死にたみという希望


要約すると、
「あなたの死にたい気持ちを尊重したい。誰にも否定される筋合いはない。その気持ちを大事に仲良く生きていくのも悪くないよ」
と思っている話を書きます。



学生時代の私は、家と学校が自分の世界の全てで、
そのどちらでもうまくやれない自分はこの世界に居場所がないのだと思っていて、
実際にその頃の自分には心安らぐような居場所はどこにもなかった。
ドラクエでたとえると常にHPもMPも残り1の状態で毎日過ごしていた。
私の世界に宿屋は存在しなかった。

親はIQが3くらいしかなく 、頭が悪くて新興宗教信者で無職で、
子どもを褒めることはないどころか馬鹿にして笑い、
学校では私は貧乏で一家で神社の奥に住んでいる上、アトピーがキモくて暗いので当然のようにいじめられていた。

「学校に行きたくない」なんて親に言えば罵倒されることがわかりきっていたのでそんなことを言うこともできず、
息をするのさえ億劫に感じて、
毎日常に息苦しくて心臓が痛くて、
気付けば私は慢性的な頭痛を抱えるようになっていた。

「頭が痛い」
と言って保健室に行けば、
ベッドで寝かせてもらうことが出来て、
その間だけは少しだけ息をしやすくなっていた。
カーテンで仕切られた私だけの真っ白な空間を、
私は逃げ場にしていた。
HPもMPも全回復はしないまでも、
ホイミくらいの回復力はあったように思う。

ここにいれば誰にもいじめられないし、馬鹿にされて笑われることもない。

私にとって保健室のベッドは簡易宿屋であり聖域だった。



それでも、聖域住まいは長くは続かなかった。
保健医に、
「そんなに毎日頭が痛いなら病院で検査を受けなさい」
と言われてしまったのだ。

親に毎日頭が痛いと言って保健室にいることがバレるのはまずい。
「頭が痛い?それくらい我慢できるでしょ」
と言われて終わりだろうし、病院代がかかるので病院へ連れて行ってくれるとは到底思えない。


私は一瞬で聖域を失った。
こんな状態ではスライムと戦うことすら出来ない。


毎日、シンプルに「死にたいな」と思っていた。
学校ではいじめられ、家(神社)は風呂がなくふた部屋に家族七人がぎゅうぎゅうでプライバシーも何もなく、親に文句を言えば「うるさい!」と一蹴され、全身に広がったアトピーであちこちの関節がかさぶたのみで構成され、動くとかさぶたが割れて血が滲んだ。


こんな苦しみをこの後どれだけ続けていけばいいのか想像もつかないし、
いつか終わりが来るのだとしてもその時まで自分が耐えられる気もしなかった。
私は毎日図書室から借りた本を読んではその世界に逃避したり、
父が誰かからもらった古いワープロで自分の苦しみを文章に書き殴りまくることで何とか正気を保っていた。
割とがっつり死にたかったけれど、私には死ぬ勇気を持ち合わせてもいなかった。
「死ぬ勇気がない」
その理由だけで、私はただ毎日を死んだように生きていた。
多分ビジュアル的には「くさった死体」が近かったと思う。


中学校に上がってからは、
通う中学校が住んでいる神社の隣だったので、
ストレス度合いがMAXになった。
神社暮らしを隠したいのに、学校中の誰もが全員我が住まいの神社を目にしながら登校するのだ。
逃げ場がないなんてもんじゃなかった。
学校中の生徒全員に恥部を晒しながら中学校生活を送らなければいけない。
私の三年間は地獄になるな、
という確信とともに中学時代は幕を開けた。

勿論確信は的中し、
つらすぎる一年生を終え二年生になってから、
ある時から肛門に徐々に強くなる痛みを感じて、
我慢できないほど肛門部が腫れ上がり熱を持ち、仕方なく羞恥心を捨て去り肛門科を受診することになった。
ベッド上に横たわり、ズボンも下着もおろしてお尻だけを突き出した状態で先生を待った。捨てたと思った羞恥心は、全然生きていた。

