の後ろに隠れていた。

「ランボー大丈夫だよ、三宅は優しいだから、江島早雲のアシスタントだった人」

学校にいる時の俺様ぶりは何処へやら、ランボーは意外とビビリな所もあった。

「トビの舞う空、この作品は、私の目の前で先生がお描きになられました。真贋の判定などは必要ありません。本当にすばらしい作品で、先生の晩年の代表作と言える一つです。この絵を舜太様にお渡ししてから、もう十年近く経つのですね。よくぞ大切に持っていて下さいました」

舜太の部屋に飾られた、トビの舞う空を三宅は感慨深げに見た。

「画商の人達が毎日の様にやって来て、売れ売れと大変だったんだよ」

「そうでしたか、早雲先生の作品は大変人気ですから。よく売らずに持っていてくださいました。きっと先生も喜んでいらっしゃいます」

サングラスの下の三宅の小さな目が優しく微笑んでいた。

「億の金額を提示する方もおられたんですよ。でも息子の大切な絵なので、お金の問題ではございません、とキッパリお断り致しました。オホホホホ」

いつも外面ばかり気にするのはかあちゃんの悪い癖だ。この絵を売れ売れとけしかけていたのはかあちゃんだろ、舜太はかあちゃんをジロリと睨みつけた。

カレンちゃんは苦笑いし、舜太の肩を叩いた。

「おく、億、この絵が億するのか!」

ランボーが素っ頓狂な声を上げた。

舜太は三宅に友達を紹介した。

「ランボー様、ウッチー様、三宅です。どうぞよろしくお願いします」

三宅は高校生二人に向かって深々と頭を下げた。

「ランボー様、ウッチー様って、相変わらずバカ丁寧ね、三宅って面白いでしょ」

カレンちゃんの言葉を聞いた二人は、ようやく安心した様に微笑んだ。

「今日は、トビの舞う空の事で舜太様にご相談があって参りました。実は近々、江島早雲美術館を建設する事になりました」

「ほんと?それはすごい!」

「そうなんです。で、私がそこの館長になる事になりまして」

「えー、三宅が館長!大丈夫う」

カレンちゃんがツッコんだ。

「いや、まあ、何度もお断りしたのですが市の担当者の方に、館長は私以外に考えられない、と言われまして、熱意に押されお引き受けしました」

三宅は照れくさそうに頭を掻いた。

「江島早雲美術館に、ぜひ舜太様のトビの舞う空を展示させて頂きたいと考えております」

「うん、それなら僕はこの絵を喜んで寄贈するよ。トビの舞う空はもっと沢山の人に見てもらうべきだ。多くの人達がこの絵から元気をもらって欲しい」

寄贈と口に出した舜太は、かあちゃんを恐る恐る見た。

かあちゃんは意外にも穏やかな表情だった。猛反対に合うであろうと覚悟していた舜太は拍子抜けした。

「舜太様、それは素晴らしいお考えです。ですがこの絵は早雲先生が舜太様に差し上げた物です。寄贈して頂く訳には参りません」

「でも三宅、僕は」

「舜太様、実は先程お母様に一つご提案させて頂きました。トビの舞う空を、江島早雲美術館にレンタルして頂けないかと考えております」

「レンタル?」

「そうです、この絵をお借りするという事です」

「なるほど、レンタルか」

舜太にとってまさに目から鱗の提案だった。

「トビの舞う空を、舜太様がとても大切にしておられた事は、十分存じております。ただご自宅では、保存状態が良いとは言えません。絵の具が剥がれかけている箇所も所々ございます。修復が必要な箇所は修復し、絵にとって最適な環境で、大切にお預かりさせて頂ければと考えております」

