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肛門が、腫れる

中学二年生の頃、突如肛門の左側が腫れ始めた。それはどんどん熱を持ち、大きさを増し、ジンジンとする痛みが私を常に襲っていた。
 しかしその頃私は思春期真っ盛り。『肛門が腫れているのですが・・・』とは出来れば誰にも言いたくない。私はしばらくその痛みを我慢していたが、肛門左の腫れが鶏卵サイズになった頃、私の我慢は限界に達した。母に『肛門が腫れてめちゃくちゃ痛い』と言った。母は病院代がかかるので医療に頼ることに若干否定的だったが、札幌の肛門科を探してくれ、一件の肛門科にかかることになった。
 肛門科では診察台のベッドの上で横になり、ズボンを下ろしてお尻を突き出した格好で医者を待ち、尻にタオルを掛けられた。
 医者がやって来てタオルをぺろりとめくり、「はい失礼しますよー」と言ってお尻を見られた時、私は神社で町内会のおじさんにお尻を見られる生活のことに少し感謝した。なぜなら羞恥心が死んでいるおかげで私は医者にお尻を見られることがほぼ恥ずかしくなかったのだ。
「これは痔瘻(じろう)ですね、すぐ切開しましょう」
 お尻を見た医者はすぐに言った。
 じ、じろう?!
 切開!?
 私は動揺したが、すぐに処置室に連れて行かれ、私は診察台にズボンと下着を下ろした状態でうつ伏せになるように指示された。
「はいちょっと失礼しますよー」
 手慣れた様子の看護師さんが言い、私のお尻を開く感触がして、ビリッという音がした。
 私のお尻は完全に両側に開かれ、お尻の両ほっぺをガムテープで診察台に固定された。
 さすがの羞恥心が死んでいる私も、『こんな屈辱があるだろうか』と思った。私の大事なお尻を、ガムテープなんかで固定される日が来るとは思わなかった。確かに、肛門の手術をするのにはお尻を開いてガムテープで止めるのが一番合理的なのだろうけど、私の大切なお尻をもっと大切に扱ってくれ、と思った。
 それから腰に打つめちゃくちゃ痛い麻酔をして、腫れている部分の切開が行われ、私は劇的な肛門の腫れと痛みからは解放されたが、全て終わってから医者が言った。
「痔瘻になるのは年配の男性が多いです。こんなに若い女性がなるなんて、クローン病の可能性が高いので、紹介する病院できちんと検査をしてください」
 と。
 
 
 