めちゃくちゃに恥ずかしい。

人生でこんな格好で初対面の人と接する日が来るとは思わなかった。
診察はあっという間で、すぐに腫れた部位を切開し、膿を出し切るためのストロー的な管を入れる手術をすることになり、
「多分難病ですのできちんと病院で検査を受けて下さい」
と言われた。
初めて聞く病名、そして、
「病気が悪化するので油脂が入っているものと繊維質なものと辛いものは食べないで下さい」
との困難すぎる指示を受けた。
私は痛すぎる、ストローの刺さった尻を抱えたまま渡された病気の説明が書かれた本を読み、
「完全に人生が終わったな」
と思った。

検査に行った病院で胃カメラや大腸カメラ、バリウム検査など消化器の検査のフルコースを終えると、私は死にそうになりながら「やっぱり難病ですね」と告げられた。
その病気は国に難病指定されている病気で、
とにかく美味しいもののほとんどが食べてはダメだった。
ラーメン、カレー、ステーキ、ハンバーグ・・・
そのどれもが「NG食」だった。
まだ若いのに、食べられるのは白米やうどん、豆腐、白身の魚、肉ならささみ。
そんな精進料理のような食生活をまだ中学二年生なのにしなくてはいけない。
何なら難病で原因不明で治せないので、その食生活を一生続けていかなくてはいけない。

はい終わった。
終わりに終わった。
私の人生、まだ始まってもいないのに終わった。

私は「完全終了」という気持ちに包まれた。



もう、HPもMPも完全にゼロだった。
戦闘不能で棺桶に入って何も出来ない状態だった。
そんな私に両親は私の予想の斜め上の行動をとってきた。

「お前の病気はお父さんとお母さんの信心が足りないせいだ、悪かった」

と、両親揃って正座の状態で謝ってきたのだった。
私は両親の行動が意味不明すぎて固まったのだが、
どうやら両親の信仰する宗教的には子どもの病気は親のせいらしかった。

あー、うんうん、そうだね、多分あなたたちが無職で貧乏で神社に住んでたストレスは絶対に関係するだろうね、
でも信心が足りないせいって何????多分絶対にそのせいではなくない?????だって神社の奥に住むほど貧乏オブ貧乏でもまだ信心が足りないんだったら世の中の人全員難病じゃん???????
と、思ったけれど言わなかった。
言えなかったわけではなく、言わなかった。
言ったところでどうせ面倒なことになるだけだから。


こうして、中学二年生で私の肩書きに「難病持ち」も加わった。
地獄だな、と思った。
思ったというか、私にとっては完全に地獄だった。
私は宗教に熱心すぎる両親やその一族を見て育ったのに、
「神様は多分いないし、いても性格が悪すぎて嫌いだな」
と思っていたのが、
病気になったことで更に「アンチ宗教」モードになった。


そんな私の「アンチ宗教」モードとは裏腹に、
私の病気は入退院を繰り返すので、
入院するたびに親戚の信者がやってきて、
「お前の病気がよくならないのは信心が足りないせいだ」
と鬼の首でもとったように言った。
よくも病気で入院している人を自分だけの理屈で責められるものだなあと思った。
私はHPもMPもゼロで棺桶に入っているのに、棺桶の外からガンガンに殴られている気持ちだった。
私にはもう戦闘能力はないというのに。

ただただ、
「うるせー」
と、思っていた。
んなわけないだろうが。
静かに療養させてくれ。
お前らはそんなことすらできんのか。
毎回思っていたけど面倒なので言わなかった。
そして親戚信者はその宗教的にいうとホイミの呪術を毎回かけて帰って行った。
私は「この呪術の声が同じ病室の人に聞かれるの、めっちゃ嫌だな」
と思っていた。


何とか中学を卒業し、
高校は、病気のことがあるのでアルバイトをしながら定時制の高校に通った。
高頻度で入院&絶食していたが、病院から学校に通って留年はせずに済んだ。
勉強が嫌いだったので、高校を卒業したら働こうかと思っていたが、
高校の時に「高卒と大卒では貰える給料が違う」と教えてもらい、
お金に飢えまくっていたので大学に行くことにした。
大学は、やっぱりお金がないのでアルバイトをしながら夜間部に行った。
そして変わらず高頻度で入院&絶食した。

けれど、大学二年生くらいの時に、私に大きな転機が訪れた。
「絶食が嫌すぎて担当医と喧嘩して担当医が変わる」
という、真っ向から自分の意見を言って喧嘩して誰かとの関係が終わるなんて初めてのことを経験した。