「ね、舜太、良いお話でしょ」

かあちゃんはニコニコしながら言った。

「そんなすごい条件で、ありがとう三宅!」

「もちろんトビの舞う空のレンタル料もお支払い致します」

「舜太、あんた美術大学に行きたいんでしょ?」

舜太は、渡辺から一緒に美術大学に行こうと誘われる度に、口を濁していた。兄弟の多い舜太の家に、美大の高額な学費の負担は難しいだろうと考えていた。

「かあちゃん、何で僕が美術大学に行きたい事知ってるの?」

「さっき三宅さんからお聞きしたのよ」

「舜太様が美術大学に行きたい事は、小森先生に伺いました」

「かあちゃん!俺、美術大学行っていいの?」

かあちゃんは頷いた。

「あと絵が見たい時に、いつでも見られる様に、江島早雲美術館の永久フリーパスを発行させて頂きます。もちろんご家族やカレン様、お友達もご覧になれます」

「ありがとう三宅!ありがとう江島早雲!ありがとうみんな!ありがとうかあちゃん!」

舜太はカレンちゃんと二人でトビの舞う空の海岸にいた。
「舜太よかったね、美術大学に行けるね」

「うん、これからがんばって苦手なデッサンの練習しよ」

夕焼け色に染まる空に、江ノ島と富士がシルエットで浮かんでいた。

「カレンちゃん、僕は決心したよ。僕は画家になる。人の心に響く、そしてみんなに元気を与えられる絵を描きたい!」

「うん!舜太なら絶対なれる」

「でも、もしかしたら僕の絵は売れないかも知れない。ずっと貧乏な生活になるかも知れない。でも僕はカレンちゃんと一緒にいたい」

「私は、ずっとずっと前から、舜太の絵の素晴らしさを誰よりも知っているつもり。舜太の絵の為になら、プロサーファーでもモデルでも、私が何でもして稼ぐから大丈夫!」

江ノ島のシーキャンドルが灯り、二人を照らした。

「カレンちゃん」

「舜太」

波止めコンクリートに座る二つの影が一つに重なった。

舜太と渡辺は同じ美術大学に進学した。大学進学と同時に舜太とカレンちゃんは、海岸の近くに小さいアパートを借り、一緒に住み始めた。

高校では舜太より成績の良かったカレンちゃんだが、大学には興味が無いと言い、勿体ないと言う周囲の声を他所に進学しなかった。

絵に没頭したい舜太はバイトも出来なかった。カレンちゃんはサーフィンの傍らモデルの仕事を始めた。

美少女サーファーとして既に名の知れていたカレンちゃんは、瞬く間に人気モデルとなり、CMやテレビのバラエティー番組にも出る様になった。

舜太は、大学の学費こそトビの舞う空のレンタル料で何とか賄う事が出来たが、生活費はほとんどカレンちゃんにおんぶに抱っこの生活だった。

家事のほとんどは、家に居る舜太がしていたが、カレンちゃんのヒモのような生活を舜太は送っていた。

高価な絵の具や、キャンバスなど、舜太の絵の為ならカレンちゃんは何も惜しまなかった。

渡辺は写真の様に緻密な描写が世間に評価され、大学在学中から少しずつ絵が売れ始めた。

大学を卒業すると同時に渡辺はニューヨークに行った。世界的なオークションで作品が次々に高値で落札され、渡辺は人気アーティストとなった。

舜太は美術大学を卒業してプロの画家となったが、絵は全く売れなかった。金の稼げない画家はプロと名乗る資格は無い。舜太は思っていた。

「俺が画家になれたのは舜太のおかげだ。俺は舜太に一番感謝している」

渡辺は舜太にいつもそう言った。

「お前はすごいよ、今や売れっ子だもんな」

「でも舜太には敵わない。売れたのはたまたま運が良かっただけだよ」

舜太は渡辺の言葉を素直に受け取れなかった。絵が売れることは世間の評価が高いということ。売れない自分の絵は誰にも必要とされてない。舜太は思っていた。

売れた渡辺への嫉妬、カレンちゃんの脛を齧りながら暮らしている自分の不甲斐無さ。このままで良いのだろうか、舜太はえもいわれぬ焦燥感に駆られていた。

「いい加減ちゃんとしなさいよ!カレンちゃんをいつまでも待たせる訳にはいかないんだからね!」

かあちゃんは舜太と顔を合わせる度に、言う様になった。舜太は実家にも次第に足が遠のく様になった。