 難病になる
 
 クローン病・・・?クローン人間的な何か・・・?その頃はまだインターネットがそんなに普及していなかったし、普及していたとしても神社にインターネットが通っているはずもなく、私はクローン病についての知識をほぼ得ないまま紹介された病院に行った。胃カメラや大腸カメラ、バリウム造影など一通り苦行のような検査を行われ、
「クローン病で間違いないですね」
 と言われ、そのまま入院することになった。
 クローン病とは、原因不明の難病で、消化管の全てが炎症を起こし潰瘍が出来まくるという厄介な病気で、厳しい食事制限が必要となる、とのことだった。言わば故・安倍元首相がなっていた、『潰瘍性大腸炎』のアップグレード版である。(潰瘍性大腸炎は大腸にしか炎症が起きないが、クローン病は消化管の全てに炎症が起こる)私は中学二年生にして首相退陣レベルの難病に罹ってしまったのである。そう、クローン病は『難病』だから、一生治ることはないのだ。
食事制限のNG食はカレーやラーメンや焼き肉やケーキなど、若い人が好きな食べ物のほとんどで、悪化させたくなれば精進料理のようなものを食べて暮らせ、とのことだった。潰瘍が出来ている時には栄養剤のみで暮らしたり、時には絶食も必要となり、点滴生活も必要とのことだった。
私はこれから先、一生この病気と付き合っていかなきゃいけないこと、一生精進料理生活になること、試しに飲んだ栄養剤のまずさなどなどが受け入れられずにひたすら病院で泣いて暮らした。看護師さんに後から『ふみちゃんがこんなに明るい子だと思わなかった』と言われるほどには泣き続けていた。ほら、やっぱり神様なんかいないんじゃん、と思った。
 そんな私が泣き続けている時に、『ふみちゃんに見せたいビデオがあるの!』と看護師さんに言われ、私はビデオが見られる部屋に案内された。
 そこの部屋で見せられたビデオは、鼻から胃まで細い管を入れ、点滴のように少しずつ栄養剤を落としていく、というハード映像で、私はその映像が衝撃的すぎてまた泣いた。私はこれからこれをやらなきゃ生きていけないのかよ、と思った。看護師さん的には、『あのまずい栄養剤を飲まなくて済む方法があるよ!』という前向きな提案だったようなのだが、まだ病気を受け入れられていない私には刺激が強すぎて逆効果だった。
 私はその時消化器科ではなく、小児科で診てもらっていたので、いろいろな病気の子が入院していた。私はその時『私が世界で一番不幸』、くらいの気持ちに浸っていたのだが、隣のベッドになった一つ年下の子が、
「私は生後一ヶ月も生きられないって言われたんですよ〜アハハ〜」
 と言っていたので、『私はクローン病でまだマシだったんだ・・・』と割とすぐ思えたことは幸運だった。
 私はそれから入退院を繰り返すようになり、入院のたびに絶食していた。あまりに入院しすぎて一年の半分くらいを病院で過ごした時もある。ちなみに入院する度に親戚が『信仰が足りないからそうなるんだ』と言ってきてとてつもなくうざかった。私が辛い時に私の側には『辛いね』と寄り添ってくれるまともな大人は残念ながら誰もいなかった。
私は入院しすぎて病院のことを、『第二の家』と呼んでいた。私は入院生活が長くなるにつれ第二の家でかなりリラックスして自由に過ごすようになっていた。第二の家に遊びに来てくれた友達と深夜の外来でおしゃべりをしていて、夜中病室のベッドを見回っていた看護師さんに、『ふみちゃんがいない!』となって探しに来られた時はめちゃくちゃ怒られた。ちなみにだが、入院仲間でクローン病仲間ができた時、私とその子は
「一日中食べ物が出てる番組を見てる」
 という共通点があった。看護師さんいわく、
「絶食してる子、みんな食べ物の番組見てるのよね〜、食べれないんだから見なきゃいいのに」
 とのことだった。多分だが、物理的に食べることが許されない人は、視覚で食欲を満たす術を身につけるのだと思う。人の欲はすごい。
 その頃入院していない時は、エレンタールという脂質の低いクソまずい栄養剤を口から飲むか、鼻から入れるかをしながら、とにかく脂質と刺激と繊維を除いた食事で食事制限をしていた。家でのご飯は主に魚とささみがメインだったので、こってりしたものが食べたい食べ盛り的には残念な食事ばかりだった。どうしても刺激物であるカレーが食べたい時は、本当に時々幼児用アンパンマンカレーを食べたりしていた。
他には友達とご飯を食べに行ってもひたすらうどんだったり、友達とうっかりファストフード店に入っても食べられるものがなくて自分一人は飲み物だけだったり、こしあんの和菓子なら食事制限のどの要素も合格しているので無限に食べたりしていた。NG食を食べるとすぐにひどくお腹を下して腸に潰瘍ができたり痔瘻が悪化するので、なるべく我慢するようにしていたが、時には持病の悪化覚悟でNG食に挑むこともあった。
 大学生の頃私はクローン病と同時に婦人科系の病気にも悩まされていた。バルトリン腺炎という、セックスの時に潤滑液が出てくる部位が腫れて膿を持つ病気だった。私は婦人科に行き、切開して膿を出してもらうということを何回もやった。婦人科の先生はバルトリン腺炎だと言い切っていたが、私は疑問に思っていた。というのは、お腹を下し、下痢をするとそこが腫れるのだ。なぜ下痢をするとバルトリン腺が腫れるのだ・・・?と私は自分のそこの『腫れ』がバルトリン腺炎であることに懐疑的だった。クローン病が関係しているのでは?と思わずにはいられなかった。私のクローン病発覚のきっかけとなった痔瘻は下痢をしまくっていると肛門に膿が溜まって腫れるという病気で、部位が違うだけでバルトリン腺炎と酷似していた。これ、部位が前に来ちゃっただけで痔瘻なのでは・・・?と私は思っていた。その予感は結局のちに、的中することになる。