まさかそんな風にことが運ぶとは思わず驚いたけれど、それは結果的によい方向に働いた。
前の担当医は古い治療が大好きで、基本的に強い薬は使わずすぐ入院で絶食させられた。
けれど、新しい担当医は、患者のQOLを大事にする人で、
強い薬を使うが絶食しなくていい、調子がよければ色々食べていい、
という人だった。

私は劇的に入院する頻度が減り、
昼間バイト、夜間大学、その後またバイト、
という普通の人より元気なのでは?というくらいに働いて学校に行った。
そして、何とか大学を卒業して就職をした。
けれど、やはり病気がありつつ会社員というのは難しく、
自分で資格をとって自営業になって、今に至っている。
私を苦しめた親とは、
距離を置きまくりに置きまくっている。



端から見れば、
病気がありながらも、まあなんと順調な人生、かもしれない。

でも、私はこの間もずっと死にたかった。
死にたみは、基本的に私の中にずっと存在し続けていた。
それは進学をしようと、就職をしようと、
恋人ができようと、
自営業になり自分の仕事を褒められようと、
全く変わらなかった。
ずっと、死にたみは、
今現在も心の中にあり続けている。


ずっと苦しくて、
心の中から死にたみをなくしたかった。
死にたいと思わない人生を歩みたかった。

でも、自分なりに努力しようと、嫌なことから逃げてみようと、
どう足掻いてみたところで、そうはなれなかった。
やっぱり私は残念ながら死にたいままだった。


でも、私は死にたいけど怖いから死ねないだけでここまで生きてきただけの人間だけれど、
案外「生きていてよかった」と思える瞬間も、時々はあったりするのも事実としてある。

私はあなたの「死にたい」を否定しないし、
あなたの辛さを何よりも尊重していいと思っているけれど、
「いざとなったら死ねばいい」
と考えることほど楽なこともないと、思えるようになった。


数年前、友達が自殺をして亡くなった。
とても自死とは縁がありそうには見えない、
明るくて可愛くて誰からも好かれる子だった。
とても近しい人に対してはその予兆があったようだけれど、
私にはわからなかった。
葬儀で、私はとても「その子に生きていて欲しかった」と思った。
その子の悩みなんて私に解決できようもなかったけど、
それでも無責任に彼女に生きていて欲しかったと思った。
でももう彼女はこの世にいない。

彼女は、どこに行ったのだろう。
いま、彼女はどうしているだろう。

無宗教の私が考えたのは、
「とても居心地のいい場所にいてほしい」
だった。
こうして天国とかいう概念が作られていったのだとも思った。


死は救いで、
彼女はとても穏やかで居心地のいい場所に行ったんだと思うようになった。


死は、救いでもある。


いざとなったら死んでもいい。


「死ぬのはよくない」
なんて、簡単に言えるのは無責任な人だけだと思っている。
「死ぬのはダメ」
そんな言葉は、「あなたが死にたいほどつらい」出来事を、
解決できる人以外口にしてはいけない言葉だと思っている。
簡単に「死んではだめだ」という人は、
あなたの「死にたいくらいつらい」気持ちに真っ向から向き合っていないから、
解決できないくせに、正論ぶってそう言えるんだと思っている。
あなたの辛い気持ちを否定する人が、
簡単にそう言えるのだと思っている。


そんな無責任な人の言葉で、
「死にたいのはよくないことだ」
だなんて思わないで欲しい。
人によって「辛い」の尺度も違うのだから、
あなたはあなたの辛さを大切に、尊重していい。

死にたいくらい辛いのは、
そのくらいのことにあなたが耐えている証だと思う。

だから、別にあなたは「死にたい」を殺さなくたっていいと思う。



死にたい、とはまるでネガティブな考えのようで否定されがちだけれど、
実はあなたは「いざとなったら死んでもいい」という、
裏切りようのない希望とともに、生きている。


「死にたみは希望」として私はとらえていて、
その希望があるおかげで今日も生きられるなら素晴らしいとさえ思う。


どうかあなたが無責任な人の言葉でこれ以上辛い気持ちになりませんように。



それでも、あなたの「いざ」という日が、
少しでも遠い日であるように、
無責任な私は願っている。

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