ランボーは大学を出て、高校の体育教師になり、柔道部のコーチをしている。ウッチーはイケメンJリーガーとなり日本代表候補にも名前が上がる程だ。

友人達の華々しい活躍を耳にする度、舜太はますます自分だけが取り残された気になった。いつも劣等感にさいなまれた。

江島早雲の言葉を守り、一枚一枚心を込めて描いて来た。人に元気を与えられる様にと願いを込めて描いた。いい加減な気持ちで描いた作品など一つも無い、舜太にはその自信があった。

だが舜太の絵を必要としてくれる人はいつまで経っても現れない。どんなに心を込めて描いた絵も、押入れの中に積まれて埃を被って行く一方だった。

「あのトビだって、大空を一人で飛んでいる。でも、僕はいつまでたっても飛ぶことすらできない」

青空を舞う一匹のトビを、キャンバスに描き足そうとした時、舜太は描く手を止め、カタリと筆をパレットに置いた。

その夜、ついに舜太は弱音を吐いた。

「カレンちゃん、ごめん、俺もうダメかも」

人生なんて思い通りにはならない。自分は田んぼにポツンと残された古い案山子、雨風に晒され色褪せ破れた服を着、傾いたその姿は今にも倒れそうだ。役目を終えた汚い案山子など、気付く者は誰もいない。

友達はみんな、立派な社会人として自立した生活を送っている。なのにいつまでも自分はカレンちゃんに食わしてもらさいる。舜太に日に日に増していくのはえもいわれぬ焦燥感だけだった。

「いつも迷惑ばかり掛けてごめん、俺の絵は売れない。才能が無いんだ。絵は諦めて、他の仕事を探すことにした」

舜太はポロポロと涙を流した。

「舜太、大丈夫だよ」

カレンちゃんはそんな舜太の頭をそっと抱き寄せ、髪の毛を優しく撫でた。

朝早くから夜遅くまで多忙な毎日を送るカレンちゃんだが、舜太の前で疲れた表情は見せない。弱音や愚痴を吐く事は一度も無かった。

「舜太、明日、江島早雲美術館に行こう、朝早く行って、三宅に特別に開けてもらおう!」

今日も疲れて帰ってきたはずなのに、カレンちゃんはいつもの笑顔で言った。

翌朝、舜太とカレンちゃんは江島早雲美術館に行った。貸切の館内の「トビの舞う空」の前に二人並んで立った。

「舜太、江島早雲が絵で食べられる様になったのは、四十歳を過ぎてからだって」

カレンちゃんは絵を見て言った。

「私は舜太の絵が好き、世界中の誰よりも私が一番好き。私は舜太の絵からたくさん元気を貰っているの。舜太の絵はすばらしいよ!きっとみんなの心に届く日が来るから、大丈夫、焦らないで」

しんと静まり返った展示室に、カレンちゃんの声が響いた。

「舜太様!私も応援団の一人ですよ」

薄暗い館内で、突然真後ろから声を掛けられ、舜太とカレンちゃんは振り向いた。

「びっくりしたなあ、もう、三宅いたの?」

「申し訳ございません、ずっと後ろで聞いておりました。舜太様、やり続けるのです。きっともうすぐです、諦めたら終わりです。早雲先生にもそんな時がありました」

ランボーと小森先生は、海岸で描いている舜太の所に、よくコーヒーを持ってやって来た。この前はウッチーが遠征の合間にひょっこり顔を出した。

「お前の絵には力がある。お前の絵を見ると元気が出る。見に来て良かった!ありがとう」

いつもみんな舜太の絵を見て、そう言った。

暗い館内で、トビの舞う空にスポットライトが当たっていた。舜太は、まるで絵が空中に浮いている様に見えた。

その時、トビの舞う空の中のトビが一瞬羽ばたいた様に見えた。

舜太は瞬きをしてトビを凝視した。するとトビはクルクルと円を描いて絵の中を飛び始めた。

そんな馬鹿な!舜太は目をこすった。するとトビは絵の外に飛び出して来て、眩い光の塊となった。光は少しずつ伸びて、人の形に変わって行った。

光の塊は舜太と出会った頃のお爺さんの江島早雲の姿となり、舜太に話し掛けて来た。

「舜太君の絵は、本当に誰も必要としてないのかい?違うだろ?皆、舜太君の絵を必要としている。そして君を応援している。君がこうして絵を描き続ける事が出来たのは、そんな応援してくれる人達がいるからでは無いのかい」