 小児科の私の先生は、とにかく絶食が好きな先生で、何かとすぐ絶食させられた。結局あんなに泣いていた鼻から栄養剤を入れるスキルも中学生のうちには習得して毎日やっていた。人とは慣れるものである。
でも入院し数ヶ月に渡る絶食は、何度経験しても慣れなかった。我慢できずにこっそり売店で売っているものを食べたことも余裕で何度かある。しかし、大学生になり、病院から大学に通うようになった頃、私は度重なる絶食に限界を迎えた。先生と真っ向から対立して、
「それならもう消化器科に行きなさい!」
 と言われた。お母さんに『そんな子はもう出て行きなさい!』と言われるのに似た感じだった。噂では消化器科では絶食ではなく強めの薬を使い、色々なものを食べられるということだったので、私は消化器科に行けることが嬉しかった。
 消化器科での私の担当医はアンパンマンに似た、低音ボイスが素敵な先生で、すぐに噂通り強めの薬を使うことになった。
先ほどの私の予感はビンゴで、結局その強めの薬を使うことによってバルトリン腺炎が全く起きなくなった。私はもう婦人科で股を開いて診察台に乗ることがもうなくなることが物凄く嬉しかった。私は羞恥心が死んでいるので恥ずかしいというよりは他人様に自分のそんな部位を見せることが申し訳なかったのである。
 それから私は絶食や食事制限をほぼしなくて良くなったが、大学を卒業する頃には私を悶絶級の腹痛が不定期に襲ってくるようになった。その痛みは一度やってくると立っていられないほどで、うずくまったり体をよじらせては何とか痛みが通り過ぎるのを待った。その発作的な腹痛は私が就職してからも私を襲って来て、私は初めて就職した会社を半年で辞めることになる。
そして入院し、いろいろな検査をし、小腸と大腸の繋ぎ目に狭窄(腸が超狭くなっているところ)が出来ているということがわかり、そこが激痛の原因だろうということになって、開腹手術をして狭窄部分を切除することになった。一度私の腹痛発作に遭遇した担当医は、私のあまりの痛がりっぷりにビビり、本来ガン患者が使う痛み止めの注射を処方した。この痛み止めが、まあ気持ちよくて、痛みが消えるとともにすごくフワフワした感覚になるのだ。私はちょっとでも痛いとこの痛み止めをキメてもらってはフワフワを楽しんでいた。私がもし違法薬物に手を出したら簡単に中毒者になれるだろうなと思う。
そして手術のため外科へ移り、手術の説明やらを受けていると、
「手術の翌日、荷物を持ってお部屋を移動してもらいますね〜」
 と言われた。外科の医者も看護師も、開腹手術ということに慣れすぎていて、それがどれだけ痛くてツラいかなどはもはや気にならないようになっているというのがよくわかった。私は切腹した翌日に部屋の移動・・・?正気か・・・?と思っていた。
 切腹手術自体は麻酔がかかってすぐ眠り、目を覚ますと様々な管に繋がれていた。集中治療室で様々な痛み止めを注入されているというのに、おなかがレーザーで焼かれているように痛くて、呼吸をすると痛みが増すので痛みをなるべく抑えるために呼吸を止めると、『こいつ息してないですよ!』と機械が鳴るので呼吸を止めることもできない。私はあんなに苦しい夜を他に知らない。余談だが私はその夜になんともタイミング悪く生理になり、看護師さんにナプキンを当ててもらうという羞恥プレイも味わった。体内のそれぞれの器官で連携してなんとかその夜だけは避けてほしかったと思った。
それからしばらくは切腹部の痛みで地獄のようだった。それなのに『腸同士がくっつくから歩いて下さい』と半ば脅しのようなことも言われ歩くことも強要された。お腹の中の出血を出すということでお腹の中から管が出ていたのも痛怖かった。
 ちなみに切腹箇所はホチキスで止められており、抜糸する時はノー麻酔でホチキスをグイグイと取るので泣くかと思った。できればもう二度と切腹手術はしたくないと思っている。クローン病においては、それは多分不可避なのだが。
 切腹してから十五年くらい経つが、今の所はしばらく切腹しなくてよさそうだ。ただし、常にお腹を下している状態なので、何がどうなってそうなるのかよくわからないが、私は定期的に肛門狭窄(肛門が狭くなりすぎて便が通れなくなる)を起こし、肛門科で麻酔をして肛門拡張をしてもらわなければならない。私は一度それで入院したことがある。肛門科に入院、というのは羞恥心が死んでいる私でもさすがに恥ずかしいものがある。できればもう肛門科には入院したくない。しかし、そろそろ定期的な肛門科の季節である。そう考えるときゅっとお尻に力が入る。
  余談だが私が病気になってから父が激痩せして町内会の人の間で『イツキさんはガンになったらしい』と囁かれていた。父が激瘦せした理由は、大好きなお酒を断ったからである。両親は、私が病気になった時、
「宗教の教えで子どもが十五歳になるまでに病気になった場合は親が悪いと言われている。だからお前の病気はお父さんお母さんのせいだ、申し訳ない」
 と謝ってきた。トリッキーすぎて当時の私はめちゃくちゃビビったのを覚えている。私は別に謝ってほしいわけはなかったし、謝られたところで病気が治るわけでもないので『お、おう』くらいのリアクションをした。
 それから父は大好きなお酒をやめ、私が毎日飲んでいたクソまずい栄養剤を一緒に飲むようになった。多分それは不器用な父なりの寄り添いと願掛けだったんだと思う。
 母はよくクローン病でも食べられる料理をしょっちゅう調べては作ってくれていた。

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