舜太は黙って頷いた。

「君は描き続けなければならない。そして君の絵でみんなに元気を与えなさい。それが君が表すことのできる唯一の感謝の気持ちなんだよ」

お爺さんは微笑みを浮かべた。そしてフッと絵の中に消え、一羽のトビの姿に戻った。

「舜太、舜太!ねえ、大丈夫?」

カレンちゃんと三宅が心配そうに舜太を覗き込んだ。二人に江島早雲の姿は見えなかったようだった。

どうやったら売れるか、どんな絵を世間は求めているのか、舜太はそんな事ばかり考える様になっていた。

「カレンちゃん、三宅、僕はどうかしてたよ。ありがとう、お陰で目が覚めた。もう大丈夫。これからも僕は描き続ける。僕の絵を必要としてくれる人が一人でもいる限り」

舜太はトビの舞う空を見上げて誓った。

舜太はその日から、生まれ変わったかのように、精力的に絵を描き出した。絵を描く舜太の表情は、画家を夢見ていた頃の、生き生きとしたものに戻っていた。

自分を追い詰めていたのは、結局自分自身だった。売れなければという重圧から逃れた舜太の絵は、研ぎ澄まされていった。

自分の為ではない、みんなの為に。この絵を必要としてくれている人たちに感謝の気持ちを込めて。舜太は絵への情熱にあふれ、魂込めて一枚一枚描いた。

ある日、舜太がいつもの海岸で描いていると、背中に視線を感じた。振り返ると一人の少年が舜太の絵を見ていた。

「ごめんなさい!」

少年は振り向いた舜太に驚いて、頭を下げた。

「謝る事無いんだよ、君は絵が好きなのかい」

「うん大好き!おじさんの絵何かすごい!」

「ありがとう、どうぞお座り」

舜太は予備の椅子を開いて少年の足元に置いた。

今日はこのくらいにしておこうか、と舜太が筆を置き振り向くと、少年はまだ座っていた。

「おじさん、もう終わり?」

「うん、風も出て来たしね」

「また見に来ていい?」

「いいよ、大歓迎だよ、天気の良い日は大体ここにいるから、いつでもおいで」

「ありがとう、おじさん!」

少年は、折りたたみ椅子を畳んで舜太に返した。そして自転車に跨り、手を振りながら帰って行った。

「おじさんね、あの子から見たら、俺はもうおじさんだよな」

かつて自分がここで、江島早雲に初めて出会った時の事を思い出し、舜太は苦笑いした。

次の日少年は、友達だと言う少女を連れ、二人でやって来た。舜太の絵を見るなり少女は叫んだ。

少女は舜太の絵を見るなり「すてき!」と声を上げた。少年は「な、すごいだろ」と自慢気に言った。

可愛い二人は、まるで昔の舜太とカレンちゃんの様だった。舜太は一つしかなくてごめんね、とパイプ椅子を開いて置いた。

二人は一つの椅子にピタリとくっついて座り、舜太の描く様子を真剣な眼差しで見ていた。

週末になると、少年と少女はそれぞれの家族を連れて見にやって来た。

そこに三宅が偶然やって来た。

「おお、これは大変!」

と言うと、慌てて何処かに行ってしまった。

程なく三宅は、軽トラに乗って戻って来た。そして荷台に積んできたパイプ椅子を降ろし、舜太のギャラリー達の為に椅子を並べた。

舜太のギャラリーは日に日に増えて行った。人が人を呼びギャラリーは次々と増えて行った。

三宅は美術館のパイプ椅子を全て持って来たが、それでも足りなくなり、ついに立ち見まで出る様になった。

ギャラリーの多さに、地元新聞に「江島早雲の愛弟子現る」と舜太が取り上げられた。雑誌やテレビの取材まで来る様になった。

どこで噂を聞き付けたか、以前舜太の家にトビの舞う空を買いたい、と訪れた見覚えのある画商達まで品定めに現れた。

「皆様、いつも見に来て頂きありがとうございます。この絵は完成致しました」

沢山のフラッシュが焚かれ、舜太に生中継のテレビカメラとマイクが向けられた。

「僕の大好きな江島早雲先生の絵と、同じタイトルを、この絵に付けたいと思います」

ざわつくギャラリー達がしんと静まり返った。

「『トビの舞う空』と名付けます」

「うおー!!」

大きな歓声が上がった。

「50!100!200!300!」

立ち見の画商達が次々と手を上げた。海岸は舜太の絵の即席オークション会場と化した。

「500!800!!」

値段が釣り上がるに連れ、ギャラリー達の熱気はどんどん増していった。

「900!!!」

いよいよ大台か!会場の空気がピンと張り詰めた。

「せんえん!」

一番前の椅子に座っていた少年が、大声で手を上げた。

「ワハハハハハハ!」

ギャラリー達から笑いが起こった。

自分が何故笑われているか理解出来ない少年はキョトンとしていたが、やがて場違いな事を言ってしまった、と気付き俯いてしまった。

舜太はそんな少年の頭を優しく撫で、ギャラリー達に向かって言った。

「皆様、笑わないでください。僕はお金の為に絵を描いているのではありません。僕の絵が少しでも皆様に元気を与えられたらと思って、ただそれだけの思いで、心を込めて描いています」

舜太はイーゼルから絵を外し、少年に差し出した。

「ありがとう。君は一番最初にこの絵をいいと言ってくれた。この絵は君にあげる」

少年は満面の笑みを浮かべた。

「ありがとう」

少年は小さな手を一杯に広げ、キャンバスを受け取った。

大きな拍手が海岸に響き渡った。観光客までもが足を止め、拍手していた。

「皆様、江島早雲美術館にて舜太先生の特別展を開催致します。同時に展示即売会も行います。どうぞお越しください」

いつの間に作ったのだろうか、ギャラリーの一人一人に、三宅がチラシを配って回っていた。

白い軽トラが一台、駐車場のバーを潜って入って来た。

舜太は軽トラの助手席から降りると、両手の指で四角形を作った。腕を伸ばし、片目で眺め、構図を確かめた。

「三宅、ここにしよう」

「ハイ、先生」

三宅は、慣れた手付きで軽トラの荷台からイーゼルを降ろし、舜太の指差す方に立てると、キャンバスと椅子をセットした。

舜太はコンテを持つと、勢い良く描き始めた。純白のキャンバスに命が吹き込まれてゆく様を、三宅は後ろに座り静かに見ている。

黒のサングラスに黒のスーツ。全身黒づくめで直立不動の姿は、舜太が出会った頃から全く変わらない。

少し変わった事と言えば、白髪が増えて髪の毛がごま塩になった位だろうか。

「三宅、美術館に戻らなくて大丈夫かい?」

「ハイ、先生、大丈夫です。副館長がおりますから」

「ハハハ、三宅はやっぱり面白いなあ」

「ハイ、先生」

「ハハハハハ」

波間に揺れる無数のサーフボードから、手を振る二人の姿があった。

「おーい!パパー、みやけー」

カレンちゃんと小さな男の子が、一緒にサーフボードに跨っていた。

舜太と三宅は手を振り返した。

午前の新鮮な光を反射してキラキラと輝く海。緑が鮮やかな江ノ島に渡る細い橋。その向こうに小さく見えるとんがり帽のような烏帽子岩。水平線に連なる伊豆半島。そして雪をまとった富士。

雲一つない真っ青な空には、一羽のトビが舞っていた。



トビの舞う空 完

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